人質
町の入り口、結界壁の前の岩でソニーは止まった。ここからは魔獣は入れない。
「きゅう」
ランプの明かりに照らされたソニーはマルセルに何か訴えかけるように見上げる。
ソニーのふかふかの首周りを撫でると、その手に鼻面を擦りつけてきた。
ずっと撫でていたいが、そうもしていられないのでマルセルは耳元を撫でたところで岩からソニーを下ろした。
「気をつけて帰れよ。お前もレネとリュシアンを守ってやれ」
ソニーは一度振り返ったが、その後は一直線に走り去った。
体を町へ向け、マルセルも中心部の大通りを目指して走り出した。
「脱獄囚が現れた。戸締まりをして外出しないように!」
途中で、町の消防団の青年二人が棍棒を持ちながら早鐘にも負けない大声で住宅街を注意喚起しながら回っているのに出会った。
マルセルは青年達を呼び止めた。彼らは魚屋の息子とレストランの若旦那だ。
「ああ、ガランさん」
「良かった、来てくださって心強いです」
騎士として、消防団の会合に何度か顔を出して、意見交換などもしていたことがあり、マルセルとも顔見知りだった。
「脱獄囚だって?」
二人は声を揃えてはいと肯定した。
脱獄囚はスパに現れたという。今スパの従業員が対応しているので、消防団員は町内の警備に従事するようにと指示が出ているとのことだ。
「わかった。俺はスパへ行く。脱獄囚が逃走して町に来た時にはよろしく頼む」
二人の肩を叩き、スパへ足を向けたが、ふと思い出して立ち止まった。
マントの内ポケットに無造作に手を突っ込んで、熊のストラップを二つ出して渡した。
「防犯ベルの代わりだ。腹の刺繍を押すと音が出る。何かあったらこれで知らせるように」
二人とも言いたいことがあるようだが、受け取ったストラップをまじまじと見つめてからお礼を言った。
のんびりしていられないので、マルセルは再び駆け出した。
「これ、可愛いけど、ガランさんが作ったのかなあ」
「あの人、見かけによらず器用だからな。あり得るぞ」
「それにしても、何かこれまで臭いませんか?」
「あ、本当だ。にんにく食べて色々有り余っているだろうから、向こうは任せておいて平気だな」
俺達は警備に専念しよう、と二人は気持ちを切り替えて担当区域の巡回に戻った。
途中で消防団員に何度か遭遇し、その度に熊のストラップを渡して内ポケットもだいぶ軽くなった。
スパの象徴でもあるドーム型の丸天井が見えて、入口の前に立っている老年の男性に挨拶をすると、すぐに中へ通してくれた。
エントランスで顔見知りの宿泊部門の支配人に行き合い、歩きながら現状を聞いた。
「脱獄囚は今一階の客室に従業員を人質にして立て籠っています」
人質の従業員は十二歳の客室清掃担当の少女だという。
交換したリネンをリネン室へ運んでいたというのだが、リネン室は建物が別なので一旦外に出る。
その時に脱獄囚と遭遇した。
悲鳴を聞きつけた他の従業員が駆けつけたが、女の子が人質に取られ、たまたま鍵を掛け忘れて空いていた部屋に立て籠られたという。
その部屋の前に着くと、スパの総支配人とクラネがいる他に、見知らぬ男性二人がいる。
クラネがマルセルをみつけると、小走りに寄ってきた。
「来てくれたか、ガラン君」
「宿泊支配人から話は聞きました。人質を取って立て籠っているようですね」
今は総支配人と管理課の課長が説得をしているという。
管理課というのは、スパの品質管理を担う部署で顧客対応なども担当している。
総支配人の横にいる黒い服の男性が課長のオラスで、もう一人が主任のベッケルだ。
顧客対応とはいうが、要はクレーム対応係で不品行な客の強制排除などもしている。そのため普段はあまり表に出てこないのでマルセルも知らぬ顔だった。
「何してんだ、早くしろ!」
立て籠っている部屋から響いてきた。
「早くスミュールを連れてこい!」
知っている名前を出されて、奥歯と肩に力が入った。
なぜ今、その名前が出るのか。
クラネはマルセルを少し離れたアルコーブへと誘導した。
「今、スミュール様は?」
声を落として尋ねられたので、泉質管理事務所にいるとマルセルも小声で答えた。
総支配人がそのような人物は宿泊していないと告げても聞く耳持たずで、いるのはわかっているから連れて来いという繰り返しだという。
「まあ、連れて来る訳にはいかないからな」
先日、事務所にも手配書が回ってきた時、リュシアンは特に反応はしなかった。
恐らく、顔も名前も知らないだろう。でなければあれ程の平常をその後も続けられるはずはない。
その様子をクラネに話すと、そうとなれば人質のこともあるし、早々に決着つけなければならないということになった。
到着点が定まったら、あとはそこへ至る課程だ。
腕を組んだ時に内ポケットに当たり、紙袋のかさりという音がして、邪魔だからかクラネに渡してしまおうと思って取り出した。
レネも使わなかったらクラネに渡せと言っていたし。
クラネは中の熊のストラップをじっと見てから顔を上げてにやりと笑った。
「これ、使おう」