021 最も多くを殺した人間
「善は急げだ」
別に美味しいビスケットとスープに釣られたわけではなかったが、ドゥルガさんは僕の色良い返事をそう解釈したらしかった。僕の返答を聞いてすぐに、器用にも腕力だけを使って屋根の上へと登ると、バスケットを抱えてまた戻ってくる。そして、ベランダの手すりに足を掛けている僕を見て目を剥いたようだった。
「待て待て待て待て」
「?」
「危ねえだろうが。上に上がりたいなら抱えて飛ぶから、ちょっと待ってろ」
(飛ぶ?)
月の位置はだいぶ頭上へと動いていた。高度が出たからか、今度は白銀へと色彩を変えて地面を照らしていた。気温は更に下がっている。鉄の手すりを握ったせいで余計かじかんで血の気の失せた指先は、それこそ氷のように冷えきっていて、息を吹きかけるとじんわりとした温い痒みが広がった。
「いいから、大人しくしてろよ」
幼子にでも言い含めるような口調でそう言ってから、ドゥルガさんは顔を引っ込めた。大方、バスケットを元あった位置に置きにいったのだろう。僕は見えないとわかっていながら肩を竦める。
(いつも、こうだ)
これは昔からよくあることなのだが、僕の見た目はどうやら運動神経が悪く見えるらしかった。そりゃあ、先ほどのドゥルガさんに比べたら鈍いに決まっているだろうが、僕は仮にも武道を齧っている身の上である。上背もそこそこあるし、スポーツだって別に苦手じゃない。実際、体育祭では選抜選手に選ばれるくらいには足も早かったし体力もあった。でもなぜか、いつも鈍臭く見られてしまう。
(顔、のせいなのかな)
いわゆる中性顔、というやつなのだろう。父譲りの僕の容姿は、昔から性別問わず受けがいいようだった。黒くて柔らかい癖毛と、二重で少し吊り気味の目。黒目がちで、日本人にしては高い鼻梁。中顔面は短く、顎周りの輪郭は丸くなだらか。薄い唇の少し下には、いわゆる艶黒子もある。
「晴一郎くんは、憂太さんより猫目なんだね」
ふと、蜂蜜を溶かしてドロドロに煮詰めたような甘く柔い声を思い出した。あれはいつのことだっただろうか。幾度となく身体を合わせた夜、たしか雪子さんはそう言って、リネンのシーツに寝転がったまま微笑んでいた。
「ねこめ」
「知ってる? 晴一郎くん。猫の瞳って、実は視力自体は低いんだって。代わりに動体視力に優れていて、獲物を素早く捕らえられるの」
その時も、こんな風に寒い夜だった。雪子さんの名を体現したような、滑らかで冷たい指先が、僕の目尻を優しく撫でていた。
「……詳しいんですね」
「ふふ。好きだからね、猫。温かくて柔らかくて。でも」
そっと顎を持ち上げられたので、あらがわず唇を重ねる。啄むような幾ばくかのキスの後、雪子さんは長い睫毛を数度瞬かせて、微睡むような声音で言った。
「触れられても心まで許さないところが、一番好きなのかも」
「晴一郎?」
いつの間にかベランダに戻ってきたドゥルガさんに声をかけられて、僕は意識を戻した。
「顔が白いな。大丈夫か?」
寒いか? それとも貧血? 脈を取ろうとする温かい手をやんわりと交わす。別に何があるわけでもない。
「少し冷えただけです。大丈夫」
「なら良いが。もう休むか? 俺から誘っといて何だが、気にしなくていいぞ」
「いえ。ドゥルガさんが良ければ、もう少しだけ」
「そうか」
とりあえずちゃんと包まっとけ。そう言って、ドゥルガさんは毛足の長いブランケットで僕を簀巻きにした。その温もりにホッとする。自分で思っていた以上に冷えていたのかもしれない。
「これも」
ドゥルガさんが着ていたジャケットを更に脱いで被せようとしてくるので、僕は泡を食ってそれを止めた。ドゥルガさんが自分用に用意したはずのブランケットを強奪しただけでなく、上着まで占領してしまってはドゥルガさんの方が風邪を引いてしまう。トゥニカ一枚の僕よりは着込んでいるものの、ドゥルガさんだってジャケットの下はワイシャツ一枚にカーキのカーゴパンツというラフな装いなのだ。首元が詰まるのが嫌なのか、あまつさえ第一ボタンが空いている仕末である。ネックレスをしているようで、襟元から銀色のチェーンが覗いていた。
「じゅ、充分ですから!」
「気にしなくて良いぜ。俺は雪国に長くいたから、寒いのには慣れてる」
何気にドゥルガさんが自分のことを話すのはこれが初めてな気がした。「地球で?」と問うと、「新世界で」と極めて簡潔な答えが返ってくる。
「ここからずっと北に行った山岳地帯に、小さな集落があって、そこに何年かいたことがあるってだけだけどな。まあ、この世界で一番長く居着いた場所ではあるから、ある意味では故郷、みたいなものなのかもしれないが」
故郷。そう語るドゥルガさんの表情は、懐かしむように穏やかだった。信徒として地球から転移させられてきて、そんな風に愛着の持てる場所を持てたというのは、きっと素敵なことなのだろう。僕も、この世界で生きていればいずれ、そんな場所ができるのだろうか。
「それよりも」
「?」
「お前と同じ身の上だって話、お前にしたことあったか?」
「あ」
