022 擬態のスフィア
【天には星がなければならない。大地には花がなければならない。そして、人間には愛がなければならない --ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ】
◇ ◇ ◇
「よし、上に上がるか。早くしねえといよいよ夜が明けちまう」
「そうですね」
「だから待て待て待て。危ねえから。抱えて飛ぶって」
(だから、その『飛ぶ』って何……?)
僕の身長は172センチメートルである。平均より少し大きい程度であるが、ドゥルガさんは見るからに日本人男性の平均身長には届いていない。つまり、僕の方が全然大きいのである。五センチ以上は確実に差がある。たしかにドゥルガさんの方が鍛えてはいるだろうけれど、僕だって決してヒョロいわけではないし、例えばおぶれたとして、僕を抱えたまま屋根に上がれはしまい。
「やっぱり、ここにしませんか」
僕はそう進言した。ベランダからでも、日本の住宅街なんかより比べ物にならないくらい空はよく見える。ただドゥルガさんは、「せっかくなら満天の星空の下がいいだろ」と、飄々と言って聞く耳を持たない。
「俺のお気に入りの場所なんだ。視界には空以外入らないから、星の海に沈んでるみたいで」
「星の海」
「お前、何も高い所がダメってわけじゃないだろ?」
「そうですけど」
「じゃあ何が嫌なんだ?」
「……ドゥルガさんじゃ、僕は持ち上がらないんじゃないかと、思って」
バチン。鈍い破裂音と共に、剥き出しの額にデコピンが飛んできた。ぎゃっ。威力は当然加減されていたのだろうが普通に痛かった。ひどい、本当のことなのに。
「降臨の儀のあと、誰がお前を部屋まで担いでやったか、知りたいか?」
「それは。でも、僕の方が大きいし」
「もう一発、してほしいならお望み通り」
「結構です」
ドゥルガさんは構えていた左手を解いて、かわいそうな子でも見るように僕を見た。それから、やれやれ、とでも言いたげに首を振って、
「要は担いで登れねえんじゃねえかってことなんだろ? なら大丈夫だな。空を飛ぶから」
「ん?」
「驚きすぎて腰抜かすなよ」
何か思いついたとでも言うように、にやり、とドゥルガさんが不敵に笑う。
(どういう意味?)
それを聞くいとまもなく、ドゥルガさんは手すりの上に立つと、ぴょんと背後に飛んだ。え、飛ん--
「ドゥルガさんッ」
三階から落ちた⁉︎ 慌てて下を覗く。クソ、暗くてよく見えない。視線が彷徨う。今ここにあるのは部屋から漏れる灯りと、月の光だけだ。眼下は濃い黒で塗りつぶされている。ダメだ、ここにいても埒があかない! とりあえず階段で外へ--
窓を開け放って部屋に戻ろうとして、直ぐに背後から聞こえてきた音に僕は動きを止めた。バサバサ、と羽音。鳥にしては大きすぎるそれ。そして窓がガタガタ震えるほどの風圧と、後ろ髪が巻き上がって鳥の巣になるほどの翼力。
「…………」
ギギギ、と僕がブリキの人形だったらそんな効果音が鳴っただろう。恐る恐る背後を振り返って、僕は息を呑んだ。夜空が一瞬にして翳ったのかと錯覚するほどの深い闇がこちらを見ていた。その漆黒の塊は僕の三倍はあろう体躯をしている。一枚一枚が僕の腕より大きい羽根を持ち、それが集まって一対となった翼は、天を覆い隠すほど大きい。
「ひえ……」
カラス、なのだろう。多分。僕の知る大きさではないが、黒光りする鋭い嘴と、見た目の禍々しさとは対照的なつぶらな瞳を見て僕はそう判断した。カラス。これはカラス。ただの……
(ただのカラスなわけない!)
