019 緑の目の怪物
その日は結局、それから一度もララノアさんの姿を見なかった。仕方がないので、ララノアさんから教わった魔力の具現化なるものを練習しながら、たまに様子を見に来るドゥルガさんと話をしたりして過ごした。ドゥルガさんは「普段はそんな無責任なことする奴じゃないんだけどな」と不思議そうにしていたので、「僕が練習の時間が欲しいって言ったんです」とだけ伝えておいた。
次の日、もうすぐお昼という時間帯に僕の部屋にノックして入ってきたララノアさんは、相変わらずのポーカーフェイスに戻っていたけれど、
「昨日はすみませんでした。フォローしてくださったようで……ありがとうございました」
言葉とは裏腹にどこか不服そうな声音だった。自分の感情に素直な人なのだろう。自由気ままな猫みたいな人だと僕は思った。
「先輩に言わなかったんですね」
「ん? 何をですか?」
「…………」
「?」
「別にいいです」
「??」
ララノアさんに連れられて、僕は部屋を出た。僕と同時期--第二期らしい--に降臨した他の信徒達は、今朝方教会を出発し、街におりたらしい。講堂が空いたので今日からそこで授業をしましょう、と言われて、後に続く。
講堂は信徒の宿舎とは反対側の棟にある。棟を渡るには一階中央の聖堂を横切らなければならなかった。聖堂を抜けるのはあの夜以来だ。
(晴れてる)
今日は良い天気で、渡り廊下も乾いていて歩きやすかった。あの夜は暗くて、雨も降っていたから意識していなかったが、渡り廊下の柱には洒落た彫り込みがされていて、古いが丁寧な造りであることがわかる。柱に手を当てると、陽で温められたのか、ほんのり熱を持っていた。
「どうかしましたか?」
足音が止まったからか、前を歩いていたララノアさんが振り返ってこちらを見ていた。短く切り揃えられた前下がりの銀髪が、彼女首の動きに合わせて僅かに揺れる。その一本が薄い唇にかかっていて、それはまるで絵画のようだった。
「何でもありません」
「そうですか?」
聖堂の扉の前の柱は、セオドールの風の刃で切られたはずだったが、今は何事もなかったように元通りになっていた。けれど、
(線?)
よく見ると、うっすら接合部に跡が残っている。そのままくっつけたのだろう。切断面が綺麗だとこうも違和感なく復元出来るらしい。
「何してるんですか? 行きますよ」
「あ、はい!」
扉の蝶番はなくなっていた。ギ、と木製の扉を押し開けて中に入る。復元された外とは異なり、聖堂の中はあの時のままだった。瓦礫は綺麗に撤去されていたものの、小惑星のような球体の爆発に巻き込まれて、中央部の床は大きく円形に抉れていた。聖卓もチャペルチェアも吊り下がり式の照明もなくなっただだっ広いだけの空間に、何だか前以上に伽藍堂な印象を受ける。
「…………」
足元に視線をやる。一部分だけ、夥しい血の池が固まって、変色してこびりついている場所があった。ジンイーさんが殺された場所だ。どうやら血痕は落としきれなかったらしい。いや、そもそもこのまま床を剥がして張り直すのか。どちらにしろ、そこだけは時が止まったようにその時のままだった。
僕は思わず立ち止まって懐の手帳に手を伸ばす。
【これは、この先の君の役に立てると思うから】
わかっている。拾った命だ。僕はちゃんと役立てなければならない。わかっているけれど。でも、あれから僕は、この手帳を一度も開けずにいる。
「梅原さん」
不意に腕を取られて僕はタタラを踏んだ。いつの間にか立ち止まっていたらしい。ララノアさんにぐいぐいと無理やり腕を引っ張られて、そのまま聖堂の外まで歩かされる。ララノアさんは何も言わない。でも、
【無神経すぎた】
ララノアさんの声が後悔していたから、僕は少し笑ってしまった。背の低い彼女の旋毛を眺めて、無意識に詰めていた息を吐き出して……それから口をきゅっと結ぶ。そうしないと余計なことを言ってしまいそうな、そんな気分だった。
