020 はじめての魔法
【お気をつけください、将軍、嫉妬というものに。それは緑色の目をした怪物で、ひとの心をなぶりものにして、餌食にするのです --シェイクスピア作『オセロ』より抜粋】
◇ ◇ ◇
(む、難しすぎないか……?)
僕は触り心地の良いシーツの上に、文字通りひっくり返った。枕に顔を埋める。伸ばした指の隙間から、先ほどまで出していた魔力の名残りが砂になって霧散していく。ララノアさんは、どうやって自分の魔力をあんな綺麗な一枚板にしているのだろう。苦節数時間。未だコツは掴めない。
陽はすっかり沈み、周囲は夜の帳に包まれていた。雨音はしないが、薄く開いた窓からは冷気が細く吹き込んできていて、昼間の陽気が嘘みたいに肌寒い。数日過ごしただけだが、この国は昼夜で寒暖差の激しい気候地帯にあるのかもしれない。
(魔法はイメージって言ってたけど……)
マットレスに伏せながら、僕は「うーん」と唸る。ララノアさん曰く、魔法とは想像力で出来ているらしい。
【性質変化を行う上で大切なのは、魔力にどうあって欲しいか、具体的なイメージをすることです】
【イメージ?】
【形、サイズ、重さ、位置、向き、速度、用途、といったところですね。それらをかなり詳細にイメージしてから、自分の魔力に指令を出すんです。そして唱える】
「魔力に性質を付与します」
そんなに大きい声ではなかったが、いやにその声が耳についたので、僕は慌てて口をつぐんだ。周りが静かだからか、少しの物音でも、ここはよく響く。
僕は黙ってそっと起き上がり、右手に視線をやった。唱えたところで魔力に変化はない。イメージが足りないのか?
(具体的、具体的に……)
いつまでも医務室を間借りするわけにもいかないからと僕に新しくあてがわれた部屋は、宿舎棟の三階にある角部屋から三つ隣の一室だった。間取りは初日の部屋とたいして変わらない。シングルベッドと、丸テーブルと椅子。ウォークインクローゼットが備え付けられていて、別扉に洗面台とバス、トイレ。
「イメージ……例えば、魔力のシールドを一辺が30センチメートル正方形として、厚さは5センチくらい? 速度は浮かべるんだから0で……お、重さ? 盾として使うなら鉄くらい重い方が良いんだよね、多分。でもそのサイズだと人一人分の体重くらいにならないか? そ、それって浮かぶのかな……」
何事もやってみなければ始まらないか。そう言い聞かせて、僕は仰向けにひっくり返ると両手を擦り合わせた。一つ深呼吸をする。それから、本を捲るように手を開いて、キラキラと魔力が宙を舞うのを見て、
(イメージ……)
ララノアさんの、貝殻のような小さな手のひらに浮かぶ、一枚のガラス板を思い浮かべる。僕の魔力は、ララノアさんのものとは違って最初から幾つかのカケラに分かれてるから、まずはそれをくっつけて、一つにして--
「魔力に性質を付与します」
無意識に閉じていた目を開くと、そこには寸分違わぬ姿で青白く煌めく僕の魔力があった。形が変わっている様子はない。
「あー」
駄目かあ、とため息が出る。
(具現化がすぐに出来たから、舐めてたなー)
腕をマットレスに投げ出して、僕は目を閉じた。今日はもう無理だろうか。明日また、ララノアさんにコツを聞くしかない。
もう寝てしまおうと思ったところで、ひゅー、と耳元で隙間風の音がした。窓は昼間のままにしてあるから、拳一つ分ほど開いている。そこから侵入してくる底冷えするような冷たい外気に、流石に開けっ放しにしたまま寝たら風邪を引くかもしれないなと思う。億劫だが仕方がない。立ち上がって窓の鍵に手を掛けて、
「あ」
今日は満月だった。窓枠に切り取られた夜空に、大きな正円がドンと浮かんでいる。地上との距離が近いからか少し橙色じみていて、空気が冷えているからか、丸い輪郭がくっきり見て取れる。周囲に遮るものが何もないのが功を奏しているのだろう。僕は誘われるように窓を開けて、ベランダに出た。トゥニカ一枚ではやはり寒い。腕を摩りながら天を見上げる。
(きれいだ……)
ざあっと草原を吹き抜けた風が舞い上がって僕の髪を乱した。青臭い土の匂いが鼻をつく。その風の音に、一瞬、ベランダで襲われた時のことがフラッシュバックして身が固くなったが、
「あ、やべ」
頭上から聞こえてきた声にびっくりして、僕は別の意味でフリーズした。ここ、三階じゃなかったっけ? 三階建てなのだから、この上は屋根のはずである。
