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PULUM -希望の花-  作者: 雨女 雨
序章 はじまりの話
15/26

012 云 静宜

「‼︎」


 声は出なかった。身体が痙攣して息が上手くできない。


(痛い痛い痛い痛い)


 きつく目を閉じる。目尻に生理的な涙が滲んでいた。倒れ込んだ拍子に切ったのか唇から鉄の味がして、それが余計に、混乱と激痛に拍車をかける。噛み締めた奥歯が割れそうなほどギリギリと音を立てていた。


「ふ、ぅッ……」


 心臓が一際大きくぎゅっと縮まって、すぐにバクバクと鼓動を打ち始めた。気持ち悪い。聖堂の床に倒れ込んだまま、胎児のように身を丸めて、僕はその激流に耐えるしかなかった。酸素が薄い。頭がくらくらする。


「ご……ごめ、ごめん。晴、一郎くん」


 ひび割れた声に反応して、僕は無理やり瞼をこじ開けた。溜まっていた水滴が頬を伝い、冷たい石の床にぽたぽた落ちる。僕の背後では、荒い息のジンイーさんが、ずるずると床を這いずっていた。ジンイーさんが移動したであろう場所には、大量の血液がべっとりと付着していて、彼女の身体で擦れた血痕が道標のように扉から続いている。


「!」


 苦悶に喘ぎながら、それでもジンイーさんはこちらに近づこうとしていた。彼女の左腕は、肘上から先がなくなっていた。右腕だけの匍匐前進。


「晴、一郎くん。ごめ、共有、させて」


 その言葉で僕は初めて気がついた。今の痛みは、ジンイーさんのものなのだ。ジンイーさんの腕が切断されたその瞬間、僕らは手を繋いでいたから、


(僕の、潜在魔法(スフィア)で……)


 何とか身を捩る。僕の左腕はそこにちゃんとあった。彼女と繋いでいた右腕も外傷はない。痛みの余波で全身が震えてはいても、僕は動ける。

 力の入らない足を叱咤して、僕は何とかジンイーさんの側へヨタヨタ寄った。身を起こそうを手をかけたところで振り払われる。どこにそんな力が、と思うほどそれは強い衝撃で、僕は尻餅をついたし、予想通りジンイーさんの身体ももんどり打った。


「ジンイーさん!」

「触らないで‼︎」


 その必死さに、僕は思わず動きを止めた。ジンイーさんは床に仰向けに寝転んだまま、私に触らないで、と再度言う。


「私に触れたら、君も動けなくなる」

「で、でも」

「良い子だから。君はまだ走れるよね? 経路は? ちゃんと、わかる?」


 その声に頷く。ジンイーさんは薄く笑って、今度こそ上体を自力で起こした。駆け寄ろうとする僕を視線で静止して、


「私は良いから。それよりも早く行って」

「お、おいてなんて」

「いいの。地図は持ってるよね? ナイフも拾って。あと、これも」


 懐から取り出されたのは、ジンイーさんの手帳だった。ジンイーさんの潜在魔法(スフィア)で得た情報が詰まった、代理戦争を生き残るための命綱。


「持って行って。……もう私には、必要のないものだから」


(なんで)


「……いや、だ」

「晴一郎くん」

「嫌です! どうして、そんなこと」

「見ればわかるでしょ⁉︎ この出血量じゃ、私はもう長くは持たない!」


 ぜいぜいと荒い息の中、投げつけられた言葉に二の句が告げなかった。まさにその通りだった。ジンイーさんの周りには夥しい量の血溜まりが出来ていて、彼女の肌は血の気がなく、血色の良かった唇はカサついて紫に変色している。呼吸もおかしかった。それは今、こんな風に話が出来ているのが不思議なほどの惨状で、立ち上がって、ましてや走って逃げて、冷たい雨の降りしきる中、この先の塀をよじ登るなんてこと出来るはずもなかった。わかってる。そんなこと、わかってるけど。


「……止血、しないと」

「必要ないよ、晴一郎くん」


 宥めるような柔らかい微笑みから逃れるように、僕は目を伏せる。未だ激痛に苛まれているはずなのに、そんなものなかったかのように優しく笑って、ジンイーさんは手帳をこちらに投げてよこした。


