南洋の会遇
ウシュワイア港を出港して二日目、ドレーク海峡を抜けたクルーズ船は予定された通り順調に進んでいた。
危惧された南極海の荒れ具合は然程ではなかったが、デッキに出るにはなかなか覚悟のいる揺れ具合だったために、長い時間を船内で過ごすしかなかった。
だが、毎日行われる南極の気候や生物、探検家たちの足跡を語るセミナーに参加したり、配布された資料を読んだりと何かしらやることはあった。
ツインの相部屋になったのはフランスからだという年配の女性で、英語がほとんど話せなかったため言葉を交わすのは朝晩の挨拶くらいで会話することも無かったし、出港直後のウエルカムパーティーの会場で見かけた日本人らしい東洋系の夫婦ともこれまで会うことも無く一人身にとって静かな船旅だった。
メインダイニングで朝食を済ませて一旦部屋に戻り、配布された防寒の上着を取って出港してから初めてデッキに上がると今朝の船内ニュースペーパーに“南極大陸が見えてくる”という記事の通りに霞んではいるが進行方向に陸地が見えていた。
陸地が近づいたからか波はかなり治まっていたが、デッキには季節は夏だというのに船の速度も加わっているからなのか冗談だとしか言いようがないほどの寒風が吹いている。
そんな吹き曝しのデッキにもフードを目深に被った乗船客が何人かいて一つの方向を眺めながら指を指したりして話をしていた。
南極大陸だと言われるからそうだと思うが見えているのは何の変哲もないただの陸地でしかない。
日本を出てから世界の果てまでの長い旅の時間を考えると拍子抜けするような景色だった。
半年前に中堅商社を辞めた佐崎美香は、アルゼンチンのウシュワイア発の南極クルーズに参加していた。
これまでも夏や年末年始の長期の休みで海外旅行はしていたが高緯度地域は初めてで、年間平均気温が十℃そこそこしかないというので納得の景色ではあるが、夏でも港町ウシュワイアの後ろにそびえる山には雪が残っていることには驚いた。
だが思い立ったとしか言いようのない旅だったし、無職の身で支払わなければならなかった費用を考えると極地の景色も胸が躍るようなものにはならなかった。
――なんで南極なんだろう?
行けば何かが分かるような気もしたのだが今のところそんな気配はない。
ため息を漏らしたその時、体に震えのようなものが走った。
震えはしたが寒さではなかった。
むしろ陽の光が当ったって感じる暖かさのようで、周りの寒さとの温度差が震えの元になったのだ。
それを感じた方を見ると船尾の方から歩いてくる同じ防寒ジャケットを着た人がいた。
――ツアー客、女性、白人、四十代半ばほど?
身長は美香よりも少し低いくらいで欧米人にしてはかなり小柄で細身だ。
「ハロー! 船旅は楽しめているかしら?」
同室の老婦人以外に乗船してから話しかけてきた初めての人間だった。
なぜこの女性が自分に話しかけてきたのか美香には分かる。
きっと相手も自分から同じ気配のようなものを感じているのだ。
「? あなた言葉は分かる? 東洋人の姿ね。どこ?」
「英語は話せます。日本人です」
「そう、日本語ならできるわ。わたしはドイツから」
寒さのためか少しこわばったような笑みを浮かべる白人女性に対して、美香は軽く身を引いて怪訝な表情を浮かべていた。
「他にもいるとは思っていたけど会ったのは初めてだわ。驚いたわ。こんな気配がするものだなんて思っていなかった。でも、でも、結構近くじゃないと分からないんだわ」
感慨深いといった口調で納得したように頷く相手の様子を見ながら美香の警戒心は抜けなかった。
「そんなに身構えなくてもいいでしょ。同類なんですもの」
相手は“同類”と言うが美香にはその言葉に頷くこともできなければ否定することもできない。
「警戒しているのね。何か悪い目にあったことがあるの? まあ、どこの国でも似たような伝説はあるけど良い話ってないものね」
英語から日本語に変えて白人女性は話を続けるが美香には答えようもなかった。
「グーテンダーク! ドクトル・ツィンマーマン」
ツアーメンバー用の同じジャケットを着た白人男性がその女性の背後から声を掛けてきた。
振り向いた女性とその男性が話を始める。
――ドクトル。ドクターってお医者さん?
