見守る
合鍵でドアを開けると、ソニーが玄関にいた。
「きゅう」
一声鳴くなりレネに飛びかかり、肩に登って鼻筋を擦りつける。
もっふているのだか、擽られているのだかわからないやり取りをひとしきりしてから訪をかけた。
すぐに遠くからやけに大きな足音が近づいてくる。
「おう、どうした、レネ」
「レネ、久し振り!」
なぜか競い合うように玄関ホールにマルセルとリュシアンが現れた。
「お久し振りです、リュシアン様」
レネが丁寧にお辞儀をすると、他人行儀だからやめてくれと言われた。
これまでも貴族だったが、今は次期公爵になる人だ。リュシアンがどう言っても尚更きちんとしなければならない。
「どうしたんだ、今日は休みだろう」
マルセルに問われて、来訪の目的を思い出し、肩掛けの布製鞄から紙袋を出して渡した。
「ティユーに紅茶のお店が新しくできたので買ってきました。おやつの時にでもどうぞ」
微かにコーヒーの香りがするので、次に何か食べる時には紅茶でちょうどいいかもしれない。
「ありがとう。ティユーに行っていたのか?」
「はい。フーケさんにお土産を渡してきました」
タイミングが大分ずれてしまったのでお詫びも兼ねて、と付け加えると、マルセルはすまないなと言ったが、何か気もそぞろな面持ちだ。
「じゃ、じゃあ父上にも……?」
リュシアンは公爵のことを「父」と呼んでいる。
実父の時は「伯爵」だったので、短期間でそれだけ信頼を築いているのだろう。
「はい。このお店に入る前にお会いしました」
紅茶専門店の前で入ろうかどうしようかと躊躇っていた時に、店の前に馬車が停まり、ソワニエ公爵が降りてきた。
公爵はレネのことを覚えていたようで、馬車から姿が見えたので降りてきてくれたのだ。
その時のことを思い出すと、今でも胸が高鳴る。
おまけに、明日のランチのお誘いをいただいた。
視界の端でマルセルとリュシアンが顔を見合わせるのが見えた。
「レ、レネ、タルトがあるぞ。食べていくか?」
「あー、すみません。これからジジさんの所へ行こうと思って」
二人にはボディクリームの結果を知らせに行くとは言ったが、実は明日のランチのために化粧品店のジジのアドバイスをもらおうと考えているのだ。
王都ではないとはいえ、公爵と食事をするのに不相応な装いでは失礼にあたるから、化粧などもきちんとしないといけない。
というか、普段でもきちんとしていると思われたい。
「じゃあ、夕食は? 今日はリュシアンもいるし、腕を振るうぞ」
「ああー、すみません、マルセルさん。今日はちょっと……」
家に帰ってからも教わったことを復習したり、何を着て行こうかじっくり考えなくてはならないので、時間が惜しい。
リュシアンはしばらくこちらに滞在する予定だと公爵様から聞いている。
「明日の夕食はご一緒してもいいですか?」
「あ、ああ。わかった。シャトレさんによろしく」
「ありがとうございます、マルセルさん。リュシアン様は今日はこちらにお泊まりですか?」
「う、うん。レネは泊まらないのか?」
「明日にします」
あまり長居しても、ジジの店に行くのが遅れてしまうので、リュシアンにはごゆっくりと伝えてこの辺でと暇を告げた。
♧
レネのどこかうきうきとした後ろ姿をソニーが追って行った。
残されたマルセルとリュシアンはドアが閉まってからもしばらくは玄関ホールから動くことができなかった。
「父上に会ったことで浮かれてたな。多分、食事に誘われたぞ、あれは」
「ああ。はっきりと優先順位をつけられたな」
マルセルは腰に手を当て、リュシアンは首を摩り同時に溜息をついた。
公爵のことを話す時は、自分達とは明らかに違う顔になる。
はっきりいうと、頬を染めて恥じらうように微笑む顔は可愛いが、自分に向けられていない感情だというだけで胸の奥がちりちりとする。
「なあ、あいつにとってのソニーのご利益ってもしかして、公爵か?」
理想の男性に巡り会えた。
しかも、身分違いはあるとはいえ、後継も見つかり勇退も間近の悠々自適の独身だ。
「おい! 諦めるな。僕達にはまだ時間と体力がある。それだけは今のところ勝っている」
「そ、そうだな。そうだよな。頑張ろうな、お互い」
リュシアンとマルセルは力強く頷き合った。
♧
町の結界壁の前でソニーはいつもの岩の上で止まった。
「送ってくれてありがとう」
ソニーのふかふかの首元を撫でると、目を細めて鼻筋を手に擦りつける。
可愛い魔獣は紺碧の大きな瞳でレネを見上げて一声鳴いた。
「そういえば、君は幸運をもたらすって言われているんだよね」
出会いと別れを繰り返してすっかり縮こまっていた胸の奥の小鳥が、春の訪れに羽を広げ飛び立ちたくてうずうずとしているかのように羽ばたいている。
こんな気持ちになったのは本当に久し振りだ。
公爵と出会えたのは、ソニーという存在がなければなかっただろう。
そう考えると、やっぱり幸運を運んできてくれたのだ。
レネは金色のうねりのある毛並みをもう一度撫でて、岩から下ろした。
「ありがとうね。気をつけて帰ってね」
ありがとうには色々な思いを込めた。
ソニーはレネをじっと見上げてから、泉質管理事務所への道を走って戻る。
一度、ソニーは立ち止まって振り向いて、また一声鳴いた。
「明日、頑張ってね」
と言っているように聞こえたのは思い込みかな、とレネは一人ごちて顔を赤らめた。
♧
恋はそれぞれ。
あの娘が笑えば、美味しいご飯を作ってくれる人間の男と綺麗な顔の人間の男が落ち込む。
暖かくなったし、もう森に帰ってもいいかなと思ったけど、仕方ないからもう少しあの居心地の良い人間の住処にいて、彼らの恋の行方を見守ってやろう。
ソニーは温かくなった地面を駆け、風に揺れる若葉のざわめきを全身の毛に受けて靡かせながら泉質管理事務所へと向かった。
ご利益はまだ続く……かもしれない。
Fin.
この度は『温泉の魔術師』をお読みいただきありがとうございました。