何なのだこのサイズは。というよりどこから現れた。え、暗くて見えなかっただけ? そんな馬鹿な。
「な、にが」
何が起こっているのだろう。そもそもこれは現実か? いつの間にか寝落ちして夢でも見てるのかもしれない。じゃなけりゃ--
「わっ」
思いっきりかかった鼻息の熱さに、僕は速攻で夢である可能性を否定した。夢の中にしてはリアルすぎる。こんなに生々しい夢があってたまるか。
推定三メートル以上のカラスは、ベランダにへたり込んだ僕には目もくれず、手すりに人の顔くらいはあろう爪で、何とか掴まろうと悪戦苦闘していた。カチャカチャ、カチャカチャ。鉤爪が鉄を引っ掻く音がする。僕は硬直したように動けなかった。人間、驚きすぎると声も出ないらしい。
どれくらい経っただろうか。しばらくして良いポジションを見つけたのか、器用にバランスを取った巨体が、ようやく気付いたようにこちらを見た。身を低くして首を伸ばしてくる怪鳥。縦に長い瞳孔がギラギラとこちらを見ている。
「っ」
喰われる。僕は目を閉じて、ぎゅっと身を固くした。丸めた身体に、温かい鼻息が断続的に当たっている。気配はもう数センチもない場所で動かなくなった。身を食いちぎられるような衝撃はない。
「……?」
ふと、きゅるる、と凡そ野鳥からは出そうもない甘えた鳴き声が聞こえた。片目を開けて様子を見る。大鴉は、果たしてそこにはいたが、何をするわけでもなくこちらの顔を覗くだけだった。僕を食べようとしているわけじゃないらしい。
「な、に」
僕をゆうに丸呑み出来そうな嘴を身体に寄せながら、カラスは再度きゅるる、と喉を鳴らした。こちらを見たまま微動だにしない。恐る恐る手を伸ばしても噛みちぎろうとする気配はなく、むしろそっと嘴の先を指に寄せてきた。ザラザラとした皮膚。岩をも砕けそうな硬い感触。そして、
【そこまでビビるとは思わなかったな。ちょっとした意趣返しに驚かせようとしただけだったんだが、可哀想なことしちまった】
「ドゥルガ、さん?」
聞こえてきた馴染みのあるテノールは、間違いなく先ほどまで話をしていたドゥルガさんのものだった。
「え、なに……?」
【あ? 何で俺だって……。あー、そうか】
「ドゥルガさん?」
【聞こえてるのか】
触れたところから響く声に、ほうぼう頷く。ハシバミ色の瞳が笑ったように細まった。
(あ、同じ色)
【そうか、そうだったな。お前の潜在魔法、ジンイーの手帳で内容は知ってたが、本当にすごい力だなあ。この状態で意思疎通が図れたのは初めてだ】
「……本体?」
【まさか! 元信徒だって言ったろ。これが俺の潜在魔法なんだよ】
噛まねえから咥えて飛んで良いか? と聞かれて恐る恐る頷く。カラスもとい潜在魔法を発動させたドゥルガさんは、緊張で硬直した僕の身体を口先で軽く小突いて解してから、そっと僕の胴体を咥えた。ぶらん、とうつ伏せに咥えられて、捕食される獲物ってこんな気持ちなんだなあ、としみじみ思う。たまにカラスに咥えられたまま空を飛んでる雀を見かけたことがあるが、あれはこんな、なんとも言えない感情なんだろう。なんというか、死を悟るというか、諦めというか。
バサバサと耳元で風を切る音がする。
【飛ぶぞ】
一瞬の浮遊感ののち、次の瞬間、僕は夜空の中にいた。わああ。思わず声が出る。ゆっくりゆっくり上昇するドゥルガさんに咥えられて、僕の身体は、屋根よりもずっと高くに浮いていた。先ほどまでの恐怖と緊張が嘘のように消えて、未知の体験に気分が高揚する。だらりと垂らしていた腕を持ち上げると、星まで掴めそうだった。
カラスのドゥルガさんは、ショーでも披露するかのように少しだけ上空を旋回したあと、そっとレンガ造りの屋根の上に鉤爪を下ろした。内臓の圧迫感がなくなったと思ったら、大きな嘴が僕を離して距離を取る。パラパラパラ。羽毛が剥がれて風に乗って飛んでいくのを思わず目で追って、
「晴一郎」
呼ばれて振り向いた時にはもう、いつもの人間のドゥルガさんが立っていた。肩を回しながら僕の側に腰掛けるドゥルガさんは、もうすっかり人である。
「そんなに楽しかったなら、今度は鞍でも持ってこようか。あの咥え方だと内臓痛めるからな。あんまり長くは飛んでやれないし」
冗談なのか本気なのかわからない口調でそう言う。
「カラスになるのが、ドゥルガさんの潜在魔法なんですか?」
「厳密には違うな。『変身』が俺の潜在魔法」
見ていいぞ。そう促されて、一瞬何のことかわからなかった。両手を開くような仕草をされて、そこでジンイーさんの手帳のことを言っているのかと合点がいく。ジンイーさんの手帳は、見た相手の生態情報を全て映し出す。当然、ドゥルガさんのページもある。
(見ていい)
僕は懐から手帳を取り出した。ずっと持ってはいたけれど、開くのはジンイーさんと一緒に見た時以来だった。先ほどの興奮がすうっと引いて、指先が僅かに強張る。表紙をめくろうとして躊躇したのを見透かされたのか、ドゥルガさんは穏やかな口調で言った。
「見たくない?」
僕はすぐに否定した。そうじゃない。有効活用すると決めている。ジンイーさんはそれを望んでる。
「じゃあ、怖いか?」
(怖い?)