会話が中断してしまったがなぜか離れがたい気分があり美香は二人を見ていた。
しばらく続いた話が終わると男性は船内へと入って行き、女性がため息をつきながら美香の方に向き直った。
「“偶然ですね”だって。ドイツからの飛行機だって同じ便だったのに。あれだけチラチラ私の方を見てたら不審に思って顔だって覚えてしまうわ。それに私が部屋から出るのを狙って話しかけてきたのよ、きっと」
苦笑いしながら肩を竦める。
「自己紹介がまだだったわね。私はモニカ・ツィンマーマン。ドイツにある研究機関でiPS細胞の研究をしているの。で、さっきの彼は製薬会社の人間ですって。最近新しい成果が出た私のチームの研究にとっても興味があるそうよ」
彼女が言うにはどうやら製薬会社の社員がスカウトしようとここまでついてきたらしい。
「今はプライベートだからそんな話をしたいなら研究所にアポをとってちゃんと手続きを踏んでって言ったの。また話をさせてくれって言ったけど、研究所が私を手離すかは難しいでしょうけどね」
「本当に失敗したわ。個人的にしていた実験成果を見られてしまったんですもの」
日本人の研究者がノーベル賞までもらったiPS細胞なら美香も知っている。
その研究成果が凄いものなら製薬会社は真っ先に欲しがるのだろう。
「で、あなたは?」
佐崎美香、日本人、無職、クルーズには一人で参加…。
「そう、同行者がいるわけではないのね。私も一人。来ても何かあるって訳でもないんでしょうけどやっぱり南極は気になるわよね。でもあの話はロス氷河の方でしょ。このツアーでは聞こえないでしょうね。全くの作り話じゃないでしょうけど“テケリ”なんて鳴くのかしら? ああ元になった原形質生物が鳴くわけではなかったかしら……」
ハッと目を見開いた美香にモニカが「どうしたの。聞こえるとか?」と尋ねた。
「いえ、あの、何で南極なんかに来たのか分からなかったんですけど、思い出して……。その…大学生の時に付き合っていた彼が本好きで、ナンカトカ島のナントカという人の物語というのでその“テケリ”って鳴く生き物が南極にいたとかって話をしてて…それがあったから私、南極に……」
美香のその発言にモニカが驚いた顔で尋ねた。
「付き合ってたの、男性と? 大学生っていつのこと? そんなことしたらあなた……。いや、ちょっと待って、あなた何歳?」と聞いてきたモニカに美香は二十六歳だと答えた。
「いや、そう、そうね。違うわ、何年生きてるかってことよ」
怪訝な顔で二十六年ですけど、と答えた美香にモニカは目を見開いた。
「そ、そんなことって! 成り経てっ!」
ワナワナと震えるモニカに美香は戸惑うしかなかった。
「ならこんな所で話をしている場合では無いわ。これから私の部屋に行きましょう」
驚きから立ち直ったモニカは美香を促して速足で船内に入った。
モニカの部屋は美香の部屋よりも二階層上にあるシングルルームだった。
クイーンサイズほどのベッドがドアを入った正面に有り、それなりのデスクとテーブルもある。
美香の利用している向かい合わせの狭いベッドと小さな机しかないツインと比べれば広いが、面積的にはビジネスホテルの一室ほどしかない。
それでも百室ほどしかないクルーズ船の客室のなかでも十室ほどしかない利用料金が高い部屋だ。
「どうぞ」と勧められて美香はテーブルの脇に置いてあった椅子に座った。
「本当に驚いたわ。ちょっと情報交換くらいのつもりで話しかけたのにあなたが成り経てだったなんって。何を話せばいいのかしら……」
しばらく考えた様子のモニカは、デスク脇に有った電気ポットでお湯を沸かすとカップを取り出してティーバッグを入れてテーブルに置いた。
「外は寒かったわね。暖かいものでもどうぞ。でも、熱いわよ、気を付けて。って言っても私たちは熱さに気をつけなければいけないわけじゃないけれど」
「何度かやっちゃったのよね」とモニカはクスクスと笑った。
「あなたは無い? 人前で熱い食べ物をいきなり口に入れたりとか」
美香も子供の頃にはたこ焼きとか、大人になってからなら汁にとろみのある五目ラーメンの具を食べて熱さでやけどみたいになって上あごの皮がちょっと剥がれたことならある。
美香は首を横に振った。
