018 モル
【わたしたちの からだには たくさんの まほうのみなもとが ながれています。この まほうのみなもとを mol といいます。molを ぎゅっぎゅっと おしかためたものが まほうのちから、moranです。わたしたちが まほうを つかうとき、わたしたちの からだのなかでは この まほうのちからが がんばって はたらいています。つよいまほうつかいに なりたいのなら、わたしたちは じざいに まほうのちからを うごかせるよう たくさんの れんしゅうを しなければなりません。 --『はじめての やさしいまほう 選徒教会刊行』より抜粋】
◇ ◇ ◇
信徒とは、神々によって選ばれた、魔法適性の高い地球人のことである。地球人の中でも、特に魔力量が多かったり、魔法の扱いに対して他より秀でた器用さがあったり、魔法に対して強い耐性のある人間が選ばれやすい、とは少女談だ。
「出来なきゃ貴方、信徒になってないですよ」
呆れたように溜め息を吐きながら、少女が開いている手で僕の手を取った。握っていた拳を開き、膝の上でそっと上向ける。少女は手のひらの皺を爪でなぞりながら、
「体内の魔素の流れを意識してみてください。一見しただけで魔法を知覚できるくらい適性があるなら、多分、今すぐにでも貴方は出来ます。血液のように流れている魔法の源を、指先へ流すイメージで」
僕は手元へ視線を落とした。魔法の源を、指先へ流すイメージ。魔法の源って何だ? うーん、と内心首を傾げていると、突如僕の脳裏に、風でたなびく黄金色の麦畑が広がった。潜在魔法が何か読み取ったのだ。今よりもずっと幼い少女が、母親らしきエルフの女性と手を繋いで稲穂を掻き分け歩いている。女性が少女に囁いている。「ここに吹く柔らかい風のように、優しい魔法使いになりなさい」手が触れているからだろう。これはきっと、僕の潜在魔法が見せる彼女の記憶だ。小さい頃に魔法を教わった時の、大切な記憶。
少女の思い出に共鳴でもするように、僕は幼い頃に父さんと見た流れ星を脳裏に描いた。クレヨンで線を書いたみたいに、夜空の黒いキャンバスにたくさんの星が弧を描いていた。夏でも高所だったからか肌寒く、僕らは二人で身を寄せあってそれを眺めていた。ペルセウス座流星群。それから僕は想像した。天の河を渡る星屑のように、僕の身体を渡る魔法のカケラを。
「ははっ」
少女が思わずと言ったように笑ったのがわかった。
【なるほど、信徒に選ばれるだけのことはある】
僕の右手の手のひらに、指の爪ほどの星型結晶が浮かんでいた。一、ニ、三、四、と数えて八個ほどある。青白く輝く、小さくて透明な正十二面体。まるで金平糖だ。それが思い思いに回転しながら宙に浮いていた。僕の手の中に、小さな銀河が出来ている。
(これが、僕の魔力?)
先ほどの少女のものとはえらい違いだった。少女の魔力は、もっと薄くて柔らかくて、花嫁のヴェールのようだった。形には個人差があるのか。
「ここまではっきり可視化できるほど濃密な魔力の具現化を、それも一度で成功させるとは思っても見ませんでした。流石、信徒様ですね」
「形が」
「ああ。何の性質も帯びない純粋な魔力というのは、魂の性質に影響を受けますから。私と貴方で形が異なるのは当然ですよ」
【当然。当然だけど、この人からはこの魔力以外にもっと異質な何かの気配を感じる。それが先輩の懸念していた、自我を持つ魔力?】
僕は目を見開いた。少女が言っている異質な何かとは、きっとあの夜、聖堂で見た青白い球体のことだ。自我を持つ魔力の気配。それは、もしかしなくても、
(あの時聞こえた、謎の声のこと?)
