023 葬送
レンガ造りのなだらかな屋根に刃渡りの広いナイフが突き刺さっていて、そこに何とも見事なバランスでお盆が乗っていた。すぐ側には小窓の出っ張りがあって、蝋燭の入ったランタンが引っかかっている。僕はそこに跨って腰を下ろした。屋根に登っての天体観測。初めての経験である。
小窓の突起の先には、保温ジャーのようなものがぶら下がっていた。銀色の、ステンレスのような素材だ。この中身はドゥルガさんの言っていたスープだろうか。更に、トレー上の高級感ある朱色のビスケット缶、改めて掛け直された茶色いブランケットとくれば--あまりにくつろぐ準備の出来た光景に、ドゥルガさんがこういうことをするのは初めてじゃないんだな、と改めて思う。
「ここは周囲に何もないだろ? だから星がよく見えるんだよな」
僕の心を読んだかのようなタイミングで、ドゥルガさんがそう言った。確かにそうだ。教会の数キロ外には塀が聳え立つが、そこまでは背の低い草の生えた丘が続いている。こんなに高いところに登らずとも、草っ原に寝転んで天を見上げたって、夜空はきっと近く感じるだろう。それでもここに来ることをドゥルガさんが拘ったのは、なるほど、星の海と表現するだけはある無窮の煌めきが、360度、視界の全てを覆っていたからだ。彼はきっとこれを見せたかったのだろう。
「よくこうしてるんですか?」
「たまにな。雨の次の日とかは、余計綺麗に見える気がするしな」
傷痕の残るドゥルガさんの右手が、パカッと缶の蓋を開ける。差し出された夜食は、香ばしい小麦の匂いがした。食むと、わずかに塩気のある軽い食感が口いっぱいに広がる。何かしらのスパイスなのか、ピリッとした刺激と、小麦の柔らかな後味。確かに美味しい。
「海の向こうの有名なパティスリーのものらしいが、美味いよな。あんまり出回らないってわけじゃないが、結構な値段がするから中々手が出ないって、コックのバルカンが言ってた」
「えっ」
僕は目を剥いた。
「た、食べちゃって良いんですか⁉︎」
「良いだろ。アイツ、買ったは良いが勿体ながって全然食べないんだ。周囲に自慢して回ったくせに、チマついた性格しやがって。これだって今日までなんだぜ? 捨てるのは忍びないし、俺たちで食べてやった方がビスケットも嬉しいだろうよ。いわば、善行だよ善行」
「ぜ、善行……」
指についた塩の粒を舐め取りながら、ドゥルガさんが笑った。悪戯が成功した時の子どものような笑い方に毒気を抜かれて、僕も「まあ良いか」と思う。もう共犯になってしまったのだ。今更気にしたって仕方ない。
顔を上げれば、まあるい月と、ビスケットに塗された塩粒みたいな恒星がそこにある。青臭いそよ風。草の葉の擦音。保温ジャーからスープを注ぐトクトク、という音に、漂ってくるミルクの匂い。
「シチュー?」
「クラムチャウダーだな。貝が入ってるけど平気か?」
頷けば、そっとコップを渡される。内臓まで冷えているのか、温かなスープが食道を通って胃に行くのがわかる気がする。ほう、と二人して同じように息をついて、それから顔を見合わせて小さく笑った。
「……懐かしいな」
「懐かしい?」
「ここに来る前のことだ。まだ仲間と旅をしていた頃に、俺は魔法が苦手だったから、よく寝ずの番を変わっては、一人こっそり練習をしてたんだ。こんな風に、夜食を持って、マントに包まって」
柔らかな夜風に乗って、ドゥルガさんの低い声が鼓膜をくすぐる。障りの良いシーツのように辺りを覆う。
「ある夜、仲間の一人が起きてきて--あの人はちょっと感性が変わってたが、魔法の才能はピカイチだったからな、ようく二人で特訓をしたんだ。あれのおかげで今の俺があると言っても過言じゃない」
「練習ですか? 例えばどんな?」
「色々だな。ああそうだ。俺も苦戦したぜ、硬質化。あとはそうだなあ。一番練習したのは、やっぱり属性魔法だったかもしれないな」
属性魔法。魔力に属性を付与する、性質変化よりも強力な魔法である。属性は、火・水・風・雷の四種類あり、そこから更にいくつかの派生の属性があるらしい。自分の魔力と親和性のある属性しか付与できないと言われており、また行使に大量の魔力を消費するのが特徴である。……全てララノアさん情報だ。
「ドゥルガさんは、雷、ですよね?」
僕はナイフの表面に閃光を纏わせていたドゥルガさんを思い出した。
「主属性はそうだな。複属性は火」
「複属性?」
「二番目に得意な属性、って表現が一番近いか? メインとサブみたいな感じだな。俺の場合、俺の魔力と一番相性が良いのが雷属性で、次点が火属性。あとは派生で、爆破と光の魔法も多少は扱える」
そうしてドゥルガさんは、「見てみるか?」と面白そうに目を細めた。
(見てみる?)
