002 魂の丘(夜)②
【運命の鍵は、星々の中ではなく、自分自身の中にある --ウィリアム・シェークスピア】
◇ ◇ ◇
魂の丘と呼ばれるこの場所には、時間という概念はないらしい。いつの間にか、謎の女性の手には金色の丸い金属が握られていた。星を見る道具なのだろうか。二十一世紀の現代から見ると原始的な作りのそれは、中空の円盤と平らな板から出来ており、縁に何かを測定するメモリが付いていた。
女性はその星見の道具を左手で持ち上げ、目の高さに掲げると、今度は右手で円盤についた針のようなものを弄っている。
「ここが、もし本当に僕の心の中だと言うなら、この空は偽物なんじゃないですか?」
「どう捉えるかは個人の自由でしょう。それに、こんな見事な星空は天界でもそうは見られない」
(天界で、ということは、やっぱりこの人も神様なのか……)
神様と言えど、手が背中に沢山生えていたり、頭に金の輪っかがついていたりするわけではないらしい。とても迫力のある綺麗な人ではあるけれど、存外、普通の見た目だ。人間と大差ないんだなあ、とまで考えて、そもそも人間を作ったのは神様なんだから似ていて当たり前なのかもしれないとも思う。
草の上に腰を下ろすと、僅かに土の香りがした。触れた葉は滑らかで、瑞々しさを感じる。まるで本物の草原のようだった。
「素晴らしい……」
女性が数歩、横に立ち位置をずらした。そしてまた同じように円盤を掲げる。
「……望遠鏡、の方がよく見える気がしますけど」
最近は月の肌まで見えるものもあるらしいし、と、いつぞやのニュースで聞き齧った内容を伝えると、女性は虚をつかれたような顔をした。それから顎に手を当てて「ええ、ええ。そうでしたね」と頷く。
「もうあれから、随分と時が経ったのでしたね。人類の進歩は目覚ましい」
「あの」
「すみません。もう人間の感覚では、随分と昔のことになるのでしょうか。あの時代、よく友人と地球の星を見たのです。ですから、私にとってはこちらの方が馴染みがある」
女性が手を下ろすと、いつの間にか円盤は消えていた。しかし名残惜しむかのように、視線は上空に向いたまま動かない。
「お友達も神様ですか?」
「ええ、今も天界に。最も、ここ数百年は会っていませんが」
さすが神様だ。疎遠のなり方のスケールがでかい。
「……喧嘩、ですか?」
「どうでしょう。明確な理由はなかったように思います。ただ、彼女の苦しみをその時の私は理解出来なかった。彼女の困難にその時の私は何もしなかった。それだけです」
淡々と語る女性の口元には、それでも柔らかい笑みが浮かんでいた。その神様のことを思い浮かべているのかもしれない。
(僕は……どうだろう)
学校でも、家でも、当たり障りのない関係しか築いてこなかった。僕が消えて、泣いてくれる人はいたのだろうか。雪子さんは、花奈は、偲んでくれたのだろうか。
もし僕にも、こんな風に、時を経てなお懐かしんでくれる人がいたら、それはどんなにか。
「……そのお友達は、幸せですね。離れていても、貴女のように、自分を大切に思ってくれる人がいる」
女性は応えなかった。ただ、こちらをじっと見つめて、それから小さく息を吐く。
「余計なことを話しすぎましたね。もう考える時間は充分でしょう。……貴方の望みを、聞かせていただけますか?」
転移をするに当たって、望みを一つ叶えましょう、と女性は言う。それは、神様に選ばれた人間(彼女は『信徒』と表現していた)が得られる、恩恵のようなものらしい。
「もう一度、お伝えしておきましょう。神の代理人である信徒が授かれる恩恵には、三つの種類があります」
右手の指が次々と、数を示すように空へ伸びる。
「第一に、貴方の魂の特性を形にしたもの。第二に、神の意向を形にしたもの。第三に、貴方自身の望みを形にしたもの。貴方に決定権があるのは第三の恩恵のみです」
僕は無言で頷いた。間髪入れず、よろしい、と先生のような返答。
「一つ目の『魂の特性』とは、すなわち、貴方が今までの人生で、最も強く欲した力のことです。それが魔法という現象となり体現する。潜在魔法と呼ばれています」
「潜在魔法」
「二つ目の『神の意向』とは、すなわち、貴方を選んだ神自身の権能のことを指します。それを信徒は、無条件で借り受け、己の魔法として使用出来るようになる。加護、あるいは王の特権と呼ばれています」
「つまり、ええと、その二つは、内容を選べないってことですよね?」
「ええ、その通り」
「それって、僕の場合はどんな力なんですか?」
「それは……転移してみてからのお楽しみです」
「えっ」
「というより、私にそれを伝える権限はない、と言ったほうが正しいかもしれませんね。代理戦争は、全ての神に対して公平でなければならない。それを貴方に伝えるならば、私は他の信徒にも伝える必要がある」
「なるほど」
「ご納得いただけたところで本題です。三つ目の『貴方自身の望み』とは、すなわち、貴方が今現在、欲する力のことです。それを聞き、叶えるのが私の仕事」
女性が僕の隣に腰掛ける。どこからか吹き荒ぶ強い風。それに煽られて、ワンピースの裾が大きくはためいている。空を見上げると、いつの間にか欠けた月が正円に戻っていた。