「そうか、まだそういう経験は無いのね。ほら、普段の一人の食事なら、熱い食べ物はフーフーって息を吹きかけて冷ますでしょ。でも、テーブルマナーではダメだから口に入れられるくらいの温度になってからとか、熱さが気にならないくらいの少量ずつ食べるわよね。やっちゃうのよ、お腹が空いてる時とか、出てきたものをいきなりパクッって。私が食べちゃったものだから、大丈夫だと思って他の人も口をつけちゃうんだけど、熱さに吐き出したり咽たり」
言われてみれば美香にも思い当たることがある。
癖のようなもので熱い食べ物にはフーフーと息を吹き掛けはするが一口目だけで、二口目には熱さが気にならなくてそれをやっていないような気がする。
「熱いことは分かるけどそれが危ない…というか、危険だと感じないのよ。現に火傷なんかしないしね」
ベッドに腰掛けたモニカはカップに口を付けて一口飲むと「ほら、大丈夫。何ともないわ。結構熱いのに」と笑う。
「食事をするときには必ず誰かが口を付けた後にした方が良いわよ。ねえ、ケガはどう? 最近してない?」
切り傷、擦り傷、刺し傷、打撲、火傷、骨折とか、と指を折りながら美香に尋ねる。
「大きなケガはありません。他のも覚えているようなケガをしたことはありません」
「でしょうね。でも、普通に生活をしていて全くケガをしないなんてことはないでしょう。紙で指先をちょっと切ったり、お料理の時にナイフで指を切ったり、火傷をしたり、どこかにぶつけたり、何かがぶつかったり」
そう言われると“痛い”と思ったことならあるかもしれない。
そうね、その姿を見る限りそうなったのは二、三年ほど前ってところよね、あなたがそうなった経緯はとっても聞きたいところだけど、分かりやすいように日常に関わりある事から話していきましょうか。
と前置きしたモニカは頷いた。
「まずは感覚。感覚はまあ普通。普通にあるでしょ? これまで通りということね。さっき話していた痛覚以外の他の感覚もね。触覚、圧覚、温覚、冷覚。当然、視覚、聴覚、嗅覚はあるし、味覚も平衡感覚だって」
「変わっているのは熱く感じる、冷たく感じることに“身体の危険が伴うか”というところね。鈍くなったのではなくて許容できる範囲が大きくなっているの。ちょっとどころではないくらい広くね」
「そのいろいろな感覚だけど高めることも不可能ではないわ。でも、高めたって無駄でしょう。感覚には人体の機能が複雑に関係していてすぐには高まらないから適当なところまで訓練してもいいけど視覚はとともかく、嗅覚や聴覚が高くなったら逆に生活に差し障りだってでるわよ」
「ケガの話に戻るけど、皮膚の強靭さが増しているわ、骨もね。でも、ナイフでは切れる、焼けた鉄を押し当てられれば火傷はする、ひどい打撲なら内出血だって骨折だってする」
「それでも日常生活で起こるケガくらいなら傷にならないことがほとんど。最も変わったのは治癒能力。治っているのよ、ちょっとくらいの傷なら気づかないうちに」
あ、と美香が声を上げた。
「どうしたの?」と尋ねられ美香は「歯が…」といった。
「えっと、虫歯の治療でしていた詰め物や被せ物が全部とれちゃって……。でも、歯は何ともないんです。削ってあったこところに穴が開いているのも無くて、削って小さくなっていた歯も普通になってて…」
「見せて!」と身を乗り出したモニカは、美香の顎を持って右左に傾けながら開けた口内を覗き込んだ。
「本当だわ。治療跡が全くない。えっと、歯は折れても治るし、抜けてもまた生えてくるのよ。やっぱり治療跡はそうなるのね。そうか、体内にある無機物を排出するのと同じことなのね」
「何もしなくてもね、銃弾が体から出てくるのよ。矢や槍はシャフトや柄を持って自分で引き抜けば傷は治るし」
物騒な言葉に怪訝な顔をした美香に、モニカは「それはまた別に話すわ」と言う。
「自分の体験も少しあるみたいだし、ここまでの話は大体分かったかしら。実際に適合しているもの間違いないみたい。じゃあ、ちょっとした体験をしてみましょう」
「ちょ、ちょっと待って下さい! え、えっと…、わたし…わたし、どうなったんですか。何が…どう……」
そう言って腰掛けていたベッドから立ち上がったモニカに美香は慌てて声を掛けた。
「オオ! そこから! 全く最初から話をしなけらばならなかったの!」
この体にすっかり慣れてしまったのね、わたしは、とつぶやいたモニカは苦笑する。
