地位
逆恨みもいいところだ。
リュシアンはそう思ったが、なぜか口にすることはできなかった。
「悪いことをしたな、リュシアン。お前は母上が恨みや妬みを一番向けやすい相手だったんだ」
伯爵は愛人宅に入り浸ってあまり帰ってこない。息子達は無関心だ。
そこでその鬱憤は非嫡出子のリュシアンに照準が合わさり、矢が放たれたのだ。
自分の生んだアンドレを是が非でも王子の護衛兵に就け、オリヴィエの爵位継承の懸念材料になるリュシアンを排除したかったのだろう。
「母上は伯爵夫人に固執していた。その地位を捨てることはできなかったんだ」
オリヴィエの言葉にはわずかに憐れみが含まれているように思えた。
伯爵夫人の地位があるからこそ、ドレスを着て夜会や華やかな舞踏会に出席できて、食べるものに事欠くことはない。
人からの憧憬を浴びることもできる。
モランとの間に愛があったかもしれないが、地位を捨ててまで愛を貫くことはできなかったのだ。
伯爵夫人は社会的地位に固執した結果、夫に愛人ができても、庶子を引き取っても、自らが愛した人ができても伯爵夫人であり続けた。
「いい迷惑だよ。自分さえ良ければいいのかよ」
次兄は吐き捨てた。
「お前は母上を恨んでいいぞ。謝っても許されないことをしたんだからな。母上の心情を斟酌したところでもな。一生墓参りしなくてもいいぞ」
母親に対して随分な言い方だったが、これが次兄なりのリュシアンへの謝罪なのかもしれないと、今だからわかるような気がした。
「今回のことは色んな要因があって拗れた結果だ。母上が自らの人生に幕を引いたのも、母上が選んだことだ」
長兄の言った後で、伯爵夫人のままで死んだのだからある意味本望だろう、と次兄はぽそり呟いた。
なりふり構わず自分の思いを通せば利己になる。
だが人は自分のしたことの責任をいつかは取らなくてはならない。
その判断すらできなくなっていたのだ。
「大元は父上だ。愛人を囲ってもいいが、妻帯しているのだからそれなりの流儀があるはずだ。それなのに好き勝手したからこんなことになったんだ」
誰憚ることなく欲しいものに手を出し、家族を顧みず、行いの責任も取らない。
こんな男が伯爵というだけで世間を睥睨し、特権階級を振りかざして歩いているのだ。
「だからそろそろ責任を取ってもらおう。父上には引退してもらう。お前達、どっちかサンタンドル伯爵を継げ」
次兄は組んでいた腕を解き、リュシアンは眉を上げた。
「何言ってんだ。それは嫡男のお前の仕事だろう」
「僕は無理です」
二人の弟は即座に答えた。
「伯爵はそれ程悪いものではないだろう。なっておけ」
「だから、何でお前が継がないんだよ。これまでそのために生きてきたんじゃないのかよ」
長兄はそう言われて、少しの間目を閉じた。
そして茶色の瞳を開けた時には、何かを吹っ切ったような覚悟が浮かんでいた。
「私は他になりたいものがある」
生まれた時から周囲に次期伯爵を待望されていて、彼自身もそうなるべく日々学びを修めてきた。
すべては爵位を継ぐための努力だったはずなのに、それを無にしてまで他になりたいものがあるというのか。
「私はオペラ歌手になりたいのだ」
数秒間が空いた。
「……は?」
次兄とリュシアンは、長兄が何を言ったのか理解できず同時に言った。
長兄の口から出た言葉を受け止めて、理解するまで、それからもう数秒かかった。
「はあ⁈」
理解が追いつくと、二人は椅子から立ち上がり、またしても同時に同じ言葉が出た。いや、叫びに近かった。
「すまんな。お前達だって、基礎は身についているだろうからすぐに伯爵もできるよ」
「いやいや、何言ってんだよ。伯爵になるより、オ、オペラ歌手になるってのか?」
「そう言えば、教会の特別礼拝では聖歌の独唱を毎年任されていましたよね」
オリヴィエは底意地が悪いが、歌声はリュシアンですら不覚にも聴き惚れる程で、特別礼拝に近くなると神父が是非にと依頼してくるくらいだった。
「今回さすがに死ぬと思っていたんだ。お前達にさんざん意地悪もしたし、これも報いだと思って観念もした。でも、生きていた」
刺されて意識がなくなる前に、もしもこの次目を開けることができたら、生きていたら、もう人の指図を受けずに生きていこうと決意した。
今までやりたいことも我慢して、次期伯爵となるために身をやつしてきた。
その反動で、弟達に意地悪ばかりしてしまった。
関係した人達の期待を裏切ることになっても、自分がやりたいことをしたい。
だからもし生きていたら、スミュール家を出て一から一人で生きていこうと決めたのだ。
「もし継ぎたくなければ、従兄弟か誰かを適当に後継に指名してすぐ引退すればいい。ほんの一時、伯爵になるだけだぞ」
「俺はごめんだ。面倒くせえ」
「僕も無理です。オリヴィエ兄上が一旦引き受ければいいことではありませんか?」
それでは禊にならない、と長兄は頑なに継承を拒む。
「俺はアンリ王子の護衛がある。今退職したら、王子様にも騎士団にも迷惑がかかる。リュシアン、お前暇だろう。お前がやれ」
「僕は無理です。できません」
「さっきから『無理です』ばっかりだな。まあお前にしてみれば、いい思い出のない爵位を継ぐのは不本意だろうがな」
兄二人に詰め寄られて、このままでは押し切られそうな雰囲気だった。
その時、開け放っているドアから咳払いが聞こえた。
兄弟が同時に振り向くと、そこにはソワニエ公爵が立っていた。
その後ろに、秘書と思われる男性と、マルセルの姿も。
「話の邪魔をして申し訳ない」
低くて落ち着いた声が、部屋に染み入るように響き、喧しいだけだった兄弟はその圧倒的な上位者の前に自然に口を閉じた。