「仕事、ですか?」
「ええ。私は万物の運命を司る、運命の女神ですから。私の権能はその者の運命を決める。この力があるからこそ、私は何千年も前から代理戦争の見届け人であり……それを使命として、それこそこの数多の星のように、無数の人の子を転移させてきた」
壮大な話である。それにしても、そんなに昔から沢山の神様を減らしてなお、まだ神様の数が多くて困っているのだろうか。
(どれだけのペースで、神様って生まれるんだろう)
泉のようにポコポコ無限に湧き出る神様を想像して、少し笑ってしまった。女性が訝しげに、首を傾げてこちらを見る。
「貴女は」
どうやって生まれたんですか、と聞こうとして……そこで初めて、僕はまだ、この女性の名前を知らないことに気がついた。
「あの、名前を聞いても良いですか?」
ひたり、とこちらを見据える紺碧の瞳。
「それは構いませんが……そもそも名乗りは必要ですか?」
「え?」
「ここは転移の間で、貴方は例外だとお伝えしたはずです。死んだ者は基本的に生まれ変わります。生まれ変わりの儀はこの場では行われないし、それは私の管轄でもない」
女性は、出来の悪い生徒に言い含めるような口調で続ける。
「良いですか? 魂の丘に招かれるのは、神々が選んだ代理人、すなわち、神の信徒だけなのです。そして一度信徒に選ばれた者の魂は、その後どれだけ転生を繰り返そうとも二度と選ばれることはない」
「な、なるほど……」
つまり、ここを出れば、もう二度と戻ってこれないということだ。
(それは、何だか……)
残念な気がする。この場所が、本当に自分の魂の形をしているかどうかはよくわからないが、夜空は今まで見たどの景色よりも眩く光り輝いていて、胸が熱くなるようだった。美しい天体。これを見れなくなるというのは口惜しい。
そしてそれ以上に、本来出会うことのない神様である彼女と、こんな風に星を見ていることが、何だか奇跡みたいな気がしていた。
「よって、魂の丘の管理をしている私とも、二度と会うことはありません。名乗りは不要だと思いますが?」
「そうかも、しれませんが」
天を仰ぐ。時間の流れとは切り離された空間らしいのに、不思議と月も星も動いているようだった。西から東へ、まるで地球という惑星で未だ瞬いているかのように廻天している。
「今日のことを思い出す時、一緒に星を見たのが貴女だったってことを、ちゃんと覚えておきたいんです。僕は今まで、誰かとちゃんと関わるってことをしてきませんでした。貴女とお友達の神様の話を聞いて、共有した時間をずっと後も、同じように懐かしめるというのは、本当に、すごく素敵だと思った」
視線を横に向ける。女性もこちらを見ていた。初めて真っ直ぐに目が合った。
「信徒の義務とか、代理戦争とか、生き残りだとか……僕が考えているほど、この先の僕の未来は甘くはないのかもしれませんが、新しい世界でまた一から生きるのなら、せっかくなら僕も、地球で出来なかったことをやってみようかなと思います」
無言だった。何かを考えているようにも見える。僕は気にせず続けた。
「お願いを決めました。叶えてもらえますか?」
「……何でしょう」
「この場所に、いつでも来れる権利をください。好きなように。自由に。この先、何度でもここに来る人間相手なら、ここを管理している貴女も名乗らざるを得ない」
息を吸う小さな音。間髪入れず、あはははは、と鈴が転がるような笑い声が続いた。いひひ、ふふっ。意外と笑い上戸なのかもしれない。お腹を抱えて笑う女性には、神聖な雰囲気と、少女のような無邪気さが同居した不思議な魅力があった。
「一本取られたわけですね。あー可笑しい」
「え? あの……」
「本当に望みはそれで良いのですね? 普通の人間は、ここで自己の生存に有利な能力を得る。貴方が今口にした望みを叶えるとするならば、貴方はその絶好のチャンスを犠牲にすることになりますよ」
「……不利かどうかなんて、それこそ、きっとわかりません。だって貴女が言ったんだ。この先は、運次第だって」
「よろしい」
女性が胸の前で両手を合わせる。溢れる眩い光。流れ星でも閉じ込めたのかと思わせるほどの閃光の後、開いた掌の中には黄金に輝く一本の鍵があった。
「これを貴方に授けましょう、梅原晴一郎。この儀をもって、この魂の丘の主人は貴方となる。……そして同時に、今この時をもって、運命の女神が現在保持している、転移の間全ての権限も貴方に委ねられた」
「えっ⁉︎」
「私の名前はフォルトゥーナ。フォルトゥーナ・クロック・ザ・ルーラー。……晴一郎、この丘でまた会える日を楽しみにしています。私も、貴方を忘れない。どうか、この先の道に神のご加護を」
「待ってください! それはどういう」
二の句を告げる前に、真白い手が目元を覆う。猛烈な眠気。数多の疑問が浮かんでは泡となって消える。倒れたのか、頬に土壌の温かさと葉の擦れる感触があった。
「これでいい。これで……」
震える小さな囁き。
「……今度こそ、貴女を救う。待っていて、アンテイア」
祈るようにそう呟く声を聞いたような気がした。しかしその意味を深く考えるよりも先に意識が沈んでいく。
深い海の底のような深淵で、柔らかく髪を梳く温もりを感じた。




