016 彼がザトウクジラならば
【ここが大海原で、私たちが鯱に襲われている海豚なら、鯨はきっと助けに来てくれる。恐怖と絶望の咆哮を聞きつけて、何百キロも離れた地から、必ず助けにやってくる --云 静宜】
◇ ◇ ◇
叩きつけられた衝撃は凄まじかった。背中を強打して息が詰まる。どしゃり、と荷物か何かのように崩れ落ちて、僕は地面に這いつくばっていた。青白い球体の爆発で木っ端微塵になったチャペルチェアやら聖卓の瓦礫やらが吹っ飛んできていて、ほうぼう顔を上げた僕の上に影をつくる。ハッとした時にはもう眼前に迫っていて--
「‼︎」
バチバチ、と放電する音と共に、一筋の閃光がそれを砕いた。いつの間にか傍まできていたドゥルガさんが、降り注ぐ粉塵から僕を庇うようにしゃがみ込む。触れた手が熱い。
【あの一瞬でこの威力……純血の神の力ってのはここまでなのか】
(純血の、神?)
【こいつの様子からして、意識してやってるようには見えなかった。魔法自体に自我があるのか、魔力に乗っ取られたか。今のは何だ? あの魔力量。あれ以上集まれば次元が開くぐらいはしそうな規模だった。正統神とやらの権能は、こいつに何をさせようと】
(自我? 次元?)
正統神とは何だろう。聞き慣れない言葉が多くて良く意味を聞き取れなかった。ドゥルガさんは今のあの球体の正体が何か知っているのだろうか。
「大丈夫か?」
頷けば助け起こされて、僕は座り込んだまま、もうもうと立ち込める土煙が収まるのを眺めていた。聖堂内は見るも無惨な有様だった。空間中央の床はまあるく消えていて大穴が空いている。整列していたはずのベンチは粉々に砕けて、四方の壁に瓦礫の山を築いていた。
(そうだ……ジンイーさん)
慌てて見回しても、ジンイーさんの身体はどこにもなかった。あの球体に近かったから、爆発に呑まれ、消し飛んでしまったのだろう。僕は結局彼女を、救うことも、弔うことも出来なかったのだ。
俯いた先、ジンイーさんの左腕だけが吹き込む雨にしとどに濡れながら、そこにポツンと残されていた。セオドールに切り落とされた方の腕だ。側にはジンイーさんが最期に渡してくれた彼女の手帳も落ちている。
「あ」
僕は震える足を叱咤して、ふらふらとそれに近寄った。立ち上がったドゥルガさんは何も言わなかった。触れたジンイーさんの左腕からは焦げた肉の匂いがしている。手帳も同じく燃え焦げていたが、端だけだったので中身は無事のようだった。
「はー、死ぬかと思いました」
瓦礫の向こうで、軽く咳き込みながら木片を払う音がする。
「セオドール」
「最悪なんですけど。こんな任務だって知ってたら受けませんでしたよ。あーあ。シャツの中まで砂だらけですよ、クソすぎる」
「受けようが受けまいがどうせ駆り出されてたろ。あれ以上魔力を吸われて万が一にも暴走したら、ここら一帯は軽く吹き飛ぶところだったしな。受けてなきゃ、夜半に叩き起こされて対処に回されるだけだ」
「そりゃそうでしょうけど」
「俺たちは運が良かったようだぜ、セオドール。あれが、この程度の打撃で霧散するくらい不安定であってくれて」
セオドールは苛立ったように前髪を掻き上げ、舌打ちをした。それから僕を見て、更に眉を顰める。
「それは一体何なんです? ドゥルガ。ただの信徒とはわけが違う。況してや、最弱と名高い花の王とはとても思えない」
「こいつは確かに花の女神の信徒だよ。お前も降臨の儀には出てただろう?」
「ならさっきの現象はどう説明するんです? あれは花の王の特権ではない。お前、何か知ってるでしょう」
「……ついさっき、神託があったと神官どもが騒いでた。話を聞けば、本来ありえないはずのことが起こっているらしい。二神の加護を受けた王がいると」
「は?」
「皆まで言わなくてもわかるだろ。俺も聞いた時は半信半疑だったが、今発動した王の特権を見る限り確定だ」
「ちょっと待ってください。つまりお前は、コレが二人の神に同時に選ばれた信徒だとでも言うんですか?」
「ああ」
「ありえないでしょう、それは。前例がない」
