7話 病魔と薬草 (中編)
そしてリベラの声援を背に、縄をよじ登っていく。絶えず頬を濡らす水飛沫にも負けず、一心不乱に結び目を一つ、また一つと通過していった。やがて十個目の結び目に足を掛けた時、遂に植物の隣に並んだ。
「クソっ、採れねぇ……!」
しかし僅かに手が届かず、その場で身動ぐ。
『腕、痛てぇ……手だって、今にも緩んじまいそうだ。けど――』
弱りきった母親の姿を思い出し、ぐっと堪える。
『ここで諦めたら、オレは一生後悔する。 ……絶対に、薬草を持って帰るんだ!』
そして息を荒らす少年は、大きな賭けに走った。
「こうなったら、一か八か!」
渾身の力を振り絞り、岩壁を蹴り上げ手を伸ばす。
「よし! あと少し――うわっ!?」
すんでの所で少年は、縄を掴んでいた手を滑らせた。そして青空が見えた瞬間、脳裏に走馬灯が過ぎり、強く瞼を閉じる。
『母さん、ゴメン……』
「――Tcetorp,Dniw」
しかし直後、何かに包まれるような感覚を覚えた少年は、恐る恐る瞼を開く。すると何故か地面に降り立っており、少年は慌てて頬をつねる。
「痛って!? ……って。もしかしてオレ、生きてる?」
混乱する少年に、リベラは微笑みながら歩み寄る。
「うん。おかえりなさい!」
「あ、ああ……ただいま。あれ、でも植物は――」
いつの間にか前に立つサフィラスに尋ねようとすると、端的な答えが返ってきた。
「ほら、自身の右手をご覧」
「え? ……あ」
少年は言われた通り、自身の右手に視線を動かすと。そこには、白壺草が握られていた。
そして共に休憩する事、三十分。未だ留まる少年に痺れを切らしたサフィラスは、彼に帰宅を促す。
「……さて、目標は達成した訳だけれど。一刻も早く、母親に薬草を届けるべきではないだろうか」
「う、うん……いやでも、その……」
しかし、歯切れの悪い返答をする少年はソワソワとするばかりで、一向に離れる兆しが見えない。視線を合わせようとするも顔を逸らされ、サフィラスは腕を組む。そのやり取りに、リベラは少年にそっと耳打ちをする。
「もしかして、まだ何かお願いしたいことがあるの?」
「いや、そういう訳じゃ――でもまあ、間違いでもないっつーか……」
「うん。私で良ければ聞くよ?」
間近で見詰めてくるリベラに、少年は矢継ぎ早に吐露をし始める。
「良かったら、村に来てくんねーかなって。薬草手に入ったのは、お前らのお陰だし。何か礼をしたいんだよ」
「お家に連れていってくれるの?」
「あ、ああ。 ……でも、あんま期待はすんなよ?」
「やったあ! ねえ、サフィラス。行ってもいい?」
「構わないよ。私は村の外で待機しているから、気の済むまで楽しんでおいで」
少年は目を丸くすると、サフィラスに訴え掛ける。
「えっ!? 兄さんは来てくれないのか?」
「少々都合が悪くてね。故に、気持ちだけ受け取らせて貰うよ」
「……そっか、分かった」
少年は肩を落とすも、リベラの顔を見るや否や、顔を赤らめ先導を開始する。
「村はこっちにある。ついて来てくれ!」
一時間ほど歩いた先にあったのは、お世辞にも豊かとは言えない村だった。畑は痩せ細り、辛うじて生長している植物の芽が、数本顔を覗かせている。井戸の前には手桶を持った人間の列をなしており、その表情は酷く虚ろだった。ふとぶつかった視線にリベラが慌ててフードを被ると、少年は「ゴメンな」と眉を下げた。
そして少年は隙間だらけの生け垣を通り抜け、一軒の茅葺き屋根の家の前で足を止めると、慣れた手付きで外れかけたドアノブを捻る。その先には、簡素ながらも掃除の行き届いた部屋があった。
