000 はじまりの話
握り込んだハンカチは、もう汗だか涙だか、性液だかわからないもので、既にぐしょぐしょになっていた。
右手の甲を唇に押し当てて、声を殺す。頬に当たる雪子さんの長い髪。頭上から垂れてきた彼女の汗が、僕の目尻を濡らして、よれたシーツに吸い込まれていく。
「ねえ、晴一郎くん」
雪子さんが上に乗ったまま、その細い指で僕の生え際を撫でる。さっきキスをしたからだろう。彼女の真っ赤な口紅が、その口角から頬まで一線に伸びていた。
「ブランケット症候群って知ってる?」
「……?」
「昔の漫画のキャラクターでね。その男の子はいつも、どこに行くにもお気に入りの毛布を持ち歩くの。不安な時とか、安心したい時とかに縋るのよ」
くすくす笑いながら、雪子さんはつんつん、と僕のハンカチをつついた。
「晴一郎くんにとっての安心毛布がコレなのね。私が買ってあげたハンカチ、気に入ってくれて嬉しいわ」
「……子どもっぽいですか?」
「いいえ?」
静かに落ちてくる顔。キスの気配を悟り、顎をあげて少しだけ舌を出せば、雪子さんは笑ってそれに吸い付いた。
「とーっても、可愛いわ」
◇ ◇ ◇
僕が雪子さんと初めてセックスをしたのは、一年前の冬のことだった。
その時僕は、妹の花奈を都内の芸術大学に行かせたくて、多額の金が入り用だった。そしてそれにはどうしたって、保護者である雪子さんの同意が必要だった。
「……叔母さん」
僕のお願いを聞いた時、しばらくの間、雪子さんは無言で僕を眺めていた。正確には、僕を通して誰かの影を追っているようだった。
それから彼女は僕の片頬に手を当てて、「お願いは聞けないけれど、おねだりなら叶えてあげる」と微笑んだ。
「おねだり」
「そう、おねだり。上手にできたら、君の望みを叶えてあげる」
まるで悪魔との取り引きのようだった。触れられた頬が氷のように冷たくて、凪いだ雪原のような瞳に、強張った表情の僕が映っていた。その怯えた自分の表情に、とにかく無性に腹が立った。
雪子さんの、そして花奈の人生を最初に滅茶苦茶にしたのは僕だった。それなのに、こんな被害者面は許されない。壊したものは直す。それはきっと当たり前のことで、そのために、これはきっと正しいことのはずだった。
「……僕で、役に立つのなら」
一瞬、雪子さんの瞳に何かがよぎったような気がした。それは悔恨とか懺悔とか、そんなようなものの気がしたが、その時の僕にはそれを突き詰めるだけの余裕がなかったし、それは往生際の悪い僕が見せた幻覚のような気もしていた。
後になって思う。ここで知ろうとしていれば、何かが変わっていたかもしれないと。
ただ、きっと何度人生を繰り返しても、僕は同じ選択をするに違いなかった。罪の意識はあっても、後悔はなかったのだから当然だ。
それから一年。僕は変わらず、金のために雪子さんと寝ている。週に一回、雪子さんの部屋でするセックスに、彼女が飽きる気配はない。かつて地を這うようだった花奈の待遇は目に見えて良くなった。三人で食卓も囲めるようになった。僕が壊した家族団欒が戻りつつある。良いことずくめだった。
「うぇっ」
たまに、本当にたまに、嘔吐が止まらない時がある。今日もその日だった。雪子さんの部屋を辞して自室で微睡んでいると、三十分もしないうちに胃液が込み上げてきて、転がるように部屋を出た。
便座に両手をついてえずく。早く終われ、と思っても、胃をひっくり返すほど吐かなければ落ち着かないのは、経験則でよくわかっていた。明日の学校の授業に響くから、便器にもたれかかって体力を温存する。大丈夫、大したことじゃない。
トイレの小窓から、月明かりが差し込んでいた。見上げれば、夜空はよく晴れているようで、星が煌々と瞬いていた。僕の視力で見える範囲など高が知れているが、それでも綺麗な星空だと思った。
それからしばらくして、ようやく嘔吐が落ち着いたので、口を濯いでから自室に戻った。幸い誰も起こさなかったらしく、しんと静まり返った家に安心する。
(いつまで……)
こういう夜、ふと思う。
(いつまで、こんなことを続けたらいいんだろう)
最近、いつか取り返しのつかないことになるんじゃないか、という漠然とした不安を拭えないでいる。それは、昨日の昼間、花奈が何かを言いかけて、それでも何も言わずに、震える手で僕を抱きしめたことにも起因していた。
(……大丈夫)
目を閉じると、先ほどの、トイレの窓枠に切り取られた星空が瞼の裏に瞬いていた。夜は誰しもセンチメンタルになるらしい。考えすぎるのはきっと良くない。
(良い方向に向かってるんだから、それで良いじゃないか)
それから、うとうとと毛布にくるまる僕は、夢を見た。
蒸発した父を駅のホームで見つける夢だ。声をかけても、名前を呼んでも止まってくれないから、僕は人混みをかき分けて必死に追いかける羽目になった。追いかけた先にホームはなくて、次の瞬間、身体が宙に浮いた。
パァンッと空気を破裂させたような警笛が遠くの方で鳴っていた。
そんな、夢だ。