「そもそも、この代理戦争自体に前例がないだろ」
「ああ、なるほど。お前が言うと説得力も一入ですね。流石は前戦争の当事者様だ。言うことが違う」
「……お前はいちいち嫌味を言わなきゃ死ぬ生き物なのか?」
降りしきる雨の音を背後で聞きながら、僕はただ、ドゥルガさんとセオドールのやり取りを聞いていた。左手でジンイーさんの左手を握っていた。
「百歩譲ってお前の話が本当だったとして……何だって同じ奴が信徒に選ばれるような事態になってるんです? 人間なんて、地球上に腐るほどいるでしょうに」
「さあな、俺が知るかよ。詳しくは神官共から話を聞け」
「使えませんね」
「何か言ったか?」
「いいえ何も。それで? コレの処分は?」
「中止だよ中止。これ以上の間引きの儀式はなしだ。コイツも他の信者と同様の処置を取るようにと言われた。間引くのは、お前が処理した音楽の王だけでいい」
「そりゃ残念。見たことのない異質の魔力だったんで、本人殺していいなら、ちょっと殺り合ってみたかったんですけど」
「おい」
「犬には冗談も通じないんです?」
「だから犬じゃねえっつってんだろ! 悪趣味もほどほどにしろよ、セオドール」
「はいはい。きゃんきゃんきゃんきゃん無駄吠えがうるさいんで、私はここらで退散するとしましょうかね」
「セオドール‼︎」
セオドールはドゥルガさんの叱責に首を竦めてから、大鎌を背中のベルトに止め直した。それからつかつかとその長い足で距離を詰めると、未だしゃがんだままの僕をぞっとするほど静かな眼差しで眺めて、
「そういえばお前、音楽の王の連れだったんですよね? 私が言うのも何ですが、目の前で仲間を殺されて何の反応もしないなんて、本当に人間です? 敵討ちとかいう感情ないんですか?」
僕は目を見張った。その通りだと思ったからだ。僕はこのセオドールという男に何の感情も抱いていなかった。憎しみも、嫌悪も。ただ、ジンイーさんが死んでしまったという喪失感に打ちひしがれていただけだ。僕はなんて。
(なんて、冷たい人間なんだろう)
「セオドール」
ドゥルガさんの低い声が、更に何かを続けようとしていたセオドールの言葉を遮った。僕の目の前に立ったドゥルガさんは、背の高いセオドールを下から睨め上げて、
「それ以上言ったら殺すぞ」
「おー怖。野良犬から番犬にジョブチェンジですか? さっきから要所要所庇ってるみたいですけど……まさかコレと何か特別な繋がりでも?」
「いいからさっさと行け。お前には関係ないだろ」
「ま、それもそうですね。私も殺しにしか興味もないですし」
では後ほど。嫌味なほど恭しく一礼をして、セオドールが扉から外へと出ていく。その姿が見えなくなるまで、ドゥルガさんはじっと視線で追っていた。時間にしてどれくらい経っただろうか。漸く満足したのか小さく息を吐いて、ドゥルガさんは僕の正面に膝をつく。
「怪我は?」
特になかったので、僕は首を横に振った。この惨状、普通なら大怪我で済めば良いくらいだ。なのに、僕に目立った外傷がないのは、僕がずっと守られていたからにすぎない。ジンイーさんに。そしてドゥルガさんに。
「さっきの話は聞いてたか? 詳しいことは明日話すが、当面のお前の身の安全は保証されてる。とりあえず、今日はもう遅い。部屋に戻って休もう」
一緒に行くから。そう言って、ドゥルガさんはそっと僕の手首を取った。引きずられるままに立ち上がる。右手に手帳、左手に腕を握ったままついて行こうとして、ドゥルガさんに咎められる。
「それは置いてけ。後で処理が来るから」
一瞬何のことを言われているのかわからなかった。ドゥルガさんの視線は僕の左手に向いていて、そこで漸く、彼は僕が繋いだままのジンイーさんの腕のことを言っているのだと気づく。
「離せ。もう死んでる。持っていても腐るだけだ」
「っ」
そんな言い方ないだろう。そう続けようとした声は、結局僕の口から出ることはなくて、喉の奥に詰まって、また胃に落ちた。僕にはそれを言う資格はないと思ったからだ。自分の身も守れず、ジンイーさんのために戦ったわけでもない僕には、何も。