「私の代わりだと思ってなんて、言うつもりはないけれど……これは、この先の君の役に立てると思うから」

「……ジンイーさん」

「この世界で、やりたいことが出来たって言ってたでしょ? 君はこんなところで死んじゃだめだよ。さあ立って。ほら、絶対大丈夫だから」


(どうして……)


 長い間一緒にいたような気がするが、その実、僕たちはまだ出会って一日も経ってないのだ。なのに、そんな相手に、どうしてこの人は優しく笑いかけることが出来るのだろう。自分の死がすぐ後ろに立っていて、それでも尚、ここまで人は穏やかな顔が出来るものなのか。


こんな力(スフィア)を得ても、僕にはわからないことばっかりだ)


「どうして、僕なんかを……」

「晴一郎くん?」

「優しく、しないでください。僕の潜在魔法(スフィア)なんか気にしないで、ただ一言、手を貸せって言ってくれたら! 僕は!」

「晴一郎くん」


 凪いだ声音に顔をあげる。ジンイーさんは物分かりの悪い子どもでも見るように苦笑して--それから、少し何かに迷うように顔を伏せたあと、


「優しくなんて、してないよ」


 静かにそう言った。


「……え?」

「最初に君を利用したのは、私なんだから。そんな人間のどこに優しさなんてあるって言うの」


 心なしか普段の話し方よりも、その語調は強かった。どこか投げやりな言い方だ。先ほどの逡巡した一瞬、あの瞬間に、彼女は何を決断してしまったのだろう。これから言われることは、何か良くないことのような気がする。


「私は、君に、嘘をついてた」

「ジンイー、さん」

「あーあ。こんな話、するつもりなかったのになあ。君があまりに素直に私の言葉を信じるから、なんか、居た堪れなくなっちゃった。聞き分けの悪い、君がいけないんだからね?」

「あの、話が、よく……」

「聞いて、晴一郎くん。私は今まで、人生で何度も、生死の狭間っていうやつを経験してきた。空爆。地雷。銃撃。種類は様々だけど、取材の最中に、終わったはずの戦争が再び始まるなんてこともあった。だからね、私はわりと、生にがめつい女なんだよ。そうじゃなきゃ、戦場でなんて生き残れやしないんだから」


 淡々と話すジンイーさんの額には、玉のような汗が噴き上がっていた。ヘアゴムが切れたのか、土埃に塗れた長い髪が散乱している。


「そんな中でルポライターの仕事を続けるのは、半ば意地みたいなものだった。この世界にはこんな非道な現実があって、それを伝えるのは私の役目なんだって、本気でそう思ってた。平気で人を、子どもを、虐げて殺すような大人になりたくなかったっていうのもある。父さんのように。兵士のように。……でも、女神とやらにこの世界に転移させられた時、私は全身を焼かれて、苦しんで苦しんで半分死にかけてる最中だったから……この転移がたとえ他の人間と殺し合うためだったとしても、それはもう一度命を拾ったみたいなものだった。だからね、私はすごく嬉しかった。嬉しかったんだよ」

「…………」

「自分のために誰かを虐げたくないっていうポリシーとか、戦争をする人間と同じにはなりたくないっていう矜持とか、そんなものは、あの地獄のような苦しみに比べたらそれこそ何の意味もないことだと思った。今度こそ死にたくない。あんな思いはもう懲り懲りだ。誰を犠牲にしてでも自分が生き残る。それで良い。私が憎んでいたはずの利己的な考え方は、裏を返せばなんてことはない、とても合理的で、自己生存のためには最も効率的な考え方だった。それを知った矢先、私は君と出会ったの。利用するのにお誂え向きな君に」


 やっぱり天罰かな。そのザマがこれ。続いたその台詞には、自嘲がこれでもかと散りばめられていた。


「私は君に、最初から全然優しくなんかしてないよ。だから、そんな風に自責の念に駆られると逆に心外だよ。君をここで逃すのも、罪悪感から来る私のただの贖罪なんだから。だから捨て置いて行ってくれた方が、こっちの気も楽なの。わかった?」


