011 風が吹いている
ランタンの明かりが消えると、周囲は正真正銘、一面の闇に包まれた。先程は、建物の光がないから星がよく見える、なんて思っていたが、星の輝きの届かない室内は、想像以上に暗くて数メートル先も見えなかった。それでもしばらくの間目を凝らしていると、だんだん夜闇に慣れてきたのか、ぼんやり足元が見え始める。
「行こう」
押し殺した声音に頷いて、木製の扉から滑り出る。廊下は分厚い絨毯が敷かれていて、二人分の靴音を隠してくれていた。点在する窓から月明かりが細く伸びていて、それがまるで道標のようだった。
「っ」
靴のサイズが合っていないからか、もつれて思わずすっ転んだ。手に持っていたナイフがすっ飛んでいく。痛い。幸い絨毯のお陰で大きな音は立てていないだろうが、緊張しているのか、身体が強張っていて上手く動かせなかった。そしてそれ以上に、見えないということがストレスになって、呼吸が早くなっている自覚があった。
「晴一郎くんっ」
小さく名前を呼んで、ナイフを回収しつつ数メートル先の距離から慌てて戻って来てくれるジンイーさんに、申し訳ない気持ちになる。これでは本当に足手纏いだ。靴を脱ぎ捨てて手に持つと、「大丈夫です」と駆け寄ってくる身体を静止する。
「すみません」
「ううん、大丈夫。怪我はない?」
「はい」
「ごめん、また配慮が足りなかった。目が悪いんだよね。嫌じゃなかったら、手を繋いで行こう」
そう言って、ジンイーさんはこちらの返事を待たずに僕の手を取った。僕の潜在魔法を知っていてなお、僕に触れることを厭わないジンイーさんは本当にすごい。僕が逆の立場なら、きっと躊躇してしまうだろう。自分の心の内なんて、きっと見せられたものではないから。
【暗い。月が出ていて本当に良かった。次の角を左。階段を下る。この静寂、良くないやつだ。完全な無音は緊張を生む。極度の緊張は人間をおかしくする。戦場でもそういう人はいっぱいいたから】
僕は手を引かれて走りながら、努めて深呼吸をした。二、三回繰り返していると、その気配を感じたのかジンイーさんが喉の奥でくつくつ笑う。
【そっか、心の声が聞こえるって便利だなあ。良いよ、その調子】
寝ているであろう信徒達の部屋のドアを次々見送って、ようやく階段の前に差し掛かった。ひゅう、と耳元で風の音がし始める。渡り廊下に続く扉が開いているようだった。ジンイーさんもおかしいと思ったのか、順調に進んでいた歩がぴたりと止まる。
【開いてる? 何で? そんな不用心なことある?】
慎重に行こう、と囁かれて頷く。そのままそっと階段を降り、壁から顔を出すが、パッと見て異変はなさそうだった。右手側から外の湿った空気が吹き込んできていた。水滴が地面を叩く音もする。どうやらとうとう雨が降ってきたらしい。
【雨? やっぱり私達はついてるのかも。痕跡を洗い流してくれれば、それだけ発見が遅れて逃げ切れる可能性が高くなる。ここを真っ直ぐ抜ければ聖堂のある中央の棟。大丈夫。焦らずゆっくり】
閉まり切っていなかったドアから滑り出て、渡り廊下に到着した。ここの吹き抜けは見晴らしがいいと聞いていたが、確かにそうだ。通路両脇の壁はお世辞にも高さがあるとは言えず、見渡せど周囲はくるぶしほどの高さに生え揃った草原のみ。視線避けになりそうな低木すらない。
(……思っていた以上に天気が悪いな)
数時間前まで星が見えていたとは思えないほど、雨の勢いは強かった。風に煽られて柱の間から水滴が吹き込み、通路の至る所に水溜りを作っている。その行き着く果て、聖堂の扉も少し開いているようで、それを僕に教えるように囁いたジンイーさんの手が緊張したように硬直していた。
「……誰かいるのかもね」
距離にして約五メートル。聖堂の入り口は闇に閉ざされていて見えないが、僕にも蝶番が大きく軋む音は聞こえていた。風はどんどん強くなっている。まるで耳に手を当てた時に聞こえる血液の流音のように、轟々と騒ぎ立てている。
「ジンイー、さん」
唐突に、何かが脳裏をよぎった。それは虫の知らせとか胸騒ぎとか、そういった類のもので、何となく、この先へは進むべきではない気がした。何でそう思ったのかわからないが、その焦燥のままジンイーさんを呼び止めようとして--絞り出した声は、ほとんど台風のような天候に遮られて彼女には届かなかった。
【雨冷たいなあ。寒い。長時間外には居られないか。壁を越えてここから逃げられても、雨風を凌げるところまで行けるかな……】
そして伝えられないまま、くいっと手を引かれて、後について走り出す。濡れて顔に張り付く髪。雨粒が頬を伝い、顎先から垂れて床に跳ねた。
【だめ、何を弱気になって。大丈夫だからね、晴一郎くん。二人で力を合わせれば絶対に、何とかなる】
「大丈夫」
風が五月蝿い。視界が悪い。耳を塞ぎたくなるほどの騒音に僅かながら恐怖を感じる。ふと、似たような状況がつい数時間前にもあったことを思い出した。急な強風。地を穿つような轟音。そう、この先の結末を、僕は知っているだろう?
「危ない‼︎」
僕は前を走るジンイーさんを、思いっきり自分に引き寄せた。後ろにつんのめったジンイーさんの目の前を何かが猛スピードで通過する。抉り取るように切れた渡り廊下の柱と、地面の大きな裂傷の痕で確信する。
(あの時と同じ!)
ベランダで僕を襲ってきた見えない刃。あの不可視の攻撃は、つまりは風のブレードなのだ。だから、攻撃の前は必ず風の音がしたし、僕はベランダに居た時にだけ襲われた。
(室内に風は吹かないから)
ないものは生み出せない。今もここへ続く扉が開いていたのは、風の道を通すためか!
バタバタとトゥニカの裾がはためいている。尻餅をついてフリーズしているジンイーさんの手を取って、僕は駆け出した。
(進むしかない! とりあえず風の届かない室内へ!)
触れた先から、ジンイーさんの温かい体温と、混乱でぐちゃぐちゃの胸中が伝わってくる。濁流のようなそれに酔いそうになるが、グッと堪えて足を動かすことに集中する。あと二メートルほど。ここまで来れば、僕にも扉は見える。もう少し、もう少し!
「晴一郎、くん……」
か細い声だったのに、何故か耳元で囁かれたかのように、それは嫌にはっきり耳についた。
振り返ろうとした瞬間、赤黒い何かが、視界を染め尽くすほど大量に舞った。握っていた人一人分の重みが、ふっ、となくなり、僕は扉を破って前に吹っ飛ぶ。次いで、ジンイーさんのものと思われる絶叫と、左手に灼熱のような激痛が走った。