少女が添えていた手を離したので、それ以上心の声は聞こえなくなった。僕の気が散ったからか、結晶体も下からほろほろと崩れて中空に霧散する。光る塵を目で追いながら、少女は「まあ上出来です」と、教師らしく頷いた。
「さっきの今でこれなら、すぐに魔法も使えるようになるでしょう。この続きは午後にしましょうか。もう昼時ですので」
食堂の場所はご存知ですか? と聞かれて首を振る。
「ドゥルガさんが、持ってきてくれるみたいで」
それを聞いた瞬間、少女の瞳が揺れた。
(?)
淡々としていた少女の完璧なポーカーフェイスが、今一瞬崩れたような気がして、僕は首を傾げた。何か変なことを言っただろうか。少女は、中途半端に開いた口から息を吸って、何かを言おうとしてやめたみたいな顔をしている。おもむろに椅子から立ち上がった少女は、デスクの棚にボードを戻しながら、
「あの」
「?」
「最初から、気になっていたのですが」
「はい」
「……先輩とは、どういう関係なんですか?」
今度はペン立てにボールペンを差し入れながら、少女はそっけなくそう言った。今までの竹を割ったような話し方と違って歯切れの悪い言い方だったので、僕は彼女を改めて見つめた。どうって、どういう意味だ? 信徒と庭師? でもそんなこと、彼女も知っているはずだけれど。
少女はこちらを見ていなかったけれど、しかし全身の細胞が僕の返答を待つかのように張り詰めているのがわかった。急にどうしたのだろう。これも何かの訓練? 返答次第で何かされたりするのだろうか。
「五日、前に、初めて会いました。具合が悪かったところを介抱してもらって、それからも色々、助けてもらって」
「色々……」
「その、ここのことを教えてもらったりとか、殺されそうになったところを守ってもらったり、とか?」
「まもっ」
「?」
「先輩は」
カチカチとボールペンの頭を忙しなく弄っていた手が止まる。医務室に静寂が落ちる。
「そういう人じゃないです。優しいところもあるけど、聖人なんかじゃないから。無闇にメリットがない人間を助けたりなんかしないし、一人に執着するようなこともしない。いつも一匹狼で、周りを寄せ付けなくて」
「?」
(そう、なのか。そんな風には見えなかったけど)
僕はドゥルガさんのことを、勝手にお人好しなんだと思っていた。「何で彼が君を守ろうとしているのか、私にはわからなかった。でも彼は、君をここから本気で救う気だった」とジンイーさんは言い残していたし、実際、信徒暗殺を生業とする庭師という仕事に就いていながら、対象の信徒を守ったりしていたから。
「えっと」
呼びかけようとして、僕は未だ少女の名前を知らないことに気がついた。
「あの、名前を聞いても?」
「ララノアです」
「ら、ララノアさんは、ドゥルガさんのこと、苦手、だったりするんですか?」
物凄い勢いで睨まれて、僕は口を閉じた。舌打ちまでついてくる。んん?
