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PULUM -希望の花-  作者: 雨女 雨
序章 はじまりの話
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006 ユン・ジンイーの手帳

【人間を吟味せよ。疑う者には疑わせ、信じる者には信じさせよ   --フランツ・カフカ】


   ◇ ◇ ◇


「私はね、仕事柄、人を見る目には結構自信があるんだ」


 ジンイーさんは、語り聞かせるように柔らかい声音で言った。


「ライターなの、私」

「ライター」

「そう。主に東南アジアの紛争地帯で、戦争孤児の問題について言及するルポを書いてた。実際の戦場にも行ったことあるよ。だからかな、何となくわかるんだ。人間は死が近いとその本質が出る」


 テーブルに置かれた茶色い手帳。革張りで模様がなく、サイズは掌程度。一見、何の変哲もないただの手帳である。しかし、自分の部屋の引き出しに入っていたと言っていたジンイーさんは、宝物でも愛でるかのようにその表紙を丁寧に撫でた。


「ここ、読んでみて」


 短い爪が紙をめくる。爪先はよく見るとところどころ欠けていて、僅かにインクの染みがあった。


「『記者-深層の探求者』?」

「私の潜在魔法(スフィア)だよ」

「えっ」

「こっちが、私の信徒の願望(ヌル)。『真贋』」


 再度ページを覗き込む。紙の上には、几帳面な文字で無数の情報がびっしり書き込まれていた。名前、出身地、性別、身長、得た恩恵に、どの神様の信徒か。パーソナルデータらしき数字まで。


「どういう、ことですか?」

潜在魔法(スフィア)って、地球での人生が形になるんだっけ。私の今までの人生で、一番望んだものがこれなんだって」


 笑っちゃうよね。そう言うジンイーさんの顔は何一つ笑ってなどいなかった。


「戦争なんて最悪だ。やる方は良くても、巻き込まれる方はたまったもんじゃない。みんな自分の命が大事だから、見捨てて、裏切って……戦場ではそんなことばっかりだった。きっと、だからなんだろうね。私は心の底で思ったのかも。今目の前にいる人間がどんな奴か、最初から全部全部見えればいいのにって」

「…………」

「私の潜在魔法(スフィア)は、人間の生態情報の可視化。ここにあるのは、それを私が書き出したもの。私の視界には、これが全て映ってる」


(これは……)


 これは、多分、最強と呼ばれるに値する能力なんじゃないだろうかと僕は思った。だって、事前にどんな相手がいて、何が得意で、どんな力があるのかが全てわかってれば、幾らでも準備が出来るし、対策も取れる。


(……生き残れる)


 ドゥルガさんも言っていたじゃないか。無駄に情報は渡さない方が良いと。知識は、それだけでアドバンテージなのに。なぜ、それを彼女はこんなにあっさり、他人に伝えてしまえるんだろう。


「……どうして、僕なんかに」


 ジンイーさんは答えなかった。無言で次のページを捲る。そこに書いてある内容を読み進めて、特記事項、と銘打たれた部分に書かれた文言に、僕は思わず悲鳴を上げた。


「っ‼︎」


 なりふりなんて構っていられなかった。ダッ、と洗面所に駆け込む。蛇口を捻って胃の中のものを吐き出そうとして、さっき食べたばかりだったことを思い出した。すんでのところで耐える。ここは家じゃない、落ち着け。

 轟々と途轍もない勢いで水が流れている。


(どうして)


 シンクに両手を付いてしゃがみ込んだ。もう立っていられなかった。


(どうして……)


 読まされたのは、僕のページだ。そこには、僕のことが詳らかに書かれていた。身体中の鬱血。右太ももの緊縛の跡。彼女の目には、この明らかな情事の痕跡はどう映っただろう。転移で変に時間がずれていなければ、雪子さんと寝たのは一昨日の夜中のことだ。当然残された印は消えてなどいない。


(いや……)


 落ち着いて考えれば、僕はもう十八なのだから、誰かとセックスくらいはするだろう。異常な量の鬱血も、足の付け根の圧迫のアザも、少し盛り上がりすぎてしまったものだとすれば別に何もおかしくはない。むしろ、こうやって過剰に反応する方が、何かあると思われる。


(平然とすべきだった。そうすれば良かった。普通は、叔母と寝てるなんて、きっと思わない)


 あざの上に爪を立てる。その手が情けないほどに震えていて、自分のみっともなさに余計に反吐が出そうだった。


(……また、被害者面か。自分で決めたことだろ)


 雪子さんに初めて誘われた時、多分、僕がちゃんと断れば、それ以上雪子さんは何も言わなかったと思う。だけど僕は強欲だったから、僕の犯してしまった罪をなかったことにするために、花奈の進学を口実にその提案を受け入れた。そうすることがきっとみんなの幸せに繋がると思ったし、実際良い方向に変わっていったのだから、あの時の僕の選択は正しかったのだ。