「そうよね、偶然そうなったか、実験体にされたのならまあそうよね。あなたの見た目や態度からでは自分で望んでそうなったとは思えないもの」
「一言で言えば“普通の人間ではなくなった”ということ」
美香の表情が曇るのを見たモニカは言葉を続ける。
「でも、まあ見た目は変わってないでしょ。ケガや感覚に関してはさっきの話の通りね」
「では、なぜそうなったのかだけれど、わたしたちの細胞がほかの細胞と融合してしまったから。わたしの場合はその原因になるものを食べてしまったのよ。日本にも有るわよね。そんな昔話。食べたのは“肉”と言うより干した貝のようなものだったわ」
「細胞は変わってしまったけどほぼ人間よ。変身したり、空を飛んだり、怪光線を出したり、コンクリートを殴って破壊したりなんてスーパーヒーローみたいなことは出来ないわ」
「そうだ、スーパーヒーローで思い出した。タイトルは後で教えてあげるけど一度見た方が良い映画があるわ。訳の分からない怪物になったりしてわたしたちにとって気分がいいものではないけれど、作った人の中に同類がいるんじゃないかって思っちゃったから。あ、そうだあれに歯科治療の跡の話もあったわ…」
じゃあ、わたしたちの話に戻るわね。
「見た目が変わっていないように細胞レベルまでいっても見た目も機能も普通の人間と全く同じ。その映画では謎の細胞が人の細胞に“擬態している”ということになっていたけれど実際はその謎の細胞が人間の細胞と融合して変化したという感じかしら」
「じゃ、じゃあ何が違うんですか? 普通じゃないって……」
「不老。ほぼ不死」
ポカンとする美香にモニカは頷く。
「わたし、何歳に見える? まあ、四十歳ってところかしら。でも、実年齢はたぶん十七歳、変化したのがそれくらいのときだったから」
「何年生きているかって最初に聞いたのはそういうことなの。生きている年数だとわたしは六百年近いわ。わたしが生まれた頃って戸籍とかちゃんとしてないからはっきりしないのよ。後になって歴史の記録を見てみるとそいういうことみたい。西暦千五百年代の生まれで大航海時代といわれていて、フランス革命が起こった頃なの。嘘じゃないわよ。証拠は無いけど」
「不老なのになぜこの見た目なのかというのは食事制限をしているから。摂取するカロリー減らすと細胞の活性が低下するのよ。生命維持に筋肉を消費するから“人間の老化”に近い変化が起こるの。また十分にカロリーを摂取すれば変化した時の状態に戻るわ」
「でも成長はしない。六百年間伸び続けたらわたしの身長はいったい何メートルになっているのかしらね。これも人間と同じところね。遺伝子に組み込まれている成長が止まるスイッチは維持されているみたい」
「歳を取っているように見せるのは社会生活をする上では必要よ、わたしたちにとって」
これはもう経験してもらうしかないわ、とため息混じりの苦笑をする。
「じゃあ、さっき中断した体験をしてみましょう。ちょっと待っててね」と言ったモニカは、部屋を出て行った。
しばらくして戻ってきた彼女は大きな袋を下げていた。
その中身、売店で売っているガロン入りのジュース、チョコバー、ビスケット、スナック菓子をテーブルに出していく。
そしてシャワールームからタオルを持ってくるとその横に畳んで置いた。
「この上に手を置いて。利き手はどっち。その反対の手が良いわ」
左手を置くと「目を閉じて」と言う。
指示通りにした美香はその手首を掴まれた後に焼けるような痛みを小指に感じて目を開いた。
タオルに広がる赤いシミ、手から離れている小指、骨まで見えるその切断面、一目でそれだけを見取った美香は慌ててモニカに目を向けた。
ナイフを持ったモニカがニコリとほほ笑む。
驚きで声も上げられず呆然とする美香だったが、反射のように右手で左手首を強く掴むと体に引き寄せた。
――痛い! 痛い! 痛い…痛い…痛い…痛い………
歯を食いしばって痛みに耐える。
小指が無くなった傷口を見ることも出来ないし、これをどうすればいいのか美香には分からない。
しばらく手を掴んだ痛みにうなっているとモニカは血の付いたナイフを振って何気ない口調で言った。
「三十六秒。出血は止まったわよ。痛みはどうかしら? さあ、血を洗ってきて」