「どこをどう聞いたらそうなるんですか。私が言いたいのは、先輩は合理的な人だって話です。だから、先輩が貴方の世話を焼く意味がわからない。貴方、確かに魔法の才はありますが、それだってあくまで人間種レベルで見たらの話ですし、多分これからどれだけ鍛えたって先輩より強くはならないですよ。なのに、自分より弱い人を側に置いて、私なんかに頭下げて教育担当にして、自分の立場が危うくなるのにましてや守ってあげるなんて、全然先輩らしくないって言ってるんです」
窓から差し込む陽光を浴びて、ララノアさんの雪みたいに白い肌が、ほんのりピンクに色づいていた。尖った耳がピクピク上下している。それを見て、僕はそこでようやく合点がいった。ああ、なるほど。
「……嫉妬?」
「なっ‼︎」
こちらに向き直ったララノアさんの顔は、太陽のせいに出来ないほど真っ赤だった。間髪入れず、ララノアさんの心の声が鼓膜を叩く。脳を揺さぶられるくらいの声量だったので、僕の頭はグラグラ傾いだ。
【どうして。先輩にも知られてないのに。恥ずかしい。この人が来なければ、私、全然諦められた。特別扱いがいたら諦められないじゃん。この人、先輩に優遇されすぎ。私の方が先輩のそばにずっといたのに。世話まで妬かれてずるい。ずるい。ずるい。誤魔化さなきゃ。否定して。先輩に気にかけてもらっていいなあ。魔法の適性がある人が好きなら、私で良いじゃん。私の方がこの人より上手く使えるし、ずっとずっと強いのに】
「そんなんじゃありません‼︎」
これだけ離れていても心の声が聞こえるのだから、それだけ強い感情ってことだ。わーお。ぐらつく頭を何とか座らせて僕は呻いた。
【それともやっぱり顔、なのかな。この人めっちゃ整ってるし。甘い顔立ちとか万人受けしそう。身長高い。先輩の旋毛とか見えたりして。それはずるくない? 良いなあ。私も先輩に気にかけてもらいたいなあ。どうせその顔、みんなから愛されて育ってきたんでしょ。ならいいじゃん。先輩は私に譲ってくれてもいいじゃん。さっさと自分の身は自分で守れるようになって、先輩の側から離れてくれれば。ん? じゃあ私が頑張って教えこまなきゃいけないのか。あーあ、なんで私は絶世の美少女じゃないんだろう。顔のいい奴全員滅びればいいのに】
(すごいこと考えてる。心の中めっちゃお喋りな人なんだな……)
ララノアさんの感情に当てられて、ぽっぽっと頬が蒸気する。僕の潜在魔法、こういう効果もあるのか。熱い。右手でパタパタ仰ぐと、「聞いてます⁉︎」と更なる叱責が飛んできた。
「どこからそういう結論に至ったのか知りませんが、全然そんなんじゃないですから! 確かに貴方のことは先輩に頼まれてたから、色々教えたり手も貸しますけど、それだって単純に先輩には恩があるってだけで、断じて先輩に良いところを見せたかったわけでは」
タイミングよく部屋の扉が開くのを、僕はララノアさんの肩越しに見た。料理の乗ったトレイで両手の塞がったドゥルガさんが、肘でドアノブを押し下げて入ってくる。
「あ、あの、ララノアさん、その辺で……」
「勘違いしないでください! 全然そんなんじゃないですから!」
「わ、わかりましたから、そこまでにしておいた方が」
「何がそんなんじゃないんだ?」
低いテノールが響いた瞬間、捲し立てていたララノアさんはピタリと口を閉じた。気まずい沈黙がおりる。何も言えず冷や汗をかいていると、
「かえります」
「ら、ララノアさん!」
びゅっと脱兎の如く部屋を飛び出ていったララノアさんが、それでも扉にもたれかかっているドゥルガさんに、律儀に一礼していったことに、何だか僕は感心してしまった。ララノアさんは、ドゥルガさんが本当に好きで好きで仕方がないのだろう。
(みんなに愛されて、か)
【お前、守られて生きてきたんですね。愛されて、慈しまれて、望まれて生きてきた、そんな甘ったれた顔です】
それはそうだろう、と僕は思った。だってきっと、僕はそういうふうにしか生きられない。愛玩動物と一緒だ。この容姿を使って、僕を愛してくれそうな人に寄生することしか考えてこなかったのだから。
「何だ、あいつ?」
訝しげなドゥルガさんの声で我に帰る。忘れていたわけではなかったけれど、考えないようにしていたことだったから、変に思い出して気分が沈む。
「顔、赤いな。大丈夫か?」
「大丈夫です。これは当てられただけで」
「あてられ?」
苦笑して誤魔化してから、僕はドゥルガさんに駆け寄った。ドゥルガさんが抱える木製のトレイの上にはトマトリゾットとパンが二人分乗っていて、美味しそうな匂いが漂っていた。ぐう、と思わずお腹が鳴る。
「はは、五日も食ってねえんだから、そりゃそうだよな。食欲があって良かった。早く食べようぜ」