 それでも僕は、自分の醜悪を人に知られるのがこんなに怖いことだと思っていなかった。ずっと、それこそ墓場まで持っていけるはずだった秘密を、他ならぬ今日、出会ったばかりの人に知られて、物凄く動揺している。心臓が痛いほど脈打っていた。


「……晴一郎くん」


 背後に立つ気配に、処刑台に立つ罪人はこういう気持ちなのだろうかと僕は思った。


「……すみません。ちょっと、食べすぎちゃって」


 すぐ戻ります、と震える膝に手を当てて立ち上がろうとする。太もものアザを服の裾でさりげなく隠してから、着替えさせてくれたのがこの人なら、今更かとも思った。僕の身体には、言い訳の仕様がないほど、雪子さんの気配が息づいている。


「ジンイーさん」


 目を伏せる。


(だから、僕を見ないで)


「晴一郎くん」


 それは、感情を押し殺そうとして失敗したような、激情に震える声だった。


「本題は、そこではなかったんだけど」


 どんな顔をしているのか、とても見ることは出来なかった。


「見逃せない。今の反応、それ、同意じゃないよね」


 決めつけたような言い方。首を振る。いいえ、いいえ。


「同意です。十八歳は日本ではもう立派な成人です。何も問題ありませんよね?」

「そのアザ、普通じゃないよ」

「プレイの一貫だとしたら。嗜好は人それぞれなのでは?」

「本心から望んでるならね。でもそれは、本当に君の嗜好? 君が相手に頼んだの?」

「はい」

「じゃあどうして、そんなに震えてるの?」

 やめてくれと僕は思った。これ以上、僕を惨めにさせないでくれ。

「あなたには」


 息が上手く吸えなかった。喘ぐように呼吸する。


「関係、ない」

「っ、ごめん」


 語気が乱れたからだろうか。間髪入れずジンイーさんの口から鋭い謝罪が飛び出した。荒い足音が駆け寄ってくる。


「ごめん! ごめんね、違うの! 君を追い詰めるつもりじゃなくて」

「触、るな」


 思わず払いのけてしまった手は、そっとジンイーさんの胸の前に戻っていった。その眼差しが悲しみに満ちていて、ハッとする。やってしまった。彼女に悪気がないことなんてわかってるのに。

 すみません、と絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。


「……私にも妹がいて」


 ジンイーさんは僕の前に跪いた。告解の日に審判の前に項垂れる罪人ようにゆっくり首を落とす。


「私と違って小柄で、すごく愛嬌のある子で」

「…………」

「うちは父親が、もう本当にどうしようもない奴でね。碌に仕事もしないくせに、酒を呑むと手がつけられないほど暴れるような人だった。……妹は、私の前ではずっと気丈に振る舞っていたけど、裏ではずっと彼奴の相手をさせられてた」


 私は彼女を救えなかった。そう言うジンイーさんの声は震えていた。


「だから、ごめんね。今の君が、あの時の妹とダブって見えちゃった。今度こそ救えるかもって。妹と君は違う人間なのに、本当にごめんなさい」


(……優しい人、なのだろう)


 改めて思う。出会ったばかりの他人を救おうとしてしまうくらいには、この人はきっと心の綺麗な人なのだ。顔も知らない彼女の妹に思いを馳せる。小柄で愛嬌があり、家族の前でも気丈に振る舞う、ジンイーさんに似た女性。


(僕とは、全然違う)


「……相手は、叔母なんです」

「え?」

「雪子さんっていって、母の妹で……多分、ずっと前から僕の父が好きだった」

「…………」

「母が病死して、父が失踪して、雪子さんは僕を引き取ってくれました。でも、そのせいで雪子さんの家族はめちゃくちゃになった」


 僕が父に似ているせいで、僕を引き取った雪子さんは、一生父を忘れられなくなった。離婚して、実の娘の花奈に冷たくあたり、僕を父の代わりにしなければ生きられないほど、深く父を愛していた。雪子さんは、とても一途な人だったから。

 だから。


(誰が悪いのかと言われたら、それはきっと僕なんだろう)


 僕さえいなければ、雪子さんも花奈も幸せになれたのだから。


「同意です」

「……うん」

「一緒の家に暮らしてた、雪子さんの娘にも知られていません」

「うん」

「あのことは、僕と、雪子さんしか、知らないはずなんです」

「うん」

「誰も知らないはずで……誰かに知られたのは、これが初めてだから」

「そうだね」

「い、今思うと、誰にも知られてなかったから、僕は平気だったのかも、しれなくて」

「……晴一郎くん?」

「た、しかに、雪子さんに言われたのが、は、始まりだけど……雪子さんは、僕が嫌がれば、多分、無理強いはしなかった、はずで、僕が、あの家以外に、行くところがなくて」

「晴一郎くん、あのね」

「自分のために、自分で、決めたことなんです。こんな風に、感じるなんておかしいのに、い、今、本当に、自分が気、持ち悪くて、恥ずかしくて、仕方がない」

「ごめんね。大丈夫だから、深呼吸しよう。落ち着いてね。大丈夫。大丈夫」


 他人に秘密を話すことが、こんなに恐ろしく感じるなんて、僕は今の今まで露ほども考えちゃいなかった。自分でちゃんと汚い生き方をしてるって自覚があったのに、それでも良い、それがみんなにとって最良だと思っていたのに、人に知られたとわかった瞬間、息が出来なくなった。とにかく自分がひどく醜く、穢れているように感じで、恥ずかしくて、情けなくて、死んでしまいたくて堪らなくなった。