首を傾げる僕に手招きをして、
「俺が一番好きな魔法、特別に見せてやるよ」
座ったままにじり寄った僕にドゥルガさんも身体を傾けた。二人して膝を突き合わせて、器のように両手の側面をくっつけたドゥルガさんを見遣る。
「魔法に属性を付与します」
それは初め、小さな灯火だった。蝋燭の炎のような、息を吹きかければ簡単に消える小さな灯り。それがくるりと丸くなり、高速で回転し、段々パチパチと焚き火のような音を立て始める。四方に散る火花がまるで松葉のようで、
「線香花火だ!」
「正解。どうだ? 綺麗だろ。花火。俺が一番好きな魔法なんだ」
核となる中央の火の玉と、線を散らしたような橙色の火花は、未だドゥルガさんの手の中で力強く弾けていた。導火線もないのに燃え続けるのは、爆破の魔法の効果なのだろう。暗闇を美しい閃光が照らし上げていて、とても綺麗だった。
「線香花火ってのは、日本独自のものらしいな」
「そうなんですか?」
「ああ。もっとも、花火自体は俺の生まれた国にもあったけどな。ティハールっていう光の祭りで、秋のその時期になると夜空に何発も花火を打ち上げるんだ。そういった華やかな催しで富と繁栄の女神をお迎えして、家族の幸せを願う意味がある」
「女神?」
「ラクシュミー。ヒンドゥーの神だから、この世界を作った神々とは違うだろうけどな。……かつて俺を信徒に選んだ鍛治の神の名はカベイロスだったし、元となった神話はギリシアかローマか。そんなところだろ」
僕が魂の丘で出会った女神様の名前はフォルトゥーナだった。フォルトゥーナは運命の女神の名だという。ローマ神話での呼び方で、ギリシャ神話ではトゥケー。
「お前の左目の刻印は、運命の輪だな」
「これですか?」
「ああ。信徒に選ばれた人間が、神の加護を行使した時に発現する、いわば信徒の証みたいなもんだ。お前の場合は特殊だが、基本は両目に自分の信仰神のモチーフが刻印される。俺の場合は金槌だった」
僕はそっと、蜂蜜を煮詰めたみたいなドゥルガさんの黄色い瞳を覗き込んだ。その視線に気づいて、ドゥルガさんは可笑しそうに笑う。
「もうないって。俺は信徒じゃないんだから」
いつの間にか、ドゥルガさんの手のひらで弾けていた線香花火は消えていた。それと同時に、ドーマーに引っ掛けていたランタンの明かりもふっと消える。急に陰った視界に、瞳孔がきゅっと開く心持ちがした。
「ああ、使いすぎたか」
腰に下げていたポーチから、ドゥルガさんが新しい蝋燭とライターを取り出した。ジジ、とフリントホイールの擦れる音。再び視界が明るくなる。
「属性魔法の燃料にしたから、燃え尽きるの早かったな。替えを持ってきておいて良かったぜ」
取り替えられた蝋燭は、もう蝋が溶け切って燃えカスしか残っていなかった。たった数分のささやかな線香花火で蝋燭一本分だとすると、確かに属性魔法というのは燃費が悪いらしい。
「--お前は何の属性なんだろうな」
「?」
「お前はどんな魔法が使いたいんだ?」
掛けられた問いに、僕はドゥルガさんの手元から視線を外して首を傾げた。未燃焼の蝋が腰のポーチに仕舞われていく。
(どんな……?)