リベラは見様見真似で、玄関に置かれた桶から柄杓で水を掬って手を洗い、靴を脱いで木の床を踏む。そして少年は、部屋の隅で瞼を閉じて横たわる、黒髪の女性に声を掛けた。
「母さん、ただいま」
「……あら、おかえりなさい。中々帰ってこないから、心配したわよ」
少年の声に、花を頭に付けた女性は弱々しく微笑む。リベラも「お邪魔します」と頭を下げると、女性は翡翠色の瞳を丸くする。
「あなたは――」
「ち、違う! そんなんじゃない、ただの恩人だから!」
少年が勢いよく首を横に振ると、女性はフッと声を漏らした。
「あら、残念。 ……恩人って?」
「ああ。実は――」
少年は女性と向き合い、渓流での出来事を搔い摘んで報告する。女性は嬉々として耳を傾け、最後に少しばかり肩を落とした。
「そんな事があったのね……まるで冒険譚みたい」
「まあ、そんな感じだったよ」
「ふふっ、楽しかった?」
「……まあな」
「良かった。もう一人の恩人さんには、お礼を用意しないとね」
「おう。 ――じゃ、先にお前から」
少年は台所に向かうと、三つの湯呑みと籠に盛った小ぶりな蒸し芋を、お盆に乗せてテーブルに運ぶ。そして床に薄い座布団を敷くと、リベラを手招いた。リベラはさっそく座ると、目の前でほこほこと甘い香りを漂わせる芋に顔を近付ける。
「わあ、美味しそう! 私、お芋好きなんだ」
「そ、そうか! まだあるから、好きなだけ食ってくれ!」
「うん! あなたは食べないの?」
「ん。オレは、あっちで薬を作ってくる」
少年は台所を指さすと、さっさとテーブルから離れていった。
「――いただきます」
リベラは両手を合わせると、程よい温かさをもつ芋の皮を剥いていく。そして一口齧ると、満面の笑みを浮かべた。すると女性は上体を起こし、壁にもたれ掛かる。
「ふふっ、喜んでもらえて嬉しいわ」
「えっと……お母さんは食べないの?」
「ええ。ご飯を済ませたばかりで、まだお腹が空いていなくって。だから遠慮しないで、思う存分食べてね」
「うん! ……そういえば、お母さんはどんな病気なの?」
「身体中から、花が咲く病気なの。ほら、見て?」
女性が服の裾をまくると、そこにはまるで木の枝のような腕があった。腕からは白い花が咲いており、リベラはハッと女性の頭を見る。
「そう。この頭の花も、症状の一つなの。でもこのお花は、髪飾りみたいで素敵でしょ?」
「うん、とっても綺麗! お母さんに似合ってるから、分かんなかった」
「ふふっ、ありがとう」
その後、リベラが黙々と食べ進めていると、女性は憂いを帯びた声で独り言ちる。
「……私の夫はね。あの子が産まれてすぐに、何処かに消えてしまったの。昔から、色んな女の子に目移りする人ではあったんだけど。 ……まさか、何も言わずに私たちを置いていっちゃうだなんて、思いもしなかったわ」
「え……」
リベラは手を止めると、女性の方を向く。
「それからは、あの子と二人で暮らしてきたの。貧しいながらも、細々と。不満は無かったわ。 ……けど、不安だった。あの子をきちんと、立派に育ててあげられるか。私は生まれつき身体が弱い上に、ここには身内も居ないから。 ――でも、それも杞憂だったみたい」
すると女性は一等明るい声で、リベラに微笑みかける。
「初対面の子にも人見知りをすることなく、お友達になれるんだから。それに、命懸けで薬草を採ってきてくれる勇気もある。リベラちゃん、気が付かせてくれてありがとう」
「あれ? どうして私の名前を――」
「おーい、出来たぞー!」
しかし問いは届かず、少年の声と共に掻き消された。