帰宅
【枯れ専】
枯れた男性専門の略称。歳の離れた男性を恋愛対象にしている女性のこと。
「あんたの美貌をもってしても、こればっかりはなあ」
努力だけでは敵わないものがまだ他にもあった。
「……何かもう力抜けた。帰りはおんぶしてくれ」
「本気で言ってんのか、それ」
こめかみに青筋の浮かんだマルセルに冗談だと言い返すのにも少し時間が必要だった。
♧
リュシアンも散歩ができるくらい回復著しいし、今日は来客もないと思うのでレネは定時に帰宅することにした。
十六時になり、玄関でブーツを履いているとマルセルとリュシアンが見送りにきた。
「お疲れ様。気をつけて帰れよ」
「はい。では、後のことはよろしくお願いします、マルセルさん」
「お疲れ様でした、レネ」
「私はこれで失礼します、リュシアン様。まだあまり無理はなさいませんように」
散歩から帰ってきた時は疲れたのか元気がない様子だった。
おやつのエクレアもおかわりしなかったし。
散歩中の彼らの会話を知らないレネは、違うところに原因があるとは知る由もなく、玄関先で一礼して仕事を上がった。
数日振りにアパートに帰って来たので、まずは管理人室に顔を見せに行った。
今日から通常に戻る報告と留守を預かってけれたお礼をするために。
こんにちはと廊下にある窓口に声を掛けると、大家夫婦が揃って出てきて帰宅を労い、お茶でもどうかと中へ誘われた。
大家さんに呼ばれるなど常にはないことなので、留守の間にアパートで何かあったのだろうかと様々な想定が頭をよぎった。
だが、品のいいカップに紅茶が注がれて夫婦が席に着くと、想定外どころかレネの思い描く遥か上のことだった。
「とうとうセローさんも落ち着くのねえ」
「いやあ、僕達も若い女性が町の外に一人で行くのも心配してたんだよね」
似た者夫婦とよく言うが、旦那さんも奥さんの声量に負けず劣らずだ。ドアを閉めていても廊下に筒抜けだろう。
「はあ。何のことでしょうか」
落ち着くも何も、元々公務員で仕事は安定しているし、出勤も他に職員がいないのでいつも一人だ。今更あれやこれや言われることはない。
「あらあ、ガランさんとやっとそういう仲になったんでしょう?」
奥さんは頬に手を当て、もう片方の手を振った。
「そういう仲?」
マルセルとは前と変わらず同僚だ。
「だってこの間、洋品店で……」
言わずもがなという感じで、旦那さんと顔を見合わせて含み笑いをする。
そこで、はっとレネも思い当たった。
数日前にお使いでリュシアンの下着を買いに行った時のことだと。
「あ、あれは……」
言い訳をしようとしたが、リュシアンのことは対外秘なので名前を挙げることもできない。
何か他に整合性のある嘘をつかなければと思うのだが、そんなものがすらすら出てくるはずもなく言葉は宙に浮いた。
「セローさんも仕事が好きなのは結構だけど、いいお歳だし」
「ガランさんなら気心も知れてるだろうからちょうどいいんじゃないかしら」
お似合いよ、と期待に満ちた笑顔でレネを見る。
「いえ、それは誤解です。これには事情がありまして……」
マルセルのためにもここはきちんと訂正しなくてはと意気込むが、大家夫婦の納得できる言い訳が咄嗟に出てくるはずもなく、笑顔の二人に押され気味になった。
「いいのよお、私達だって店子さんの幸せは嬉しいもの」
「そうそう、もし事務所に移り住むなら、退去のご連絡は早目にお願いするよ」
「お、大家さん、誤解です。今は何も言えませんが、私とマルセルさんがそういう関係になるとか、ないですから」
それだけは断言して、レネは部屋の掃除があるので失礼しますと席を立って退室した。
このままここにいては、いつボロが出るかわからなかったからだ。
自室に戻ると、雨が降ったせいか少し湿気ぽい感じがした。
窓を全て開け、空気を入れ替えた。
それにしても、数日町へ行かなかっただけなのにとんでもない話題になっている。
洋品店の店員が漏らしたのだろうか。
人の口に戸は立てられないというが、店員としての最低限のモラルがあるのではないだろうか。
抗議しに行きたくても、それがまた尾鰭背鰭がついて噂が広まりそうで躊躇ってしまう。
明日マルセルにも相談して、言い訳を考えよう。
そもそも、マルセルがメモを間違えて渡したりしなければこんなことには……とも思うが、誰にでも失敗はある。
お詫びのカヌレもすでに消化して久しいので、これ以上責めたてても仕方ない。
冷えてきたので窓を閉めた。
「ま、失職するような醜聞でもないし、いっか」
貴族や富豪のご令嬢ならこういった噂も致命的になるが、レネは平民の公務員だ。
結婚しなくても、魔術師は希少なので仕事があれば何とか生きていける。
人の噂も七十五日とどこかの国の諺で聞いたことがあるので、放っておけばいずれ忘れられるだろう。
レネは部屋の空気と共に気持ちも入れ替えて、溜まった洗濯物を洗うことにした。
この時はそう気軽に考えていた。