僕は素直に左手を開いた。ぽとり、と音がして繋いでいたジンイーさんの左腕が床に落ちる。そうしていると、それは公園にポイ捨てされたゴミみたいだった。優しくて、強かった僕の友達とは思えなかった。
【しまった。そうじゃない】
心の声が聞こえる。
【言い方最悪だったか。感染病の危険もあるから離してほしかっただけだったんだが、マズったな。顔色が悪い。無理もない、目の前で殺されたんだろ。セオドールの奴。クソッタレ】
「悪い。変な意味じゃない」
聴覚が拾うドゥルガさんの声は、平坦でともすれば冷たく聞こえるものだったけれど、脳が拾う心の声はそうじゃなかった。別に悪意があるわけではなくて、心から案じてくれていることは聞けばすぐに分かった。
ドゥルガさんは真っ直ぐ僕を見ていた。何か異変があったらすぐ気づけるように。先ほどのセオドールとは違う、真摯な視線。
(それでも、どこか無神経に聞こえてしまうのは、きっと……)
彼は人の死に慣れすぎてしまっているのだ。今まで何があったのかは知らないが、ジンイーさんの言っていた代理戦争の生き残りという言葉。そこから考えるに、そういうふうに割り切らなきゃ生きてこられないほど壮絶なものだったのだろう。だから、死んでるものは死んでると言うし、知り合った相手を殺されても、殺した相手を憎んだり責めたりすることもない。目の前の事実を、ただ見たままに感じて伝えているだけ。恐ろしいまでの合理性。
「俺は元々兵士だからな。デリカシーとか、その辺の感覚が人より鈍っている自覚はある」
「…………」
「いや、この言い方も狡いか。言い訳がましく聞こえたかもしれないが、俺はお前に休んでほしいだけなんだ。お前にはこの先があるから」
この先。未来。僕にあって、ジンイーさんにはないもの。そう、ジンイーさんには、もう未来はない。殺されてしまったからだ。ついさっきだ。つい、さっき。本当に嫌になるほど、セオドールの言葉は核心をついていた。
【目の前で仲間を殺されて何の反応もしないなんて、本当に人間です? 敵討ちとかいう感情ないんですか?】
ジンイーさんが殺されようとしていた時、僕はただ見ているだけで助けようともしなかった。殺された後、泣くこともなければ、目の前で悠長におしゃべりをしていた仇に向かって立ち向かうということもしなかった。なぜかジンイーさんの仇と仲睦まじくしているように見えるドゥルガさんに怒ることもなかった。そんな僕に未来があって、ジンイーさんにないのは、おかしいんじゃないのか?
「色々あったから、早く休んだ方がいい」
疲れていた。もう何も考えたくないほどに。
促されるまま足を踏み出す。外はだいぶ小降りになっているようだった。シャワーのような緩い流水音がする。半分崩れかけた渡り廊下は濡れきって滑りやすく、僕の身体を支えるように、握られた手首に力が入った。
「ジンイーさんが」
前を歩く背中をぼんやり眺めながら僕は言った。
「鯨の話を、していました。海で襲われている海豚を、何百キロも先から助けに来る鯨の話。鯨は、自分と違う種族でも、助けに来ることがあるって」
【ん? 鯨?】
ドゥルガさんの歩みが僅かにゆっくりになる。
【ザトウクジラのことか? 何の話だ? そういう習性があるらしいのは聞いたことがあるが】
「急にどうした?」
「……ザトウ、クジラ」
「悪い、雨でよく聞こえなかった。もう一回言ってくれ」
肩越しに振り返ってこちらを見るドゥルガさんの視線から逃れるように、僕は目を伏せた。何でもありません。そう言うと、「そうか?」と不思議そうにしながらも、ドゥルガさんがそれ以上何かを言うことはなかった。無言で歩きながら、僕は思う。
(僕はきっと、この先ものうのうと生きていく)
ザトウクジラは海豚を救った。ドゥルガさんは僕を守った。もしもドゥルガさんがザトウクジラなのだとしたら、彼に救われた海豚は、僕は、その後どう生きるべきなのか。
(わからない)
僕には何も、わからない。