(でも今の、人の声だった)
ベランダの手すりから身を乗り出して、恐る恐る上を見上げてみると、
「わっ」
顔面に柔らかい布のような物がぶち当たった。弾みで後ろにひっくり返りそうになって、何とか手すりを掴み直す。危なかった。顔に引っかかっていたのはブランケットのようで、屋根の上に誰かいるのは明白だった。
「……晴一郎?」
「ドゥルガさん?」
屋根の上から逆さまに顔を出したのはドゥルガさんだった。黄土色の髪が月の光を浴びて、金色に輝いている。ドゥルガさんは、僕の顔を見て、僕の手の中にあるブランケットを見て、それから「ナイスキャッチ」と笑った。
「悪かったな。今日はよく晴れてたから、月見でもしようと思って屋根に上がったんだが、思いのほか風が強くて飛んじまった。拾ってくれてありがとな」
「……や」
「ん?」
「屋根は危ないですよ……」
あはははは、と笑い声が上がる。顔を引っ込めたドゥルガさんが、上で腹を抱えているのがわかった。レンガがブーツに踏みしめられてカチャカチャ鳴っている。
「そうだよな。綺麗だったから、つい。驚かせたか?」
屋根の縁を掴み、ひらりと僕の部屋のベランダの端っこに飛び移ったドゥルガさんが、いたずらっ子のようにニヤリとして、手すりにしゃがみ込んだ。すごい運動神経と体幹である。僕の心配は、無用の長物だったらしい。
「お前は? こんな夜中に何してたんだ?」
柔らかい声音だったが、こちらを見つめる視線は些細な変化も見逃すまいとする鋭いものだった。「眠れない?」と続いたセリフに、余計な心配をさせてしまっていることを悟って、ぶんぶん首を横に振る。
「練習してたんですけど、上手くいかなくて」
「練習、って魔法のか?」
「はい。魔力の硬質化を、今日教えてもらって……イメージすることが大事って聞いたんですが、僕の魔力、元々複数に分かれてるので上手く一つにならなくて」
差し出した手に魔力を映し出す。ドゥルガさんは驚いたように目を丸くしてから、その目を三日月のように細めて微笑んだ。
「綺麗だな、宝石箱みたいだ」
「え」
あまりに自然すぎる賛辞に、一瞬反応が遅れた。
「でもなるほどな、確かに。うーん……」
ドゥルガさんは言葉に詰まる僕を気にした様子もなく、顎に手を当てて小首を傾げている。動きに合わせて、後ろに撫でつけられた前髪から、一房だけ毛束が垂れて目に掛かった。それを鬱陶しそうに撫でつけながら、
「ララは? 何て言ってたんだ?」
「具体的にイメージして、魔力に指示を出すって」
「完成形のイメージは? 出来てるか?」
「た、たぶん……?」
「うん。言ってみ」
「その……さ、30×30の正方形くらいで」
「うんうん」
「厚さは5センチ、重さは40キロくらいで」
「あはははは! 材質は鋼鉄かなんかの想定か? 良いな、すげえ強そうだ」
「つ、強そう……」
「盾として使うんだもんな。それくらいの強度は欲しいよな。それで?」
「そ、それで、僕と並行になるように、こう、手のひらに浮かべる感じで」
「オーケー。唱えろ」
「も、魔力に性質を付与します」
何も起こらなかった。うーん。僕も口を引き結んで首を傾げた。やっぱり何かが違うのかもしれない。
「晴一郎」
呼ばれて顔を上げる。手すりの上で顎に手を当てたドゥルガさんが、「悪くはないと思うぜ」と慰めにもならなそうな感想を言った。
「でもあれかもな。多分ララのを見た後だからか、ララのイメージに引っ張られてすぎてるのかもな」
「引っ張られすぎてる?」
「ああ。人によって、魔力の量も質も様々だろ? だから性質変化一つとっても、全く同じようにはなりようがないってことだ」
見てろ、と言ったドゥルガさんが、おもむろにパチンと指を鳴らす。
「魔力に性質を付与します」
現れたのは、仄かに黄味を帯びた透明な矩形。ドゥルガさんの硬質化した魔力だろう。さながらトランプのような小さな盾が五枚、一直線に連なって浮いている。
「手のひらの上に出さなきゃならないってわけでもないし、一枚にしなきゃならないってわけでもない。俺の場合は、魔力量こそあるが、そこまで魔素の密度が濃いわけじゃないからな。攻撃を弾けるほど分厚い壁は張れねえんだよ。だから、代わりに沢山出して、重ねて使う」
もっとイメージってのは自由で良いと思うぜ、とドゥルガさんは続けた。
「例えばそうだな。お前、科学ってやつは得意か?」
「か、科学?」
(それって学校で習うような?)