 ボタボタとジンイーさんの左腕から深紅の命が流れ続けていた。鉄錆の臭いが清潔感あるチャペルに充満してむせ返るようだった。


「……でも」

「日本人って本当に脳内お花畑なんだね。それとも、君の気質がそうなのかな? じゃあ言うけれど、ここに来る前私は君に、私を選んでって言ったの覚えてる?」

「は、い」

「あのね、君が本当に選ぶべきは、私ではなかったよ。それがどういう意味かわかるでしょ?」

「……それは、ドゥルガさんの、ことですか?」

「そう、君はドゥルガくんを信じるべきだった。彼は最初から君の味方だったんだから。正確には、君だけの味方だった」

「話が、見えません。どういう」

「……何で彼が君を守ろうとしているのか、私にはわからなかった。でも彼は、君をここから本気で救う気だった。昼間、彼の言葉に嘘があったって、私、言ったよね? ドゥルガくんが嘘をついていたという事実は、確かに存在していたけれど、それは全部、私に対しての嘘だった。彼は一度だって君には嘘はついてない。常に誠実だった」


【お前たちを脅かすものは何もないよ。安心していい】

【絶対に大丈夫だから。俺を信じてくれ】


「ドゥルガくんはね、つまり、私にこう言ってたんだよ。コイツは助けるが、お前は助けられない。お前は今晩殺されるって」


 彼女は何を言ってるのだろう。嘘って、じゃあつまり、僕がドゥルガさんを信じて部屋に残っていれば、今晩は何も起こらなかったとでも言うのか。


「それに気づいた時、なら私は、自分が生き残るには君を利用するしかないんだなって思った。君の側にいて、君に信頼されていれば、何故か君を守りたいドゥルガくんは、必然的に私も守らねばならなくなる。優しくて博愛主義の、チョコレートよりも甘い考えの君のために。ねえ、君は気づいてた? ドゥルガくんはね、もともと地球人だよ。前回の代理戦争の勝者(勇者)。私達と同じ境遇から、他の候補者を全員殺して勝ち残ったただ一人の人物。そんな人の助けがあるなら、利用するに越したことはないでしょう?」


 混乱していた。ドゥルガさんが、元信徒で、勇者? 怒涛の情報に目眩がする。それこそ、その言葉が本当か嘘かわからなかった。何を考えて、ジンイーさんが今そんな話を僕にしているのかも。


「ドゥルガくんはきっと、夜中になったら君を部屋から連れ出して、どこか安全な場所へ逃すつもりだったんだと思う。でも、そんなことされたら私は一緒に行けない。だから私は、その前に君を連れて、脱出計画を遂行するしかなかった。君がいるなら、ドゥルガくんも助けに来ざるを得ないから。……ふふ、でも失敗だったね。それより先に、追っ手が来る方が早かったんだから」

「…………」

「風の刃かあ。そんなの避けられっこないじゃん。ねえ、ここまで言えば、いくら察しが悪くても流石にわかるでしょ? 本当、君に利用価値があったから、私は一緒にいただけなんだよ」


 ひどく露悪的な言い方だった。こちらを見つめる表情にも、特別好意的な感情は見受けられない。でも、


(でも、きっと、ジンイーさんが言ったことはそれだけじゃない)


 降臨の儀で具合が悪くなった時、最初に駆け寄ってくれたのは彼女だった。それからも、僕が地球でしてきたことを本気で怒ってくれて、僕が間引かれることを教えてくれて、僕が不安なら、いつだって心を読んで良いと言ってくれた。僕を騙そうとする人が、そんなことをする理由がない。 

 今だって、彼女をおいて僕一人で逃げることに、僕が罪悪感を持たないようにしてくれているのだとしたら。


(僕がするべきことは、たった一つだ)


 彼女を助ける。僕は知っていた。誰が何を言おうと、それこそ彼女自身の真意がどうだったとしても、彼女が今まで僕を案じて、僕を助けて、僕を守ろうとしてくれた気持ちは嘘じゃないってことを。