ドゥルガさんが元信徒であるというのは、たしかジンイーさんから聞いた話だった。この様子だと真実なのだろう。改めて、ジンイーさんの潜在魔法の強力さを痛感する。
降臨の儀の日、三人で食卓を囲んだことを思い出して、僕はほんの少しだけ感傷的な気持ちになった。もし今、揃って空を見上げられていたら、どんなにか。
(……仮定の話をしても、仕方ないけど)
別に隠さなければいけないことではなかったが、何となく後ろめたさを感じて僕は俯いた。小さく「ジンイーさんに聞きました」と言うと、「ああ、なるほど」と平素と変わらぬ声音で相槌がくる。
「お前、あの手帳を開いた様子がなかったから、何で知ってんのかと思ったんだが……なるほどな。直接聞いたのか」
「え」
「あー……悪かったな。お前の意識がなかった間に、一応、中は検めさせてもらってる。大丈夫。俺以外は見てないし、俺も誰かに内容を話すつもりはない」
でもごめんな。あれはお前が託されたものなのにな。続いた謝罪に、僕は慌てて首を振った。元々あの手帳はジンイーさんの物だ。それに、あれだけ代理戦争にとって有益な情報が書いてあるものが、今も僕の手の中にあるのは、間違いなくドゥルガさんのお陰なのだろう。感謝こそすれ、責めるなんてあるはずない。
「……代理戦争を勝ち残った奴は、勇者と呼ばれる」
ドゥルガさんは平坦な声でそう言った。
「勇者になると、一つだけ望みが叶えられる。願う相手は神だからな。巨万の富も、永遠の命も、地球への帰還も思いのままだ。だから信徒は、最後の一人になることに戦う意味を見出す。言い換えれば、勇者とは、自分の私利私欲のために、最も多くを殺した人間とも言える」
「…………」
「怖いか?」
僕はかぶりを振った。確かに彼は人の命について麻痺してしまっている部分があるのだろう。ジンイーさんの死。あれを事象として捉えているくらいには。でもそれは、きっと彼自身のせいじゃない。
「全然」
ドゥルガさんの真似をして、にっと笑う。ドゥルガさんは、虚を疲れたように一瞬。ほんの一瞬だけ目を丸くした。そうすると、普段の落ち着いた雰囲気からは到底想像がつかないほど、幼い顔立ちであることがわかる。わりと童顔なんだなあ、なんて関係ないことを思う。
「はは、将来有望だな」
ドゥルガさんが僕の額を小突いた。温かい指先だった。
「お前も、いずれ勇者になる」
「?」
「だから、お願いごと、今のうちに考えておけよ。生きる目的がある奴ってのは、本当に強いんだ。それこそ……奇跡も起こせるくらいに」
「ドゥルガさんも?」
「うん?」
「ドゥルガさんも、そうでしたか……?」
「ああ。うん」
僅かにドゥルガさんが言い淀んだ空気を感じて、僕はその瞬間に猛烈に後悔した。普通に考えて無神経すぎる質問だったかもしれない。人間を大勢殺して叶えた願いなんて、辛くなかったわけがない。ドゥルガさんは優しい人なんだから余計に。
(最悪すぎる、俺)
一度出た言葉は元に戻せない。「あの、違くて」動揺で出た浅ましい言い訳は、もう一度額を小突かれることで中途半端に止まる。ドゥルガさんが「変な気遣うな」と苦笑していた。
「いや、気を遣わせたのは俺か」
「ちが、僕が、僕の、せいで」
「落ち着け。大丈夫、ちょっと深呼吸するか。うん、いいぞ。……そうだなあ。叶えたかった願いがあったんだ。どうしても叶えたくて、叶えてやりたくて」
一度言葉を切ったドゥルガさんは、僕を見て、それから目を伏せた。
「結局叶える前に台無しになっちまって、それっきりなんだ。俺自身には、それ以外に叶えたい願いなんてなかったからな。結局は神に問われて、『叶えたいことが出来た時に叶えることが出来る権利』、って答えた。勿体ぶってんだよなあ。実は」
叶えてやりたい、とドゥルガさんは言った。誰かドゥルガさんにとって大切だった人の願いを、信徒として戦い抜いて代わりに叶えようとしていたのかもしれなかった。それが地球に残してきた誰かなのか、この世界で出会った誰かなのかはわからないけれど。
最後のおどけたような声音に、重くなった空気を明るくしてくれようとしているのがわかって、僕も微笑んだ。甘えっぱなしではだめだ。自嘲も、反省もあとで一人ですればいい。
「なんか、一休さん、みたいですね」
「い……何だって? 人の名前か?」
「えっと、一休さんは日本の説話で……仕掛けられた勝負や問題を、頓智を使って解決していくストーリーで」
「とんち? 知恵ってことか。はは、なるほどな。確かにそうかもな」
神に頓知を仕掛けた人間、て結構すごい気がするなとドゥルガさんが破顔した。
僕もうんうんと頷いた。それから、少し考えてみる。僕が叶えたい願いって何だろう。父さんを探す、というのはこの世界でやりたいことで、地球で出来なかったことをする、というのはこの世界で頑張りたいことだ。神様に叶えて欲しいことかと言われると、ちょっと違う気もする。
「まあ、まだ時間はある」
穏やかな声音だった。全ての辛苦を体験したあとの凪を感じる声だった。
「よくよく考えておいてくれ、晴一郎」




