001 魂の丘(夜)
目を開けて、まず視界に入ったのは一面の星空だった。現状把握より先に、その圧倒的な光景に息を呑む。現代日本の住宅街では到底見ることの出来ない、地平線まで続く満天の星々。
震えるほどの美しさだった。
(ここは……)
くるぶしほどの高さの草原に、僕は立っていた。見れば制服のままである。登校途中に、数年前行方不明になったはずの父さんを見かけた気がして、追いかけた。その先で駅のホームから転落し、そして。
(夢、じゃなかったわけか)
頭上から目を落とせば両の掌には何もなかった。持っていたはずのスクールバッグが消えている。ドのつく近眼のせいでかけていた分厚い眼鏡も、どこかへ行ってしまったようだった。仕方がない。不鮮明な視界に些か不安を覚えるが、ここで立ちすくんでいても埒はあかないだろう。
とりあえず歩き出すと、数メートル先に人影らしきものを見た。眼鏡がないせいで、この距離まで気が付かなかった。危険な人だったら、と一瞬思ったが、どちらにしろ、もう死んでいるなら関係ない気もして、気にせず声をかける。
「……こんばんは?」
空を見上げていたらしい人影は、長いブロンドの女性だった。彫刻のような彫りの深い顔立ち。長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳が僕を捉える。
「こんばんは、梅原晴一郎」
何で名前を、という疑問は、不思議と浮かばなかった。目の前にいる女性の存在感はそれだけ現実離れしていた。すらりと伸び、歪みのない背筋。暗闇でも仄かに光る陶器のような白い肌。そして今の、揺蕩う波間のような、静寂と気品を感じさせるアルトボイス。
闇に溶け込む黒いワンピースを翻し、彼女はこちらに近づきながら、僅かに口端を引き上げる。彼女の視線の先には、変わらず無数の星々があった。
「こんなに綺麗な魂の丘を久々に見ました」
「魂の、丘」
「ええ。この空間は、迎え入れた人間の魂の有り様によって景色を変える。今のここは、息を呑むほど美しいですね。貴方の生き様がよく現れてる」
反射的に、僕は否定しようとした。僕は僕の生き汚なさを誰よりも知っている。引き取られた家で気に入られようと媚びた笑顔を振り撒き、懐いてくれる妹のためを装って、結局はあの家での自分の居場所を確立するために、望まれるがまま母親の妹とセックスをする。計算高くて薄汚い、ハイエナのような卑怯者。そんな奴の生き様が、曲がりなりにもこの夜空のように綺麗なわけがない。
それでも、お世辞にも聞いて気分が良いとは言えないそんな内容を、初対面の相手にわざわざ話す必要もないだろう。僕は小さく「ありがとうございます」と頭を下げた。
女性は僕からあと数歩の距離まで来て立ち止まると、それから、「残念、欠けてしまいましたね」と本当に惜しむように呟いた。頭上で綺麗な円を描いていたはずの満月が、いつの間にか三日月ほどに欠けていた。
「貴方を傷つけるつもりはありませんでしたが……私は無用な発言をしてしまったようですね。すみませんでした」
「い、いえ……」
「でも、今の変化で信じていただけましたか? ここは貴方の心の深層。貴方の心が上向けばこの場所は輝き、貴方の心が曇れば美しさは翳る」
「…………」
「良いでしょう。魂の丘のルーツの議論は、またどこかで、機会があればいたしましょうか。そんなことよりも、そろそろ本題に入らねば時間が押してしまいます。こう見えて、この時期の私は多忙ですから」
「……本題、ですか?」
「ええ、本題です。時に、梅原晴一郎。貴方は神に対して、どの程度の知識を有していますか?」
「か、神様?」
何だか突拍子もない話になってきた。けれどまあ、この状況自体が既に突拍子もないのだから、今更不思議がることもないのかもしれない。
僕は素直に「何も」と首を横に振った。
「僕の家は、無宗教でしたから」
「そうですか。今まではそれでも良かったかもしれませんが、これからはそうも行きません」
「あの」
(これから……?)