「あ、あんまり?」
「はは、そっか。俺もあの人に初めて説明された時は、何言ってんだコイツって思ったっけ」
懐かしいな、なんて言いながら、ドゥルガさんは手すりに本格的に腰を掛けて、長い足をぶらぶらさせつつ僕を見た。
「昔の仲間に、魔法について毎回科学的解釈ってやつを延々語る人がいた。魔力の加減速は相対性理論の応用でどうこう、水属性魔法は熱力学第三法則でなんちゃら、つってな。俺はまともな教育なんざ受けてねえし、言ってることの半分もわからなかったんだが、あの人が他のヤツとは全然違うイメージで、皆と同じように魔法を使うのを見て、魔法って結構自由なモンなんだなってその時思ったんだよな」
「…………」
「だからさ、確かに座標とか質量とか、そういうのを想定するのは大事だ。大事なんだが、そもそも前提として、ララと同じ形にする必要は、俺はないと思うんだよな。もっと気楽にやっても良いと思うぜ、晴一郎」
「気楽に……」
「まあ、そう言われてもいきなりは難しいだろうけどな。うーん、どうしたもんか」
「うーん……」
「晴一郎」
「はい」
「一応、やってみるか?」
「?」
「あくまで参考までにだが、あの人がどんな風に魔法を見ていたか」
知りたいのなら。静かに問われた。ほんの少しだけ低くなった声音に反応して、僕は思わずドゥルガさんの顔を見遣る。強い光を湛えた黄金色の瞳が、全てを見透かすように真っ直ぐこちらを見ていて、
(ああ、なるほど)
僕は悟った。今のドゥルガさんの話は、昔の仲間と過ごした記憶に基づくものなのだ。魔法という非科学的なことを実行するために、自分が理解出来る科学的なことに当てはめて考えようなんて、そんな人間、確かに父さんしかいない。納得して、だから僕はドゥルガさんの申し出に素直に頷いた。
「っ」
それを見たドゥルガさんは、なぜかほんの少しだけ目を見張った。何かに驚いたようだったけれど、一瞬すぎてそれが何なのかまではわからなかった。ドゥルガさんは、それからすぐに眉をハの字に下げて、切り揃えられた爪で頬を掻いて、
「えーと、何つってたっけな……化学、結合? だったか。硬質化っていうのはつまり、魔素という原子を繋ぎ合わせることだからとかなんとか……悪い。自分で知りたいか聞いておいて何だが、難しすぎてあんまよく聞いてなかったんだよなあ」
「化学結合……」
記憶の底から授業で習ったことを引っ張り出してくる。化学の授業はあまり得意ではなかったが、別に勉強に対して不真面目だったわけじゃない。学校では特別親しい友人もいなかったし、勉強しかすることがなかったから。
(確か、化学結合は四種類あって)
僕はトントン、と米神を叩いた。思い出せ、思い出せ。四種類。確か、共有結合、イオン結合、金属結合と、分子間力。
(一番強い結合は、共有結合だったはずだけど)
原子間で電子を共有する結合だから、魔法のイメージに置き換えるのは難しいだろうか。だったら、その次に結びつきが強いイオン結合なら?
「晴一郎?」
「+のイオンと−のイオンが引力で結びつく結合だったはず。魔法の硬質化も同じなら……」
「イオン?」
「魔素は身体に流れる原子の粒で、その一粒一粒が+のオーラと−のオーラの、そのどちらかに常に包まれているとすると」
僕は、血が沸騰するような錯覚を得た。視界が狭まっていくのがわかる。猛スピードで思考が巡る。
「何だ、空気が変わった? おい、晴一郎--」
「+の粒は−と、−の粒は+と引き合ってくっつく。それを縦横に何千、何万個と繰り返して、一枚になるように」
「暴走……っ、一旦やめろ、晴一郎!」
(唱えろ)
「魔法に性質を付与します」
ざあっと鳥肌が立った。今、動いた。パッと顔を上げると、手のひらで回転していた魔力のカケラが結合し、小さな六角形となっている。それが何枚も隙間なく連なって、視界に広がっていた。ハニカム構造だ。蜂の巣で良くみる構造。
(良かった、出来た)
「ドゥルガさ」
「晴一郎ッ‼︎」
ほぼほぼ怒鳴り声に近い声量で名前を呼ばれて、僕は大きく肩を跳ねさせた。腕を思いっきり引かれて前につんのめる。せっかく作ったシールドがパリン、と割れて夜空に砕け散った。
「ドゥルガ、さん?」
【何だ今の。一瞬コイツの目が。過集中? クソ、あの気配。ジンイーが死んだ時と同じだった。正統神の魔力を使うとああなるのか?】
「?」
「晴一郎、気分は?」
「え、と、大丈夫です」
