013 覚醒の兆し
--神のご加護を。
何かにつけて、父はその言葉を口にしていた。それは、僕が一人で遊びに出かける晴れた日の午後だったり、怖い夢を見て眠れないと泣きついた真夜中だったり、父が研究所に泊まり込む日の、早朝の玄関前でだったりした。
だから当時の僕は、その言葉を単純に『ひとりぼっちの合図』として捉えていた。実際、その後の僕は大体ひとりぼっちだったので、ある意味仕方のないことだったと言える。まあつまり何が言いたいかと言うと、僕は「神のご加護を」という父の祝福を、祈りの言葉だとはこれっぽっちも感じていなかった、という話だ。
今の今まですっかり忘れていたが、もしかしたら父は結構信心深い人だったのかもしれない。だから父は信徒に選ばれたのだろうか。僕は自分の家が、無宗教だと思っていたから自覚はなかったけれど、そんな僕も、信心深い父がいる家の生まれだったから、信徒になったのだろうか。魂の丘で、神様についての知識を問われた時、僕は「何も知らない」と答えたけれど、それに対してフォルトゥーナさんは言っていた。
【今まではそれでも良かったかもしれませんが、これからはそうも行きません】
この世界が、信心深い信徒ほど救われる世界なのだとしたら、神様に祈ることで、到底現実ではあり得ないような『奇跡』も起こせるのかもしれない。たとえば、そう。人を--
◇ ◇ ◇
「神様のご加護がありますように、ですか。この状況で、遺言として、元凶である『神』のワードを選ぶなんて、とんでもない呪いの言葉ですね。貴方、彼女に嫌われてたんですか?」
生温い血液が、僕の頬をべっとりと濡らしていた。留まりきれなかった血の滴が、頬を伝って太腿の上に染みを作る。ゴム毬のように跳ねたジンイーさんの上半身が、糸の切れた人形みたいにポトリと落ちて、それから動かなくなった。
(……さ、ま)
僕の膝元に、胴体にくっついたままの右腕が投げ出されていた。短い爪。付いていたはずのインクの染みは、詰まった泥で上書きされてどこにも見当たらない。
「おい、聞いてます? まったく、どいつもこいつも反応が鈍くて面白味に欠けますね」
(かみ、さま)
動かない細い手に、僕は自分の手を重ねた。もう何も聞こえなかった。さっきまで、触れればうるさいくらいに聞こえていた心の声が、どれだけ望んでも、これっぽっちも聞こえやしない。何もない。空っぽだ。空っぽの魂の器だけが今僕の目の前に転がっていた。
(神様、神様)
「ああ。貴方が、あの犬っころの獲物でさえなかったら、私がたっぷりお相手して差し上げるのに。……やれやれ。この仕事は、定期的に狩りが出来るのは良い点なんですが、この『庭師一人につき、当てがわれた信徒一匹まで』というルールだけは納得いかないですね。どうせ処分するなら、誰がやっても一緒でしょうに」
僕はただただ唱えていた。神様、と。他に縋る言葉を知らなかったし、誰に祈ればいいのかもわからなかった。だからただ漠然と、神様、と呟いていた。神様、どうか、叶うなら。
「はあ、いい加減にしてくださいよ」
呆れたため息が聞こえる。
「私は、無視をされるのが一番嫌いです」
頬を張られた。血で滑る大理石の上にドシャリと崩れ落ちる。痛みは感じなかった。何かが決定的に麻痺してしまったかのようだった。カーテンのかかった窓から外を見ているような、そんな感覚。
僕が身を起こしても、ジンイーさんは起き上がらなかった。代わりに、手足が異様に長い、二メートル以上はあるであろう細身の大男がこちらを見下ろしていた。かけられた声と同じ、氷のように冷酷な目だった。
「お前、守られて生きてきたんですね。愛されて、慈しまれて、望まれて生きてきた、そんな甘ったれた顔です」
「…………」
「お前みたいなのを見ていると反吐が出ます。この世界がいかに醜くて、いかに残酷か、その身に刻みつけてやりたくなる」
飄々と、しかし瞳の奥にどこか消えぬ憎悪に似たものを宿した男は、冷たい炎の光を揺らめかせながらそう吐き捨てた。その顔を見つめながら、僕は「そうなのかもしれない」と思う。この男の言った通りなのかもしれない。僕に力があれば。例えば、この男からジンイーさんを守れるだけの力があれば。あるいは、傷を負ったジンイーさんを癒せるだけの力があれば。
(こうはならなかった?)
記憶の底で、無数の声がする。
【魂の丘に招かれるのは、神々が選んだ代理人、すなわち、神の信徒だけなのです。一度信徒に選ばれた者の魂は、その後どれだけ転生を繰り返そうとも二度と選ばれることはない】
【これを貴方に授けましょう、梅原晴一郎。この儀をもって、この魂の丘の主人は貴方となる。……そして同時に、今この時をもって、運命の女神が現在保持している、転移の間全ての権限も貴方に委ねられた】
【でも、女神とやらにこの世界に転移させられた時、私は全身を焼かれて、苦しんで苦しんで半分死にかけてる最中だったから】
【どうか君に、神のご加護がありますように】
「あはは」
ふと、乾いた笑い声が聞こえた。嫌な笑い方だった。それは広い礼拝堂の中にすっと木霊して、ふわりと消える。笑ったのは誰だろう。息を呑む気配がする。見上げた先、こちらを蔑んでいたはずの男が、目を見開いて口を閉ざしていた。何かに驚いているような、何かに警戒するような、そんな動作だった。
(?)
男が一歩後ろに下がって、背中の大鎌に手を掛けている。浮かんでいた怒りの情は鳴りを潜め、隙を窺う獣のような鋭い眼光だけが、暗闇の中で煌めいて僕を射抜くように見つめていた。
そして僕は、男の灰褐色の虹彩に、この陰鬱とした場には不釣り合いな、否、ここが聖堂という場所を加味するならば何らおかしくはない天使のような微笑みが反射して映っているのを見つけた。そのぞっとするほど美しい笑みは、父によく似た顔をしていた。