小指の傷口から盛り上がっては流れていた血の膨らみが無くなり、握った右手の指と左の手首の間に出来ていた血溜まりが溢れて落ちるような様子が無くなっていた。
美香はモニカを横目に見ながら洗面台に向かうと蛇口を開き、また右手で左手首をしっかり掴むと流れる水の中に左手を入れた。
左手首と右手の指の間に溜まっていた血、手のひらに付着していた血が洗い流され排水口に流れ込む水の中に少なくはない赤いものが混じる。
それが無くなった手にまた新たな出血が起こる様子は無かった。
「見せて」
いつの間に背後にいたのか鏡にモニカの姿があった。
渡されたタオルで濡れた手を拭くと美香はおずおずと左手を差し出した。
「やっぱり、完全に定着しているわ。見てみなさい。もう指が形成され始めているから」
肉の赤色であるはずの切断面に皮膚があり、その真ん中に小豆粒ほどの出っ張りがあった。
「その出ているところが伸びて小指になるのよ。こっちに来て。また座って」
何が何だか訳が分からないまま美香はまた椅子に腰かけた。
「ごめんなさいね。でもやる前にこんなこと話せないでしょう。だから経験してもらった方が早いし理解できると思ったの」
申し訳ないような、それでもいたずらで喜ぶような笑いを浮かべている。
美香にもう痛みはなく、少しむず痒い感覚だけが傷口だったところにあった。
「もう痛みは全くないでしょう。食べて、ジュースも飲んで。これから指を一本造るだけのカロリーが要るから」
封を開いたチョコバーが差し出され、カップにはジュースが注がれた。
「食べながら聞いて。あ、食べなきゃダメよ。食べたら食べただけ早く元に戻るから」
美香が口にするのを見たモニカは頷いて話し始めた。
「見ての通り指くらいなら大した時間も掛からず元に戻るわ。それは私も経験済み。四肢もね。これは片腕の肘から先だったけど戻ったから。大きい部分はそれだけ時間は要るわね。無くなっても戻るんですもの、それ以下のケガは治る。普通の人だって治るようなものは当然よね」
「たぶん耳や鼻も、眼球も再生するはず。でも無くなった部分を形成するにはそれだけの分のエネルギーが必要なの。内臓が欠損してカロリーが摂取できない場合には筋肉を分解することになるでしょうね。摂取可能になったら食べればいい。生命維持のために最初に筋肉が分解される仕組みと変わらない」
「そもそも“原始の全ての生命には体を再生する仕組みが備わっていた”という説があるの。棘皮動物のヒトデや爬虫類のトカゲ、両生類などにもその仕組みが残っている種があるわよね。でも哺乳類にそこまでの機能のある種は無い」
「だけど実験のために免疫機能を阻害したマウスで耳に個体識別のためにつけたパンチ穴が再生したことが報告されているわ。治癒ではなく再生よ」
「その後もいくつかの部位を切断、切除して実験がされたけど元に戻ったそうよ。そんな機能があるのになぜ人には残っていないのか? その理由に対する説が“免疫機能は不適切な増殖をする細胞も抑制する”というもの。その仕組みでまだ何になるか決まっていない未分化の細胞は排除されるのよ。癌化を抑制するためではあるのだけれど」
「さっきの免疫の話だけどこれは強化されているというより人間の細胞から変異してしまったことで細菌やウイルス感染症にはならなくなっているわ。毒物や化学物質に対しても耐性があるわね」
「放射線にもかなり耐えられるわ。これは遺伝子が破壊され難いし再生もするから。でも限度はあるみたい。それがどれくらいかは不明だけど自分でためすのは止めた方がいい」
これはわたしの細胞で試してみたりしたのと言う。
そして、ここらは特に大事――。
「不死ではないの。“ほぼ”と言ったでしょ。全身が炭化するほどの熱傷では死亡するわね。窒息の場合は酸素が再供給されれば破壊された細胞が再生されて生命活動は再開するけれど脳の状態が戻っても記憶に関して窒息前に戻るかが不明。低体温、凍結の場合も同様」
「日常生活では火災には特に注意ね。火事や油を被って火をつけた程度の火力では苦しむだけ。再生するだけのカロリーが不足して変な再生なんてしたら目も当てられない。だから死にたければ溶岩に飛び込むか、溶鉱炉に飛び込むかね。ちゃんと死んで戻れないからその時に“アイル・ビー・バック”なんて言わなくてもいいわよ。ほぼと言ったのはこいういうこと」