 僕の潜在魔法(スフィア)は、人の心に寄り添う(そういう)力だから。


「つまり」


 吹き込んできていた雨風は、いつの間にか鳴りを潜めていた。どれくらいの時間が経っただろう。追撃はないが、このまま終わるとも思えない。もう一刻の猶予もないはずだ。きっと攻撃を仕掛けてきた人は、こちらに向かってきている。その人が到着するより早く、ここを立ち去らなければ。


「僕がわかった上で利用されるなら、それで良いってことですか?」

「は?」

「だって、本当に僕の利用価値だけを見て側にいたなら、今だって僕に手を貸せって喚き散らせば良いだけです。今聞いたことが嘘か真実か僕にはわからないけれど……わからないから、僕は自分の潜在魔法(スフィア)を信じることにします」

「ちょっと待って。何言って」

「止血しましょう。ここは魔法が存在する世界なんだから、きっと命が助かる方法もあるはず!」


 僕はトゥニカの裾をちぎって割くと、ジンイーさんの横に膝をついた。離れようと抵抗する血の気の失せた身体を、「動かないでください」と一喝する。


「さっさと行って! さっきの話聞いてなかったの⁉︎」

「聞いてました! 聞いてたけど、だから何だって言うんですか? 僕が良ければ別に良いでしょ」

「良いわけないでしょ⁉︎ 状況を考えて! あのね、君はまだ子どもだからわからないかもしれないけど、二人で、しかも片方が手負いの状態でなんて逃げ切れるわけがないの。私も君も、戦闘向きの能力じゃないし、ましてや回復の手段もないんだから」

「ドゥルガさんが助けてくれるかもしれないんですよね? だったら、外じゃなくて部屋に戻ればいい。部屋までなら、僕が抱えて行ける」

「晴一郎くん!」

「僕は諦めたくないです! 何も! もう誰も! ……母は僕を産んだせいで身体を壊して亡くなりました。父も、僕に嫌気がさして蒸発したんだと思ってた。雪子さんの家庭も、僕がめちゃくちゃにしたんです。学校でだって、深く関わり合いになるのが怖くて、友達の一人もいなかった」

「…………」

「転移する時に、魂の丘で、フォルトゥーナさん--運命の女神様の話を聞きました。女神様にも友達がいて、仲違いをしていても、女神様は深く深くその友達を想ってた。僕は、それがすごく素敵だと思いました。だから僕、転移をする時に、女神様に約束をしてきたんです。新しい世界では地球で出来なかったことをします、って。ヘレン・ケラーの言葉にもあるでしょ? 『光の中を一人で歩むより、闇の中を友と共に歩みたい』って。僕は、一人で逃げて今日を生き残るより、今ここで貴女と部屋に戻って、二人で生き残る道を探したいです。それにまだ、この選択が闇の中だと決まったわけじゃないし……」


 目を見開いて僕の話を聞いていたジンイーさんは、それを聞いて小さく笑った。笑うと傷に響くのか、僅かに眉根を寄せながら、それでも笑っていた。


「私と君は友達じゃないでしょ?」

「もう、友達です。友達は、いつから友達とか決めるんじゃなくて、友達だって思った時が友達なんじゃないんですか」


 友達友達言い過ぎて、自分で何を言っているのかわからなくなってきた。むくれていると、「そうかもね」とジンイーさんが頷く。


「その……騙してて、ひどいこと言ってごめんね、晴一郎くん」

「大丈夫です。気にしてません。謝ってもらったので、もうこれで許しました。友達割です」

「君の中の友達像がどうなってるのか気になるところだけど……」


 それは後で聞こうかな、という言葉に首肯する。もう止血しようとする手が拒まれることはなかった。触れる前、ほんの一瞬だけ先程の痛みが脳裏を過ぎる。


(情けない)


 震える指先を叱咤して、僕はジンイーさんの左腕を取った。間髪入れず僕の中に流れ込んでくる彼女の感情の激流。耐えろ、耐えろ! 血が滲むまで強く唇を噛んで、冷や汗で滑る布地を握りしめて、二の腕をキツく縛る。骨の見える断面から目を逸らし、嘔吐感を深呼吸で何とか抑えて、応急処置に専念する。その間、ジンイーさんは何も言わなかった。ただ穏やかな顔でこちらを見つめていた。