「ここです」
ララノアさんに連れられてきた場所は、講堂とはいうが、実際はまさしく学校の教室のような造りと規模感の部屋だった。木製の長机と長椅子が所狭しと並んでいて、正面には黒板と教壇。黒板にはところどころチョークのカスが付いていて、消しが甘かったのか、白茶けているところもある。
ララノアさんが無言で教壇に立ったので、僕は大人しく一番前の中央を陣取った。机の端には誰かが描いた落書きが残っていた。
「昨日……あれからどうでしたか?」
「あれから?」
「魔力の具現化です。あれは全ての魔法の基礎になります。特に不都合はありませんでしたか?」
僕は手元に視線を落とした。一度ぎゅっと拳を握ってからパッと開く。キラキラ、と透明な星屑が宙を舞う。
「もうそこまで……」
「昨日、結構練習しました。パッと出来るようになったつもりなんですけど……どうですか?」
「上出来です。なら今日は、魔力の『属性』と『性質』についてお話しましょうか」
ララノアさんは白いチョークを手に取った。黒板に丸い円を二つ書いて、その中に属性と性質、と書いている。相変わらず丸っこい字だ。書いた位置が低すぎて教壇に被って見えなかったので、僕は身体を傾けてその様子を眺める羽目になった。
「昨日も言いましたが、魔法はそこまで便利な物ではありません。一部の例外を除いて、魔法とは、基本的には魔力に属性と性質のどちらか、あるいは両方を付帯させた結果にすぎません」
例を挙げましょう。細い指が一本、天井を指した。
「私の魔力は見せましたよね?」
「はい」
僕は、あのヴェールのような透明な蜃気楼を思い描いた。僕の前に歩いてきたララノアさんがもう一度両手の中にそれを浮かべる。
「この状態が、フラット--つまりは無属性かつ無性質の魔力です。よく見ていてください。このフラットな魔力をこうすることで」
ララノアさんの指が力を入れたように強張る。
「魔力に性質を付与します」
次の瞬間、シルクのレースのようだった柔らかな魔力がピンと張り、四角く硬質化した。まるでガラス板だ。厚さは一ミリもない。
「これが、フラットな魔力に--ちょっと! 絶対触らないでくださいね!」
無意識に伸ばしていた手を引っ込める。うっかりしていた。生身で触れたら木っ端微塵なんだっけ。
「す、すみません」
「本当危機感持ってくださいよ……良いですか? これが、フラットな魔力に『硬くなる』という性質を与えた状態、すなわち魔力の硬質化です」
魔力の硬質化。魔力の性質を変化させた状態。まるで粘土だな、と僕は思った。小学校の時の図工の授業を思い出す。こねて、形を変えて、新しい物を生み出す。
「じゃあ、柔らかくも?」
「当然、出来ますよ。魔力に性質を付与します」
ガラス板が今度はスライム状になって、ララノアさんの手のひらで跳ねた。ビヨンビヨンと伸縮している。
(餅みたいだ)
「他にも、加減速させたり、伸縮させたり……色々と応用はききますが、最初に練習するなら、貴方の場合、まずは今実践した魔力の硬質化でしょうね。硬化した魔力は盾になります。魔法攻撃だけでなく物理攻撃からも貴方の身を守ってくれる」
なるほど、いつでも出し入れ可能なガードというわけだ。僕は大きく頷いた。
「次は魔法の属性についてお話しますが、これは正直、練習すれば全員が扱えるというわけではありません。どうしても相性の良し悪しというのがあって」
ララノアさんが徐に窓を開けた。外気が流れ込んできて、カーテンがバサバサとたわむ。ララノアさんは乱れた髪を手櫛で整えながら、
「例えば、私の魔力は風の属性に親和性があります。見ていただいた方が早いのでやって見せますね。魔力に属性を付与します」
ララノアさんが自分の手の爪先に息を吹きかけた。