じっとモニカを見つめて話を聞いていた美香は、その目がちらっと動いたのに釣られて目を動かす。
元有った場所に伸びた指の形をしたものにはほんの小さな爪のまでできている。
「食べながら聞くのはお行儀が悪いかしら? でも、食べないとダメよ。その大きさでも再生には結構カロリーを使うから。あ、あの小指はわたしが貰うから」
「ケガや病気に関してはこんなものかしら、質問があればいつでもどうぞ」とモニカは頷く。
「欲求に関しては生命を維持するための欲求と、社会生活の中での欲求とに分ける必要があるのだけれど、絶対に維持されているのは食欲だけ。これはあなたが今経験していることが理由。むしろこれまでよりも食べないとダメ。生命維持に必要なカロリーが変異前より上がっているのよ。睡眠はした方がイイ。寝ようと考えれば自然と代謝が落ちて睡眠状態になるわ。眠っている間はカロリーの消費が減るし、その間に再生、回復に力を振り分けられるから効率が良くなるのよ。性欲は…まあ、湧かないわよね。でも生理はこれまで通りにあるでしょ、それは生殖細胞もホルモンの分泌もこれまで通りの活動が維持されている結果」
「物欲とか、承認欲とかの社会的なものは何とも言いようがないけれど強すぎはまずいことになるのは普通でも一緒よね」
「なぜそんなに私に話をするんですか?」
「それが、初めての質問ね」
「そうねぇ…これが社会的欲求ってことかしら。まず、あなたの今の状態を見て情報を提供したい、教育したいという援助欲求や証明欲求が湧いたから。そもそも私は認知欲求が強いわ。知識を得たい、学びたいってこと。そして得た知識や情報は提供したい、できれば」
「でも、わたしたちの情報は世の中に出していいものではないわ。その情報を提供できるのは今のところ唯一あなただけ。優越欲求や親和欲求もあるかしら。初めて会った同類ですもの興奮するなと言う方が無理よ。それにこのタイミングというのは大きい、何か意味を感じるくらいに」
ここまで三十分ほど、と言ってモニカが指さした美香の手には関節一つ分の指が生えている。
「じゃ続けましょうか。欲求に関しては余程過ぎたものでなければこれまで通りの生活すれば問題は起こらないんじゃないかしら。でも話が残った性欲が曲者なのよ。性欲ではなく性行為なのだけれど。生理はあるけど性欲は湧かないでしょ? もし行為をしても妊娠はしないわよ。私たちの体でできた卵子は人間の精子とは受精しないの。卵子にも異物を排除するという力が働くからだと考えているわ。といって同類の男性の精子なら妊娠するかどうかは不明。だって同類の男性と会ったことすらないんですもの」
「あなたまだ若いし、成り経てだから言っておくけれど、これから先、特定の気持ちを持つような男性と出会うことがあるかもしれないわよね。性交はできる。感覚は普通にあるし、その機能もあるから行為自体に支障はないわ。でも、止めた方がいい。その男性、死ぬわよ」
「代謝によって皮膚や体毛、それと経血、老廃物を体外に出すための排尿、排便の生理作用で私たちの体内から離れてしまう体細胞は多い。でもこれらは排出されたら急速に活性を失うのよ。活動を維持するだけのエネルギーを得られないから。それらの細胞自体に自らエネルギーを吸収する機能もないでしょ」
「だから血液が高熱のものから逃げようと反射を起こしたり、千切れた頭や腕に手足が生えてに逃げ出したりはしない」
「でも直接の接触はまずいの。握手、ハグ、軽いキスなら大丈夫。性交で…まぁ性器の挿入でなんだけど粘膜が長めの接触をすると相手の細胞の侵食を始めるみたいなの」
「浸食といっても私たちに起こったような元の細胞の特徴による融合なんだけど、適合しないときには異常増殖が発生して脳や心筋に負荷をかけて脳出血、心筋梗塞を起こして死亡する。もう少しもっても急速な癌化で末端から壊死が起きるわね」
「わたしたちの体が膨れ上がって人を飲み込んで吸収したりなんかもないわ。だって人間の細胞にはそんな機能はないんですもの」
「わたしの細胞での実験だけだから絶対とは言えないけれど雄性には適合は起こらない。実験用のマウスでもなんとか融合したのはメスだけだったわ。だからセックスは止めておいた方がいいわよ」