「嫌な思いをさせてごめんね。大丈夫、話したくないことは、無理して話さなくて良いんだよ」

「ジンイー、さん」

「言い訳に聞こえるかもしれないけれど……手帳のページを君に見せたのは、君を責めようとか弱みを握ろうとかしたわけじゃなくて、ただ単純に、私の力を見て、私のこれからの言葉を信じる材料にしてほしかっただけなの」


 でも、とジンイーさんが続ける。


「普通は、こんな風に自分のことを暴かれたら怖いに決まってるよね。私の配慮が足らなかった。無理に話をさせて、本当にごめんなさい。でも教えてくれてありがとう」


 首を振った。こちらを見つめる真摯な瞳の奥に、僕の強張った顔が映っていた。


「……僕の方こそ、すみませんでした」

「晴一郎くん」

「自分では、割り切ってたつもりなんです。だけど、多分、そんなに自分では受け入れられてなかったのかも……一年も前からずっと続けていたことなのに、変な話ですよね」

「そんなことない」

「でもやっぱり、あの行為は同意だったんです。最後に決めたのは僕自身で、見返りもありました。だから後悔はない。むしろ、そんななのに……過剰に反応して、すみませんでした」


 それを聞いたジンイーさんは、何かを逡巡するように動きを止めた。少し迷った様子を見せてから、意を決したように、真っ直ぐこちらを向いて居住まいを正す。


「ごめんね、お節介なのはわかってるけど、やっぱりこれだけは伝えなきゃと思って……いや違うか。私が真っ当な大人であるためにね、これだけは言わせてほしいの」

「はい」

「君が受けていたそれは、それがどんな事情であっても、絶対に正しいことなわけがない。男の子とか、女の子とかなんて関係ない。妹の時と同じ、虐待。でもその罪は、君じゃなくて君の叔母さんが負うべきもので、君とは何一つ関係はないんだよ。君の叔母さんは、罰せられなきゃならないことをした。君のせいじゃなく、叔母さん自身のせいで」

「…………」

「だからね、もし今、自分を憎んでしまいそうなら、自分のこと、そこまで追い詰めなくても良いからね、晴一郎くん。そして、もし今後、このことが他の誰かに知られたとしても、それが君自身を損なうことにだけは、絶対ならないことも覚えておいて。堂々としていて大丈夫だからね」


 でも、これからどんなことがあっても、もう二度と自分の身体は売っちゃダメ。私との約束。

 そう言って、ジンイーさんは膝に手をつき立ち上がった。流れ続ける水を止めて、ここは冷えるから向こうに行こう、と言う。促されるまま、歩き出す。もう震えは止まっていた。


 部屋に戻ると、窓から差し込む夕陽は更に濃さを増して細く長く伸びていた。鮮やかな橙に、暗い色が混ざり合って溶け合っている。飛び出した拍子に倒してしまった椅子を戻して座り直すと、ジンイーさんはようやくホッとしたように息をついた。


「私も信徒だからさ、敵同士って意識があると思って、私の言うこと信じてもらえないかなって思ってたんだけど、信じてもらう方法なんて、幾らでもあったんだから、最初からこうすれば良かったね」


 差し出される手。握って、と催促するジェスチャー。


「私の心の声、満足するまでずっと聞いてて良いよ。これからも、怪しいって思ったら、いつでも触って、聞いて」


(そっか)


 彼女の潜在魔法(スフィア)なら、当然僕の力もわかってる。わかっていない素振りをしたのは、一度目も、二度目も、あの時近くにドゥルガさんがいたから。


(彼女は最初から、僕を守ろうとしてくれてた)


「要りません」


 笑ってみせる。ジンイーさんが、息を呑む。


「僕も、貴女を信じたいって思うから」

「……そっか」


 ありがとう、晴一郎くん。


「やっぱりさ、神様にそう決められたからって命を奪い合うのはおかしいよね。二人で生き残る道は、きっとあるって私は思う。だから君も絶対に諦めないで」

「はい」

「ふふっ。やっぱり私、見る目あったなあ」

「?」

「君はさ、さっき、どうして僕なんかに、って言ってたけど……私、人を見る目には自信があるって言ったでしょ? 君だから話したんだよ。これから起こることを黙って、私一人でも逃げられたかもしれないけれど、君の情報を見て、君と一緒に逃げたいって思った。君の潜在魔法(生きてきた人生)は、人に寄り添いたいって思う優しい気持ちがなきゃ得られない力だから」


 僕は再度手帳に目を落とした。


 --視線の先には、『エンパス-共鳴の花師』の一文がある。

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