014 鍵は開かれん
【祈りで神は変わらないが、祈る者は変わる --セーレン・キルケゴール】
◇ ◇ ◇
『鍵は開かれん』
静寂を切り裂くように、その言葉は発された。そこまで声量はなかったが、静けさに包まれた伽藍の礼拝堂にはいやに大きく響く。ここには僕と目の前の男しか居ないはずなのに、どこから聞こえたのだろう。
「お前……」
男が触れていた大鎌の柄を強く握り込む音がする。
「何者です?」
心臓が変な風に跳ねた。気づいたからだ。何を言って、と声を出そうとして初めて、身体の自由が上手く効かないことに気づく。僕の身体なのに、僕の中に誰かいて、その誰かに主導権を握られたような感覚だった。ガワは僕なのに、僕じゃない誰かが僕を操縦している。
『祈りをここに。祝福をここに』
また先程の声がした。どこか聞き馴染みがある声だ。そう思ってから、すぐにそれが紛れもなく自分の声だと認識する。馴染みも何も、生まれて十八年、ずっと聞いてきた声なのだ。しかしこんな風に、僕の意志とは関係なく勝手に言葉が発されるという経験は今まで一度もない。
(何が起こって……)
『怨嗟の絆は解放され、光の道に戸は開く』
僕の声帯から淀みなく出る祝詞は、やはり勘違いなどではなく、たしかに僕の内から発せられていた。まるでそれを口にするのが当たり前で、寧ろ発さないことが罪とすら感じるほどの自然な発声だ。滑らかに、滑らかに口が動く。僕の声と何者かの声、それが二重に重なって聞こえる。
「‼︎」
突如、無数の光の帯が、地面から一斉に生えて出て、僕を包み込んだ。光の帯? いや、ただの光ではない。数多の数式だ。何かを示しているであろう数字が、何千、何万個と集まって、僕を巻き取るようにうねり、緩んで広がる。そしてまた収縮し、膨張する。繰り返し、繰り返し。それはさながら、蕾から開花し、枯れて散る花のようだった。
「な、んです、これは……」
当惑する男の切迫した声が聞こえたが、僕にもそちらに気をやる余裕はなかった。何か得体の知れない力のようなものが、心臓から血液の如く身体中を循環するのを感じていて、兎に角喘ぐように息をするので精一杯だった。それでも尚、詠唱は途切れなかった。この時点で僕は、もはや自動で発声する録音機か何かになっていた。
『導きをここに。器をここに』
左の眼球が燃えるように熱かった。ジリジリと肉の焼けるすえた匂いがする。何かが瞳孔に刻印されているのか。痛みよりも、ただただ熱を感じていた。瞳の中に太陽を飼っているみたいだ。
(あけて)
いつからだろう。気がつけば手に金色の鍵を握っている。
(あけて)
眩く発光するそれを、僕は内なる囁きに促されるまま中空に刺し込んだ。そこには何もないはずなのに、なぜか捻ると、ガチャン、と錠前が外れる音がする。鍵は手の中で泡となって弾けて消え、代わりに目の前には、青白く輝く小さな球体が現れた。大きさは拳一個ほどだろうか。球体周囲には幾何学模様が掘り込まれた無数の金輪が漂っていて、天球儀のようにも、渾天儀のようにも見えるそれは、低く振動しながら回転して宙に浮いている。
『羊の子らよ、ここにおいで。魂のまま、希望のまま、丘の主の言うままに』
どこか遠くでラッパの音が鳴っていた。歌も聞こえる。異国の歌だ。誘うような調べ。頭がぼうっとしてくる。
(もっと)
囁きは強くなる。
(もっと)
促されるまま、僕は小さな惑星に手を伸ばした。僕の手と球体の軌道が重なった瞬間、ボン、と一際大きな音がして、一回り分、直径が大きくなる。そして球体は、また静かにゆったりと空中で回遊する。
これは、まるで生き物だ。僕の中の何かを吸って成長する生き物。
「セオドール‼︎」
靄を祓うように、鋭い怒鳴り声が闇を裂いた。土を蹴って駆け寄ってくる荒々しいブーツの音。
「壊せ‼︎ 今ならまだ間に合うッ」
視界が揺れてよく見えない。誰か来た? 脳が痺れている。思考がまとまらない。小惑星の向こう側で男が素早く大鎌を構えるのが見える。その武器であれを斬ろうとしているのか。やめて。やめて。僕の中の何者かが叫んでいる。
「ぅ、あ……まっ、て」
自由の効かない身体で、それでも何とか静止しようとした手は、滑り込んできた小柄な背中に遮られた。
「セオドール‼︎」
「何度も呼ばなくても聞こえてますよ、犬っころ」
(……ドゥルガさん?)
冷たい外気と重たい雨の雫と共に、僕の前に立ち塞がったのはドゥルガさんだった。余程急いで走ってきたのか、四方八方に乱れた髪と、均整の取れた背中が視界に入る。泥の跳ねたブーツ。濡れて変色した服の袖。右手にはむき身の出刃包丁が握られている。ドゥルガさんは一瞬、地面に無造作に投げ出されたジンイーさんだったモノを横目で見ると、少しの間目を伏せて、それから続けて僕を見た。
「……悪いな。お前の望み通りにはしてやれない」
何の脈絡もない科白だった。それが何を指しているのか、僕にはわからなかった。ただその科白を聞いた瞬間に、少しだけ、僕の中の何者かの声が小さくなる。やめて、と静止を促していた内なる声は、悲しい、という啜り泣きに変わっていた。
「おい、駄犬。合わせます?」
「駄犬言うな。3カウントで」
「了解」
風が吹き抜けた。
「「魔力に属性を付与します」」
二人の声が重なる。セオドールと呼ばれた男と、ドゥルガさん。二人は球体を挟んで向かい合って、同時に武器を構え、同時に何かを唱えた。目の前の古傷の残る手が、刃渡りをするりと撫でる。バチバチッ、と空気が破裂する音と共に、ナイフに閃光が走る。
「3」
一定感覚で段階的に膨張し続ける球。その大きさは、既に人一人分を超えていた。中心を取り巻く経緯線の回転も、段々と激しくなってくる。
「2」
向こう側で、大鎌の湾曲した刃先が光っていた。ジンイーさんの命を奪った、鯱の牙。先端が歪んで見えるのは、鎌が纏う風のせいか。
「1」
ドゥルガさんのナイフが帯電していた。目で追えるほど強い電流が走っているのがわかる。刃先を電気が流れる度に、強い破裂音と共に火花が散った。そして--
「雷光」
「暴風」
二人の一閃は、綺麗に球体の中央を薙いだ。寸分の狂いもない。芯を正確に捉えた一撃。直撃した瞬間、硝子に亀裂が入るように、ピシピシ、ミシミシ、大きく軋む。それでも完全に斬れきってない。更に力を込めたのか、柄を握るドゥルガさんの手の甲に太い血管が浮かぶ。加速するスパーク音。
(ざんねん。ここまで)
ふと、声がした。すっと身体が軽くなる。次の瞬間、球体からつんざくような悲鳴が上がった。烈風と電撃。二人の威力に耐えられなかったのだ。球体から上がる断末魔にも似たそれは、聞いた者を芯から震え上がらせるような、恐慌に満ちた音をしていた。時間にしてどのくらいだろう。遂にパリン、と割れる音と共に、溜め込まれたエネルギーが放出される。強い衝撃波が放たれて、僕は背後に吹っ飛ばされた。