“指が生える”のを時々見ながら聞くモニカの話は美香にとって自分の身に起こった訳の分からなかった事態をはっきりさせた。
――わたし、人間じゃなくなったの……
小さなつぶやきだったがそれを聞きつけたモニカは静かに「そうよ」と言った。
「貴方はあなた。記憶や体験があなたというものを形作るのだからあなたはこれまで通りのあなた。でも肉体は人間ではない。一つ一つの細胞は完璧に人間の細胞の姿をしているから見た目は何も変わらないけれどね」
俯き黙る美香にモニカは話し掛けた。
「その方法があるから死ぬのはいつでもできる。今は肉体の変化を受け止めることが難しいかもしれないけれど、これからも生きてほしい。いろいろあったけど何とかなるものよ。わたしはそうやってこれまで生きてきたわ」
じっと手を見る美香の肩に手を置いてそう言ったモニカの声には真摯な響きがあった。
それからは会話の無いままの時間が過ぎ、指が完全に元に戻ったのを確かめたモニカは美香を部屋から送り出した。
それからの航海の間、モニカとも会わないまま美香は体調不良を理由にしてそのほとんどを船室で過ごした。
再び美香にモニカからの接触があったのは帰航二日前のドレーク海峡に入る前だった。
美香を連れて大陸を目前にしたデッキに出たモニカは、静かな声で話し始めた。
「自分の身に起こったことが簡単には受け入れられることではないのは分かるわ。でも、それも時間が解決してくれる。このツアーが終わったらあなたは日本に帰るわよね。そしたらこれまで通りに生活するといいわ。秘密を持ってしまったけれど、今の時代では人の社会から離れていてはわたしたちも生きてはいけないの。人であることを止めないためにもそうするべき」
「あなたから感じる気配は温かい。そんな感覚はこれまで生きてきて初めてのことだったわ」
手すりを握っていた美香の手にモニカが自分の手を重ねてきた。
「航海の間にわたしは考えたの。全ての人が他人にこの温かさを感じられれば決して争いなど起きないだろうって。とても良い世界になるんじゃないかって。でもこれは人の全てが持っていい感覚ではない」
「いまやっている研究を続ければわたしたちのような者を増やすのは可能かもしれない。でも、そこまでに払う犠牲者はどれほどになるのか……。そして人の全てがわたしたちのようになってしまったらそれは人が滅びるということだわ。死なない、生まない、でも生命を維持するためには食物を摂取しなくてはならないなんて生き物として異常よ」
「わたしね、今いる場所から消えようと考えてこのツアーに参加したの。でも、あなたに出会ったことで戻って研究を続けたらって考えを変えたわ。でもそれはダメ」
「多能性幹細胞の研究がされていることを知ってから自分でもその研究をするために戸籍を得て、学校に行って、その分野を学んで今の職場に入ったの」
「そしてその施設の設備や機材を利用して自分のことも知ろうとした。前に言ったスカウトの原因になった研究はわたしの卵母細胞を元にしたiPS細胞だったの。どんな臓器にも部位に変化して癌化も起きない。画期的なものだったわ。当然よね。そうやって生きてきている細胞そのものなんですもの」
「でも、幹細胞にまで戻してもわたしの細胞は人のものとは違っていたわ。人の臓器の姿に成れるのに人には決して適合しない。自分は根本から人と違う生き物なんだって分かった」
「正規の研究に混ぜて秘密にやっていた研究だったのにわたしの様子から何かを感じた上司がPCのパスワードを悪用してそのデータを見てしまったの。ただ、見られたのは癌化しない幹細胞が出来たというところまで。元になっているのがわたしの細胞なのも、人間には適応しないのも知られはしなかった」
「内緒でしていた研究ですものね。その上司は功に焦って自分の研究だとして公にしたわ。元になったのが受精卵ではないから研究倫理にも触れないと思ったんでしょうね。それに当人のわたしが何も言わないと思って」
「でも、功を焦り過ぎ。細胞に付けていたモニークって名前も気にしていないんですもの。モニカがフランス語圏ではモニークなのに。出せと言われる前に研究サンプルは全て破棄したわ」