【乗っ取られた様子はないか。良かった。受け答えもはっきりしてる。ったく、心臓止まるかと思ったぜ。今はセオドールもいないから、あの出力で暴走されたら手に負えないところだった。正統神の魔力は未知の部分が多いから極力使って欲しくねえが、どう伝えたもんか。この感じだと自覚はねえみたいだし】
するり、とドゥルガさんの手が僕の腕を滑り落ち、定位置へと戻っていった。僕の左腕にはドゥルガさんの手の跡がくっきり残っていて、僕はその跡に指を滑らせる。
「あ、悪い! 大丈夫か⁉︎ 折れてねえよな? 痛みは--」
「大丈夫です。すみません」
「は? 何でお前が謝る。俺が力一杯引っ張ったせいだろ? 悪かったな」
でもドゥルガさんは、僕を止めようとしてくれただけなのだ。僕は俯いた。今読み取った思考から推察するに、僕が良くない力を使ったが故の行動だったのだろう。
(ただ……)
ドゥルガさんの心の声が言うように、さっきの僕に何か特別な力を使ったという意識はなかった。魔力を具現化する時も、ドゥルガさんやララノアさんの言う『正統神の魔力』と『僕自身の魔力』が別々に僕の中にあるという感覚はない。ドゥルガさんが感じたという気配も、僕では知覚できないみたいだし……
「その、変なことを聞くようで悪いが」
「はい」
「……今、魔法を使った時、いつもと違うことはなかったか? 身体に異変があったりとか、意識が遠のいたりとか」
首を横に振る。強いて言うなら視界が狭まった気がしたが、集中した時に周りが見えなくなるなど良くあることだ。
「そうか」
「……すみません」
「だから何で謝る。俺こそごめんな、せっかく出来たのにろくに見もせず根掘り葉掘り……嫌な思いをしたろ」
ぶんぶんと首を振る。そんなわけない。
「そうか。なら良いが」
それからドゥルガさんは、重くなった空気を変えるように一度手を叩いてから、にっ、と笑って言った。
「よし、もう一回やってみるか。今度こそちゃんと見とくから」
「え、でも」
「こういうのは反復練習が大事なんだよ。魔力でシールドが張れなきゃ、お前がこれから困るだろ?」
明るい口調だったが、ドゥルガさんの指先は油断なく、太ももにぶら下がったナイフの柄に掛かっていた。俺では手に負えない、なんて言いながら、それでもドゥルガさんは、僕がおかしくなったら止めてくれるつもりなのだ。
「もうコツは掴んだだろうから、今と同じイメージで良いんだが、一つだけ。潜りすぎには注意しろ」
「潜りすぎ?」
「過集中って言うのか? お前はちょっとその気があるみたいだからな。戦闘中に周りが見えていないと命取りだろ? その練習だと思ってやってみろ」
「わ、わかりました」
僕は手を目の前に翳した。大きく息を吸って、長く吐き出してから、
(潜りすぎないように……)
「魔法に性質を付与します」
カケラが点滅したかと思うと、今度こそ僕の魔力はちゃんと収束して一面の壁を成した。今までの苦労が嘘みたいな呆気なさだった。
(良かった、特に何もない)
パッとドゥルガさんを見る。ドゥルガさんも安心したように息をつくと、「上出来だ」と口角を上げて微笑んだ。
「さっき言ってた、その、イオン結合? で想像したのか? 雪の結晶みたいで良い形だな」
「その、これでも……?」
「ん? 気にしてるのは形か? 全然、自由で良いっつったろ。これも充分、個性の範疇だ。それにそもそも、硬質化なんてガードする時にしか使わねえんだから、自分の身が守れんならどんな形だって構わねえさ」
ただこの薄さだとすぐに割れるから、もっと厚くした方がいい。続いたアドバイスに、僕は首肯した。
「あの! ありがとうございました」
「どういたしまして」
月光に照らされて、ドゥルガさんの影がベランダに長く伸びていた。結構長い時間外にいたのかもしれない。そろそろ部屋に戻るべきだろう。挨拶をして、踵を返そうとしたところで、徐に、少し何かを思案したようなドゥルガさんにブランケットを投げてよこされた。
「あの」
「まだ眠気が平気なら、一緒に天体観測でもどうだ?」
「え」
「実は……厨房からこっそりくすねてきた美味しいビスケットとスープがある」
真剣な表情でそんなことを言うので、僕は思わず笑ってしまった。
「重要ミッションなんだ。夜が明けるまでに証拠隠滅しなきゃなんねえからな。付き合ってほしいんだが」
「僕で良ければ。喜んで」
その快諾にドゥルガさんは満足そうに頷いた。