考えたこともない質問だった。色々覚えるのも受け入れるのも、それだけで精一杯で。
「ただの雑談だよ。試しに聞いただけだ。……単純な興味本位だったんだが、変に迷わせたのなら悪かったな。だからそんな難しい顔するなよ」
「--水」
「ん? 水?」
「がいいかも、しれません」
ドゥルガさんが瞠目した。なぜ? と聞いてくる声音に、僅かばかりの動揺が混じる。
「その、大した理由じゃないんですけど」
「いやいい。聞かせてくれ」
「……まだ小さかった頃に、一度、家出をしたことがあって」
「家出」
「家出って言っても、どこか遠くまで行ったとかそういうことはなくて。ただ、学校の裏手にある公園にいたら雨が降ってきちゃって……なんとなく家には帰りたくなくて、遊具の中で雨宿りをしていただけなんですけど」
小学生の頃の話だ。父さんはいつも帰りが遅くて、当時の僕は広い家に一人で居るのが怖かった。危ないからと、学校が終わったら真っ直ぐ家に帰れ、一人で出歩くなと口酸っぱく言われてはいたけれど、誰でも良いから人の声がする場所に居たくて、子供心に公園は賑やかで好きだったから、こっそり出かけることはままあった。その日は夢中で遊んでいて、時間を忘れていたのだ。
夕方になって、人気がなくなってきて、帰ろうとしたけれど、雨が降ってきた。傘なんて持っていなかったから、滑り台の中に入って雨宿りをしていた。途中で寝てしまったから時間の感覚はなかったけれど、遠くの方から父さんが僕の名前を呼ぶ声が聞こえて、それでもう夜中だったことに気がついた。
【……おとうさん?】
【晴一郎ッ‼︎】
僕を苦しいほどに抱きしめた大きな腕は震えていて、思わず見上げた父さんの額には大粒の汗がびっしり浮かんでいた。ネクタイは乱れ、ジャケットは来ておらず、シャツのボタンは中途半端に開いていた。あまつさえ、父さんは靴を履いていなかったので、その時の僕は父さんのあまりのだらしなさにびっくりした記憶がある。いくら研究が忙しくても、せめて外に出る時は靴くらい履くべきだろうと。
【くつ下のドロは、おちにくいって、おかあさんが】
【……感動の再会の第一声がそれとは、我が息子ながら恐れ入ったよ】
雨はとっくに上がっていて、水溜りが至る所に出来ていた。泥水を吸って変色した父さんの靴下を憐んで、僕は靴を貸そうとしていた。それを見た父さんは、
【良いか、晴一郎。この世界には何万足と靴があるが、それはこの世に大きさという概念があるからだ】
等々、蘊蓄を垂れようとしてきたので、亡き母の遺言を思い出して僕は抱っこを要求した。母さんの言った通り、抱きしめると父さんはすぐに黙った。
【おとうさん、水が光ってるよ】
【水? ああ、反射か。表面が静止していて且つガラスのように滑らかになった時にだけ周囲の景色が水面に映る。水鏡とも言う】
僕は父さんの首に回していた腕に更に力を込めた。父さんは一度口を閉じてから、
【誰だ、お前にそんなこと教えた奴は。晴夏か? それとも雪子?】
「雨上がりの水溜まりに空が映るのは、水鏡と言うらしくて。父さんに抱かれながら見たそれが宝石みたいに綺麗だったのを覚えています」
「…………」
「だから、僕がもし水の魔法を使えたら、天を仰げない時も空が見れていいなあと。大した理由じゃ、ないんですけど」
「いや」
深みのある震えた声が、穏やかに僕の自嘲を否定した。
「良い理由だと思う。……やっぱり、お前が……あの時の、確定させたかった未来の」
(未来の?)
どういう意味だろう。待ってもその先の言葉は続かなかった。それどころか、どこか納得したような、憑き物の落ちたその表情に、僕は既視感を覚える。ああ、これは……地球では毎日のように見ていた光景だ。雪子さんが、僕と父さんを重ねる時の顔。僕を透かして父さんとの記憶を辿る時の表情。
だから思わず、言うつもりのなかった言葉がついて出る。
「そんなに、似てますか?」
「晴一郎?」
「父さんと」
「…………」
「ドゥルガさんは……父さんを、知っていますよね?」
思いの外硬い声が出て、僕は努めて深呼吸をした。いけない、これ以上は。ともすれば口から溢れ出そうになる醜い感情を呑み下し、慌てて呼吸に意識を向ける。僕の劣等感をドゥルガさんに押し付けるものじゃない。完璧だった父さんと似ていると言われる自分が、反吐が出るほど嫌いだと……そんな感情、ドゥルガさんには関係ないのだから。
「いつから」
ドゥルガさんの声も硬かった。
「いつから気づいてた。俺が、お前の父親を知ってるって」
「……多分、最初からです。降臨の儀でドゥルガさんに助けてもらった時には、もう父さんの心象が見えてました。何度か聞こうと思ったけど、タイミングを逃して」
「ああ、そうだな」
ドゥルガさんは得心したように頷いた。初日の夜のベランダでの出来事を思い出したのかもしれない。