「研究データを見られたと分かったから長期休暇の願いを出したらその上司はあっさり認めたわ。それでわたしはここにいる。研究はデータばかりでサンプルは無い、説明を求められても説明できず、本当の研究者が誰だか分かって呼び出そうにも当人はいない。今ごろ研究所は不祥事で大騒ぎかも。わたしがいなくなってもいいように“捏造しました”って遺書も残してきたから。そういうことでモニカ・ツィンマーマンはこの航海が終わる前に予定通していた通りに消えるわ」
「あなたにはちゃんと伝えておきたかった。わたしが死ぬ気じゃないのは分かるでしょ。あなたの話も聞きたいわ。そのうち日本に行くから連絡先を教えて」
自分が渡した紙に美香が電話番号とメールアドレスを書いたものをポケットに入れたモニカはニッコリほほ笑んだ。
「船内でわたしに接触したあなたには地元の警察が事情を聴きに来ると思うわ。その時は“昔に行った日本のことを懐かしがって話しかけてきたって言うといいんじゃない」
「じゃ、そのうちにまた。アイル・ビー・バック」
親指を立てたモニカが美香に背を向ける。
「見ておいた方が良いって言った映画はね“遊星からの物体X”っていうの。マクレディの頑張りは無駄じゃなかったわ。人間を害する物は南極から出ていないんじゃない。それの続編だけど前日譚もあるわ」
ちょっと振り向いてそう言ってモニカは手を振って船内に戻っていった。
次の名前はケイト・ロイドにしようかしら、それが最後に聞いたモニカの言葉だった。
ウシュワイアに帰航したクルーズ船から次々と降りていく乗客の中に美香の姿もあった。
もう下船までモニカに会うことは無かったがそれでいいと美香は思っていた。
予定ではホテルに一泊した後、ウシュアイア空港からブエノスアイレス、マイアミ、サンフランシスコを経由して成田という経路で帰国することになっている。
体が変わって以来肉体の疲れを感じることはなかったが気疲れは相当なものだった。
モニカの話は難しいものではなかったが、それを納得できるかというのは全く別の話だ。
とりあえず“お酒でも飲んで憂さを晴らす”という手もあるのだろうが飲んでもろくに酔わない体になってしまったのは経験済みだったし、明日からのフライトを考えたら寝るのが一番としか思えない。
まずは食べるか、と考えて美香はホテルに向かった。
チェックインを済ませた後、街に出た美香は怪しまれないように店を変えながらこれまで食べたことがないほどの量の食事をした。
言われて初めて気に気が付いたが、食事の量は今までと変えていなかったから必要な養分が十分取れていなかったのかもしれない。
モニカが言っていた通りエネルギーの摂取は細胞の活性を上げた。
それによって戸惑いは有ったが自分だけではないことと、同類と言ったモニカの温かさが美香の不安を薄れさせていた。
後は十分寝れば、と考えた美香がホテルに帰りフロントで名前を告げると警察官が現れた。
示されたロビーのソファーに腰掛けて最初にされたのは「ミズ.モニカ・ツィンマーマンを知っているか?」という質問だった。
クルーズ船の乗船者たちに確認を取っている。
彼女が船内で東洋人の若い女性と話をしているのを見た人がいる。それはあなたか? 何を話したか?
事前に告げられていたとはいえかなりの戸惑いだった。
そんな美香を見て警察官は状況を説明した。
ツィンマーマンが下船していないこと、客室内にはパスポートをはじめ貴重品などの私物が残されていて、中に自死をするのでそのように国に連絡をして処理をして欲しいという文書が残されていたと。
知っていると答えた美香は、モニカが言っていたように「日本が懐かしい」と言って話しかけられ日本のことを話した「今の仕事で良くないことがあって悩んでいる」と言っていたと言った。
お互いに顔を見合わせて頷いた警察官は美香に明日の予定を聞いてきた。
帰国の日程を告げると、空港警察に連絡しておくので出国前に出頭をお願いしたいと言って帰った。
翌日、言われた通りにチェックイン前に空港警察を尋ねると任意だがと言ってパスポートのコピーを求められ、それに応じると事情によっては日本の警察が話を聞きに行くかもしれないということで何事もなく解放された。
ウシュワイア空港、ブエノスアイレス空港、マイアミ空港、サンフランシスコ空港と乗り継ぎも問題なく、成田行きに搭乗することが出来た。
日本に着くまで十一時間、長い時間だけどこれからどうするかを考えるには短いと美香は考えていた。