今朝の記憶は曖昧だ。空気を切り裂くようなけたたましい列車の警笛とブレーキ音。宙に内臓が浮く感覚と、視界の端に映る強張った運転士の顔。目を焼く前照灯の強い光。
夢だと思っていたが、ホームから転落し、轢かれて死んだのはきっと間違いじゃない。そしてここは死後の世界で、これは自分が見せている幻なんだと思っていた。思っていたのだが。
「ここは、どこですか?」
女性が初めて破顔した。笑うと神聖な雰囲気は薄れ、少し幼い印象を与える。彼女は、口元に手を当てて笑い声を押さえながら、「普通の人は最初にそういうことを聞くんですよ」と肩を震わせた。
「ここは魂の丘です。言い換えれば、転移の間」
「転移、の間」
目尻に浮かぶ涙を拭いながら、女性が鷹揚に頷く。
「人間は死んだら生まれ変わります。それには基本的に、老若男女、聖人罪人、貴賤の区別は関係ありません。必ず死後辿る運命、これを転生と言いますが」
ピッ、と指が挿される。
「例外が二つあります。そのうちの一つが今回の貴方のケースです」
「じゃあやっぱり……僕は死んだんですね」
「正確には、地球という世界での運命を断ち切っただけで、貴方はまだ死んでいるわけではありません。貴方にはこれから、成すべき義務を果たすため、別の世界線へ転移をし、新たな人生を生きていただきます」
「ぎ、義務?」
「ええ、それは義務なのです。貴方に拒否権はない」
草原を強い風が吹き抜けていった。そこで初めて、女性の胸元に何かが浮かんでいるのに気がつく。知恵の輪のような真っ黒い楕円が二つ。歪みながら、僅かに振動しつつ絡み合っている。
「まず、私達の状況を共有いたしましょう。現状、貴方が今まで生きてきた地球という惑星には、それこそ、この夜空の星のように無数の宗教なるものが存在していて、そしてそれを人間という生物が各々勝手に解釈し、勝手に信仰している」
黒く彩られた形の良い爪が、宙に瞬く光をなぞる。
「そうすると、必然的に天界の神の数が増えてくる。神の起こりには様々ありますが、神を神たらしめるのは、基本的には人間の信仰心ですから」
「はぁ……」
「まぁ良いです。とにかく、天の楽園というのにも抱え込める神の数というのが決まっていましてね。近年、増えすぎた神をどう間引くかが問題になってきました」
つまりは、神様が多すぎるから減らしたい、ということだろうか。まるで外来種の駆除みたいだ。神様も人間みたいなことで悩むんだなあと思うと、少し親近感が湧く。
「でも、神様の数はどうやって減らすんですか?」
「初めは、神同士で競い、戦い、勝者に全てを委ねる方針でした。しかし、それでは神力の特性から戦闘に秀でた神に勝者が偏ると不平を唱える神が出てきた」
(……なんか、ますます人間臭いな)
「元より神同士が争うと、その力の強さから世界が崩壊することがままありました。神の増殖に比例して世界の崩壊が起こるというのはこちらとしても本意ではない。そこで、それぞれの神が選んだ人間を代わりに争わせ、その勝者を選んだ神に、天界の精査を委ねることとなりました」
「あまり……変わってないような気がするんですが」
「いいえ、全然違います。第一に、神同士が争うわけではないので、世界に崩壊するほどの影響は出ない。第二に、選ぶ人間を間違えれば、神自身が強くても勝者にはなれない。そして何より、この勝負には運が絡んでくる」
「……運」
「人間は非常に脆い生き物ですね。本当にあっけなく、簡単に死ぬ。選ばれた人間同士で殺し合う以外にも、疫病、怪我、飢え。環境次第で簡単に命が奪える。だからこそ、最後まで勝負はわからない」
昔、世界史の授業で習った中世のヨーロッパの決闘の話を思い出した。武術の心得のない人の代わりに殺し合いを請け負う代闘士。それと同じことを、神様は人間でやろうとしている。
何でそんな話を僕に……とまで聞きかけて、次の瞬間、そんなのはわかりきったことだと口を閉じた。転生の例外。神同士の戦争。代理の人間。つまりは、そういうことだ。
僕が、その神に選ばれた人間なのだ。
「僕の、義務とは、何ですか?」
喉が渇いていた。唇を舌で湿らせる。震える手を握って誤魔化す。耳鳴りが酷かった。
「簡単なことです」
深海のような底なしの青い瞳が、僕を見ている。
「全ての代理人を殺しなさい。それが、貴方の成すべき義務であり……貴方が生き残る唯一の道です」