「昔……」

「?」

「家族がまだ仲が良かった頃、生で鯨を見たことがあるんだよね」


 何の脈絡もない話だった。もしや、大量出血からのショック状態? 意識が朦朧として? テレビでしか見たことがないそんな文字が、脳裏で点滅する。


(そもそもあんなに普通に話せる方がおかしいよな。誰がどう見たって大怪我だし)


 気が逸ってくる。


(どうしよう、早く)


 そんな焦る僕の様子は気にも止めず、心なしか緩やかになった話し方のままジンイーさんは、僕の背中越しに開け放たれた扉の外を見つめていた。おもむろに、応急処置をしている僕の手を取りそっと下ろすと、「少しだけ、聞いて」と視線は外さないまま言う。


「何言って、早くしないと」

「いいの。今しかないから。少しだけ」


 ギラギラと暗闇で光を放つその瞳に気押されてしまった。動きを止めた僕を見て、満足そうに鼻を鳴らしたジンイーさんは、絶対今でなくて良いであろう話を淡々と続ける。


「ホエールウォッチングってやつをした時にね、ガイドのおじさんが、鯨は海のヒーローなんだって言ってたの。海で揉め事が起こると、どんなに離れた場所からでも駆けつけて、自分の種族も、そうじゃない種族も、みんな等しく助けて去るんだって」

「ジンイーさん、出血が酷いです。今でなくても」

「……ここが大海原で、私たちが鯱に襲われている海豚なら」


 彼女はもう僕を見ていなかった。ただただ背後の夜闇を見据えていた。何かあるのか。振り返ろうとした顎が冷たい指に捕らえられる。


「忘れないで、晴一郎くん。鯨はきっと助けに来てくれる。恐怖と絶望の咆哮を聞きつけて、何百キロも離れた地から、必ず助けにやってくる」


【ねえ、そうでしょう? ドゥルガ・グルン(勇者)


「面白い話ですね」


 唐突に、ここで聞こえるはずのない第三者の声が割り込んだ。


「つまり、私は鯱というわけですか。海のギャングとは、悪くない響きですね」


 まるで道端で天気の話でもするような、穏やかで気軽な声音だった。それでいて、何の温もりもない、氷山のような冷気を纏った声。それが僕のすぐ後から聞こえてくる。

 ジンイーさんは何も言わなかった。僕の顔から手を離し、ただ僕越しにその声の主を睨みつけていた。


(ジンイーさんは、気づいてた? だからもう逃げきれないことを悟って……)


 気配なんてなかった。悪寒で震えが止まらない。ジンイーさんを抱えて逃げるべきなのに、振り向くことも、立ち上がることも出来ず、僕は硬直して動けなかった。


「ねえ、貴方も、そうは思いません?」


 僕に掛けられたであろうその言葉に、返答なんてとても出来なかった。座り込んだ僕の頭上に大きな影が落ちる。答えられず、ただただ床を見つめて目を合わせないようにする僕に、その声の主はつまらなそうに鼻を鳴らした。


「もう少し遊びたかったんですけど、物言わぬお人形に興味はないんですよね。あーあ、久々の狩りだったのに、こんなにすぐ終わってしまうなんて。つまらない」


 金属の擦れる音に思わず顔を上げた。僕を覆うように立ったその鯱は、手に持っていた武器であろう大鎌の湾曲した刃先を、座っているジンイーさんの胴体に引っ掛けていた。


(何を、して)


「晴一郎くん」


 ジンイーさんは抵抗しなかった。もうそんな気力もないのかもしれなかった。真っ直ぐに、真摯に、僕を見ていた。


「今までありがとうね。どうか君に、神のご加護がありますように」


 頭上から、低い鼻歌が漏れ聞こえる。小節の合間、まるでバターでも切るような気やすさで、その大鎌はジンイーさんの胴体を真っ二つに切り裂いた。

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