どうだろう。ただ、先に進むのが嫌なだけなのかもしれない。なんとなく、僕がこれを使わなければ、まだこの手帳の所有者はジンイーさんなわけで、ジンイーさんがもうこの世界には居ないことを考えないでいられる気がしたから。
「怖くは、ないかも」
「怖くは」
「この手帳は、ジンイーさんのものだから」
沈黙が落ちた。僕のその返答にドゥルガさんが何を思ったのかはわからなかったが、少し考えた後、彼はおもむろに僕の方に身を寄せて、
「なら、これを見るのにお前の許可は要らないわけだな?」
「?」
「内容、忘れちまったんだよな。俺が見たいから、見せてくれよ」
構わないよな、と半ば強引に僕の手を覆った体温の高い指先が、躊躇なくページをめくった。一枚。また一枚。立ちのぼる古い紙の匂いと、風呂上がりであろうドゥルガさんのシャンプーの香りが混ざって漂う。視界を細いインクの字が流れていく。
【俺が居なくても、一人で見れるようにしといてやりたい】
ぽつりと溢されたそのセリフは、乾いた土に雨水が染み込むように、僕の中へとすとん、と落ちた。僕は目を逸らしたがって揺れる焦点を気合いで止めて、文字を追うことに注力した。みんなが僕を生かそうとしているのだ。
僕の次のページがドゥルガさんについての記述だった。きっとジンイーさんにとっても、この世界で最初に出会ったのが僕とドゥルガさんだったのだ。ドゥルガ・グルン。二十五歳。ネパール出身の元兵士。現在は選徒教会所属の庭師で、潜在魔法は『闘士--無窮の演技者』。
ドゥルガさんの低い旋律が、潜在魔法の詳細を読み上げる。僕は彼の温かい指が、文字の横を緩く撫でるのを目で追っていた。
「闘士は、優れた観察能力と、それを実現する高い身体能力を併せ持つ。どんな環境にも適応する、強い生命力があり、また詳細な観察に基づく擬態を得意とする」
「擬態?」
「ああ。擬態は、対象の生態情報、対象との関係値の二つから構成され、この二要因の密度によって、擬態出来る時間が変化する。擬態の能力は使用者本人のみ行使が可能だが、擬態中に使用者が望めば、触れている生命体にもそれを伝播させることが出来る」
「…………」
「俺は勝手に自分の能力を『変身』だと思ってたんだが、ジンイーの潜在魔法から見れば、こういう説明になるらしい」
僕はきゅっと口を結んだ。これはまた、ジンイーさんとは違ったベクトルで強い潜在魔法だ。むしろ、代理戦争というサバイバルゲームにおいて最適解とも言える能力なのではないだろうか。ドゥルガさんには戦闘能力がある。それに加えて、潜在魔法でどんな姿にでもなれるということは、相手を撒くのも奇襲を仕掛けるのも容易いということだ。彼はきっと、なるべくして--勇者になった。
「まあこの記述も、概ね体感の通りではあったけどな。ただ……実はこれを見るまで、俺自身、他のやつも変身させてやれるのは知らなかったんだよな。自分だけだと思ってて」
「えっ」
驚いて顔を見ると、重ねていた手を離して身体を起こしたドゥルガさんが、不満げに「何だよ」と鼻を鳴らす。
「そもそも選徒教会で教わるのは代理戦争のルールや新世界の常識だけだろ? 潜在魔法なんて、そいつ個人個人に、オートで付与されたオリジナルのスキルみたいなもんだ。お前やジンイーみたく、こんな序盤で自分の潜在魔法について理解してる方が、普通は珍しいんだよ」
俺も使いこなせるようになったのは結構後だったしなあ、との言葉に、なるほどと思う。信徒毎に違う能力で、本人もよくわかっていないものを、他に誰が説明できると言うのだろう。
「逆に言うと、それだけにこの手帳は価値のあるものだ」
その言葉に僕は震えた。その通りだ。誰も説明出来ないもの、誰もが知りたいもの、それがここにはある。
「この教会にいるうちはいい。だが、お前はいずれここを立たなくちゃいけない」
「っ」
「だから、せめて……お前以外が見れないようにはしておいた方がいい。どこかに閉まって鍵をかけておくでもいいし、ページをバラしてあちこちに隠しておくのでもいい。全て覚えて焼いてしまうのでも。もし誰かに奪われた時に、そいつが自分では使うことが出来ないようにしておけ。お前が生きていなければ、どうにも出来ないように」
いいな、と言い含めるように、ドゥルガさんは言った。その切実な響きに、僕は小さく頷く。その様子をじっと見つめて、それから僕の懐に手帳を仕舞わせると、
「さ、そろそろ本当に明日に差し障る。ミッションを始めようぜ」
ドゥルガさんはそう言ってから、ゆっくり立ち上がった。