「お前の言う通り、俺はあの人と--憂太さんと、旅をしたことがある。それも、それなりに長い期間だ。仲間だったし、俺は憂太さんと初めてあった時、まだ十四とかそこらだったから……俺にとってはめちゃくちゃ面倒を見てもらった恩人でもあった」
無意識に擦り合わせた指先がざらついていた。塩の粒が残っていたのかもしれない。パンパン、と手をはたく。
「ずっと疑問でした。初対面のはずなのに、ドゥルガさんは何度も僕を助けてくれた。ジンイーさんも、亡くなる前に言ってたんです。理由はわからないけれど、ドゥルガさんは僕を守ろうとしてるって。それは……僕が、父さんの息子だったから、なんですね」
ドゥルガさんの瞳孔がきゅうっと小さくなるのがわかった。そのくらい僕らは近い距離にいた。
「いや……どうだろうな。正直わからない。あの人に、何か言われたわけじゃないんだ。お前がこの世界に来るのも、神官どもがつけていた信徒の帳簿を見なければ知らなかったし、降臨の儀で姿を見るまでは半信半疑だったんだ。だから結局のところ、俺が勝手にしているだけなんだろう。あの人に、憂太さんに、お前を託されたと思いたいだけなのかもしれない」
託された。不思議な言い方だった。蒸発したと思っていたら、実際はこの世界に転移させられていた父さん。父さんと一緒に旅をしていた、同じ境遇のドゥルガさん。そして、信徒を全て殺さなければ終わらない代理戦争と、その生き残り。
(ああ、嫌だな。聞きたくない)
けれど、きっと僕の想像は正しい。そしてここでそれを、僕は明らかにしなければならないのだろう。このタイミングを逃したら、多分一生、聞く機会は訪れないと思うから。
「父さんを」
息が詰まる。
「晴一郎」
「父さんを殺したのは、ドゥルガさんですか?」
沈黙は、永遠かと思われるほどに長かった。その間、僕もドゥルガさんも微動だにしなかった。
「その質問に答えたら」
ドゥルガさんの声は掠れていた。乾いた唇を湿らせるように舌で撫でつけてから、ドゥルガさんはそっとこちらを見る。だから僕も真っ直ぐに彼を見返した。視線の先の金瞳には、後悔も憎悪も浮かんでいなかった。空に浮かぶ月のように穏やかで、どことなく哀しみに満ちた色だった。
「お前は、俺の言葉を信じられなくなるか?」
「それは……どういう、意味ですか?」
「俺は今、お前の力になりたいんだ。これは他ならない俺自身の意思で。お前を生かすためにここにいるんだとすら、俺は今思ってる」
「…………」
「俺はお前にだけは、決して嘘はつかない。聞かれたことは全部正直に答えたいし、答えると約束する。でもお前が、その質問の返答次第で俺を信じられなくなるのなら、俺はその質問には答えたくない」
「僕のために?」
「いや、結局は俺のためだ。お前に生きて欲しい、お前を勝たせたいっていう、俺自身のエゴのために」
「……そう、ですか」
ずるい言い方だった。少しだけ恨めしく思う。そんな風に言われたら、僕はもうこのことについて何も聞けなくなってしまうではないか。
(でも)
それでも不思議と気持ちは落ち着いていた。ドゥルガさんとこんな風に話した夜がなければ、僕はきっと、ドゥルガさんを責め立てていただろう。どういう意味だと、自分の罪も棚に上げて喚き散らしていたかもしれない。けれど、ドゥルガさんが話す父さんとの思い出は、どれも親愛に満ちていて、たとえドゥルガさんが父さんを殺した張本人だったのだとしても、それを彼が望んでやったとは思えないから。だから、
「父さんには、もう、会えませんか?」
「ああ」
「どこにもいない?」
「居てくれたらいいなとは思う。けど、居ないだろうなとも思う。憂太さんは、もう、生まれ変わりもしないだろう。あの人はそれだけのことをしたし、そうしてまで、あの人には確定させたい未来があったから」
ふいにドゥルガさんが付けたばかりの蝋燭の火を落とした。それは本来の目的であった天体観測をするためだったのかもしれないし、自分の表情を見られないようにするためだったのかもしれなかった。どちらでも良かった。それは僕にとっても都合が良かったから。
それから僕らは、星が薄くなるまで無言で夜空を眺めていた。流れ星が走るなんてロマンチックなことが起こるわけでもなく、ただただ何の変哲もない、でも地球で見るよりずっと美しい星月夜を見つめていた。永遠とも感じる時間だった。
滲む視界は、弱い視力のせいだと言い訳をして。
以降暫くの間、『PULUM - 勇者の献身』の更新が続きます。現シリーズの次回の投稿は、そちらのシリーズの展開が落ち着き次第になる予定です。暫く更新が開きますが、完結まで書き切る所存ですので、何卒応援のほどよろしくお願いいたします。
またお時間が許しましたら、『PULUM - 勇者の献身』シリーズの方もお目通しいただけるととても嬉しいです。そちらも合わせてお願い申し上げます。