「旋風」
「わっ」
僕の目の前で、突如つむじ風が立ち上った。縦に百センチほど、細いが高さのある竜巻。それはくるくるくるっと高速回転したあと、数秒で霧散した。
「これが魔力に風の属性を付与した状態、いわゆる風属性魔法ですね。属性魔法は、魔力の性質変化より強力な分、魔力消費が大きいのが特徴です。簡単に言えば、燃費が悪い」
「燃費」
「ええ。例えば、今の風属性魔法『旋風』は、任意の場所につむじ風を出す魔法ですが、自分の魔力だけでこれを発動させようとすると、それこそこの程度の規模ですら、並の魔法使いが体内の魔力を枯渇させて、且つ数日寝込むくらいの量を使わなければなりません。そのくらい燃費が悪いんです。でも、外界のもの--要は自然や文明ですね。その中に含まれている魔素を借り受けて発動させれば、私たちが消費する魔力は少なくて済みます」
今窓を開けたのはそういうことです。ララノアさんの小さな拳が、コツコツと窓ガラスを叩いた。
「いかに少ない魔力消費で強い魔法を行使できるか、それが魔法戦では鍵になってきます。世に言う一般的に強い魔法使い、というのは、一つの属性魔法を極めた者か、あるいは、複数の属性魔法を自在に使いこなせる者です。代理戦争に参戦する信徒というのは、今でこそ皆、初心者ですが、魔法適性の高い人間が選ばれているだけあって、毎度終盤では複数の属性を使いこなす魔法使いがゴロゴロ出てきます。貴方もいずれは、そうならなければなりませんが」
ララノアさんが一度言葉を切る。片眉を上げてやや肩を竦める仕草は、幼い見た目に反して堂にいっていた。
「まあ、そもそもそこまで生き残れたらの話ですけどね。花の王が初日の間引きを生き残ったのは、数百年ぶりです。ましてや、代理戦争の最終局面……それこそ、残り五人となるまで生きていたことなど一度もない。だから、その……あまり期待しすぎないように」
僕は顔を上げて、逆光で影の落ちるララノアさんの顔を見つめた。視線に気づいたのか、一瞬怯んだように唇を震わせた彼女は、気まずそうに目を伏せる。本当に正直な人だ。厳しい言葉の裏側に彼女の気遣いを垣間見て、僕は微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。ちゃんとわかってますから」
その瞬間のララノアさんは何とも言えない表情をしていた。クールなポーカーフェイスの上を一瞬過ぎったのは何だったか。怒り、のようにも見えたけど。
(怒ってる? 何に?)
彼女は何を思ったのだろう。今は接触していないし感情の起伏も緩やかだったから上手く読み取れなかった。
「……わかっているならいいです。どちらにしろ、魔法の基本となる性質変化が出来なければ、属性魔法の行使なんて夢のまた夢ですしね」
カラカラカラ、と乾いた音を立てて窓が閉められる。陽の光を浴びて、ララノアさんの銀糸の髪が宝石のように光っていた。ふと、彼女の緑瞳が窓の外を見る。メロンサイダーみたいに澄んだ瞳孔が、一瞬、何かを見つけたように驚きに見開かれて……それからふんわりと細まった。ああ、きっと外にいるのはドゥルガさんだ。僕は何となくそう思った。
だから僕は邪魔をしないようにそっと視線を逸らした。たくさん練習して、早く魔法を使えるようになって、すぐにでもこの教会を出よう。強くそう思う。ララノアさんの言った通り、僕はきっとこの戦争を最後まで生き残れないだろう。未来のない僕に付き合わせてしまう時間は少ない方が良いにきまってるのだから。
【私の方が先輩のそばにずっといたのに。世話まで妬かれてずるい。ずるい。ずるい】
昨日のララノアさんの心の声を思い出す。僕は早くここを去らねばならない。こんなに優しくて綺麗な恋をしているララノアさんを、緑の目の怪物にしてしまう前に。




