心の糸
泉質管理事務所は居心地が良かった。
レネもマルセルも馴れ合いはしない。
その距離感が有難かった。
おまけに温泉は入り放題で、室内は暖かいし、マルセルの料理は美味い。
女性がいるので面倒にならなければいいがと思っていたが、レネはリュシアンに対して秋波を送ってきたり、媚びを売ってきたりはしなかった。
仕事だからと看護も過不足なくこなし、暴走したことについても、おあいこにしてくれた。
その懐の深さに驚いたのもあったが、多分そこで恋に落ちたのだと思う。
後に枯れ専と発覚したが、レネは自分を恋愛対象としてまったくみてくれないし、そのくせ魔術を使った守護のハンカチをくれたりするからいちいち勘違いして浮かれたり落ち込んだりした。
魔獣に懐かれたり、変なグッズ製作で倒れたり、見てて飽きない。
恋に落ちるというが、落ちるものは止められないので、今となってはどうにもできないくらい骨抜きだ。
だが、この思いを口にすることはできなかった。
家族という、釣り針のように返しの付いた針が刺さっているから。
無理に引き抜けば、余計な所にも傷をつけて更に傷を大きくしてしまう。
レネはもちろん、マルセルもそんなものに巻き込めない。
しかし、恐れていたことが起きてしまった。
「何かあったら、頼ってください」
スパの立て籠り事件が解決した時に、レネがそう言った。
「一人でできたとしても、無理をしてまでしたら自分にひびが入ってしまいます。だから頼ってください。頼りないですけど、私にできることも限られますけど、一人で考えてもどうにもならない時に声を掛けてください」
だから次の日の朝、騎士隊に連行される前に生い立ちと家族の話をした。
一人ではどうにもできないから、頼ってしまった。
「俺のこと、『お兄ちゃん』て呼んでいいぞ。もう一人くらい弟が増えても俺は構わないからな」
話を聞き終わった後で、マルセルがまずそう言った。
最初に言う言葉がそれか、と思わなくもないが、取り敢えずこれ以上兄はいらないと断った。
「私、妹でいいですよ。今度から『リュシアンお兄様』て呼びましょうか?」
レネとは兄妹になりたいわけではないので、それも謝絶した。
家族に陥れられた自分に対してなんとも的の外れた慰め方だが、脱力したお陰で張り詰めていた心の糸がだるだるに緩んだ。
この二人に同情してほしいとは思わなかったし、泣かれても困るのでこれくらいずれていてくれた方がかえって有難かった。
『弟』にも『兄』にもなりたくはないが、二人は彼らの中にそのスペースをリュシアンにくれたのだ。
居場所を作ってくれたことの方が嬉しくて、打ち明けて良かったと心から思った。
「大丈夫、何かあっても必ず助けるよ」
「うん。頼む」
素直にお願いできた。
「念のために、熊のストラップ、全種類持っていってください」
「それは遠慮する」
自分のやって欲しいことを言葉で伝えることができるのだ、この二人には。
そのから、その話題はそれきりになった。
マルセルはお餞別のカヌレを作りに、レネは荷造りを手伝ってくれた。
リュシアンは、独房の隅にあるトランクの上に並んでいる熊のストラップを眺めた。
あの後、二人してトランクやバスケットに隠したみたいだが、今はそうしてくれて助かった。
一人ではないと、見る度に確認できるからだ。
家族はリュシアンを陥れるため、または殺すために紹介してくれたと思うが、結果的にスパへ行って良かったと思う。
彼らに出会えたから。
行く前は生きることに対して諦めがあったが、今は違う。
マルセルとレネは必ず助けてくれる。
そして、リュシアンはまた二人と一緒に食卓を囲みたい、もっとやりたいこともたくさんあると、欲が出てきた。
絶対に家族の思い通りにはさせない。
スミュール家との決別を誓った時、留置所のドアにノックがあった。
マルセルとソワニエ公爵だった。
♧
マルセルがまだ帰ってこないので夕食は先に済ませた。
置き時計を見ると、二十時を過ぎている。
マルセルは騎士だから大丈夫だと思うが、何かの犯罪に巻き込まれているのではないかと心配が過ぎる。
マルセルにもソニーと同じ位置情報を確認できるリボンをつけようかと考えたが、その姿を想像したら可愛いすぎるので却下した。
怒られそうだし。
「きゅう」
想像してにやついていたら、マントルピースの上で寝そべっていたソニーが起き上がった。
ノックがあり、マルセルの声がしたのでドアを開けると、マルセルの後ろにもう一人立っている。
「リュシアン様!」
まさか今ここで会える人だとは思わなかったので、レネは声を大きくしてしまった。
「レネ」
リュシアンは腕の中にレネを捕らえた。
息が詰まるくらい力強かったがすぐに緩み、背中に回っていた手は髪を撫でた。
「ど、どうしたんですか? もう、解放されたんですか?」
見上げると長い睫毛で陰った青い瞳が見下ろす。
「ああ。疑いは晴れた」
良かった、と思った途端に、安全な檻だった留置所から出されたということは、スミュール家の魔の手が届きやすくなるとこに思い至った。
「でも、憂いを取りたいんだ。レネ、すまないが協力してほしい」
憂いがスミュール家であるのは聞かなくてもわかっている。
リュシアンは決意したのだろう。
自分にできることなら、とレネは頷いて答えた。
「きゅう」
ソニーはリュシアンの肩に登って鼻面を首や顎に擦りつける。
「親和行動だな」
マルセルが言ったので、レネが説明した。
「そうだな、お前もいてくれるんだよな」
リュシアンがソニーの額を撫でると、うっとりと目を閉じた。
「……それにしても、随分いい部屋だな」
留置所とはえらい違いだと、リュシアンは部屋を眺め回して呟いた。
ソファに座ってから経緯を話して聞かせると、リュシアンは綺麗な瞳を瞠いた。
「あの熊が?」
そして視線はトランクへと向かった。
「はい。合縁奇縁て、ことですかね」
「朝晩寒くて風呂は温泉じゃないが、飯は美味いし、レシピ増えたよ」
「おまけに眺めもいいし、広いし」
「王宮殿まで歩きで行けるしな」
快適な滞在を満喫しているので、ついぺらぺらと口が滑った。
「……そうか、そりゃ良かったな」
リュシアンの笑みが引き攣っていたので、レネとマルセルは口を閉じた。