1話 仕組まれた運命 (前編)
――彼らの物語は、草木の芽吹く麗らかな季節に始まる。
亜麻色の髪の少女はひとり、ベッドの上で悪夢にうなされていた。
悪夢の中の少女は、今よりもずっと幼い姿で広い廊下を歩いていた。見上げれば目眩がするほど高い天井があり、横を向けば、世界が見渡せそうなくらい開けた窓が等間隔に設置されている。
更に壁際では、身綺麗な大人達がひそひそと言葉を交わしていたが、少女はいずれも気に留めることなくパタパタと靴音を鳴らしていく。
そして軽く息が上がった頃、少女は一枚の扉の前で立ち止まった。顔の横に結んだリボンの位置を直し、ドレスの裾の土をはたくと、二度深呼吸をする。
「えへへ、少しちぎれちゃったけど……おかあさん、よろこんでくれるかな」
手にしていたのは、沢山の花弁をもつ紅い花。その何枚かは、細く引き裂かれた跡が残っていた。少女は最後に微笑みをたたえると、コンココン、とノックをする。
「あれ? へんじがない……ねてるのかな?」
しかし内部から声は聞こえず、少女は首を傾げながらもノブをひねる。
「っ――おかあさん! どうしたの!?」
少女が駆け寄った先には、簡素なドレスを身に纏う亜麻色の髪の女性が、苦しげな表情で喉元を押さえていた。床にはグラスの破片が散乱しており、ワインが彼女の足を濡らしている。
古ぼけたベッドとテーブル、そして椅子が一脚あるだけの小さな部屋で、少女は息の続く限り声を張り上げる。
「だれか、だれか助けて! このままじゃ、おかあさんが――」
喀血にドレスを濡らしながら床に横たえる女性に、少女は必死に彼女の肩を揺さぶるも、その呼吸は弱まっていくばかり。
「しっかり、しっかりして……! おねがい!」
「……ベ、ラ――あな、たは……じゆ……に――」
女性は震える手を少女の顔へ伸ばそうとしたが、空を撫で床に落ちる。
「え――うそ、だめ……」
少女が恐る恐る女性の手を握るも、既に脈は失せており。だらんと重くなった腕が、床を引き摺った。
「あ……ああ……! おかあさん、おかあさん……!!」
少女は女性の胸に顔をうずめると、突き付けられた死に慟哭する。
「う、あぁぁぁーーー!」
人目の届かぬ部屋には、少女の声だけが虚しく響き渡った。
そこで悪夢はブツリと途絶え、少女は紅色の瞳を大きく見開く。
「はあっ、はあ……っ」
ベッドから飛び起きた少女の額には汗が伝い、シーツはぐしゃぐしゃに乱れていた。テーブルと椅子が一組あるだけの見慣れた景色に、溢れる嗚咽を飲み込む。
「う、ううっ――」
そして零れ落ちる涙をパジャマの袖で拭い、深呼吸をゆっくりと重ねていく。森を縁取る窓は未だ暗く、冷えた部屋に一層孤独を与えた。
その現実から目を逸らすように、棚の上に飾られた額縁へ目を向ける。そこには月明かりに照らされながら微笑む女性と、幼い少女の姿が描かれていた。
「っ……だめ、しっかりしなきゃ。いつまでも泣いてたら、天国のお母さんが心配しちゃう」
“ずっと笑顔でいてね”。記憶に残り続けている、かつて交わした母親との約束。
「……おやすみなさい」
視界が再び潤み始めようとするが、少女はすぐにブランケットに包まった。
幾度も睡眠と起床が繰り返された夜を越え、少女は重い瞼をゆっくりと開く。
「ん……あれ、もう朝……?」
窓の先では、雲一つない晴天が木々を緑々しく染めあげていた。少女も負けじと大きく伸びをし、日光を全身で受け止めると、寝ぼけた声で棚の上の母親に挨拶を送る。
「……おはよう、お母さん」
最後に母親に微笑みかけると、簡単にシーツを直して階段を下りる。
真っ先に向かったのは、自身の身長ほどの高さの銀色の箱。表面にはドアが二つ付いており、内部では冷気に護られた野菜や魚が、仕切りによって居場所を分けられていた。
「う〜ん……今日のお昼ごはんはどうしよう?」
食材達とにらめっこをしながら、あれでもないこれでもないと頭を悩ませる。しかしハッと目を開くと、思いついたと声を上げた。
「――そうだ、サンドイッチにしよう!」
背中まで伸ばした髪を丁寧に梳き、普段はクローゼットに掛けたままの可愛らしい鴇色のワンピースを手に取る。そして顔の横に紅色のリボンを結ぶと、テーブルの上のバスケットを肘に提げ、玄関を抜ける。
「やっぱり春はいいな。森のみんなも楽しそう」
何処からともなく聞こえてくる軽快な小鳥達の歌声に、少女も歌を口ずさみながら、真っ直ぐ歩みを進めていく。
そうして辿り着いたのは、水面輝く泉だった。少し離れた周囲では、木々が取り囲むように生えており、洞には小動物が出入りしている。
「今日も居るかな?」
少女はきょろきょろと辺りを見渡した後、自身の指を咥えて息を吹き込む。すると間もなく背後から「キュキュッ」と短い鳴き声が聞こえた。
振り向くと一匹の栗毛色の小動物――リスが木の枝に乗っており、大きな尻尾を巧みに使いこなしながら幹を伝い下りると、少女の足下へ駆け寄る。
「こんにちは、マリー。今日は、マリーの大好きな木の実を持ってきたよ」
少女はおもむろにしゃがむと、バスケットから瓶を取り出す。そして中に入っていた木の実を一つ手に乗せ、マリーに差し出した。マリーは両手で受け取ると歯で器用に殻を割り、中身を噛り始める。
「ふふっ、美味しい?」
少女もピクニックシートを敷くと腰を下ろし、泉を眺めながらサンドイッチに口を付ける。その傍らでマリーは、尻尾を抱きかかえながら丸まっていた。
やがてバスケットが軽くなった頃、状況は一変する。
「ふう……そろそろ帰ろうかな」
片付けを終えた少女は大きく背伸びをし、マリーへ残りの木の実を渡そうとする。しかしマリーは目もくれず、耳をピンと立てて辺りを警戒していた。
「マリー、どうしたの? ……何か、いるの?」
一点を睨み付けるマリーに、少女も釣られて息を潜める。すると茂みの向こうから、ガサガサと草木をかき分けるような音が聞こえた。
『もしかして、人食い魔獣?』
その音は距離を縮める一方で、少女の脚は震え始める。身動きも取れないままバスケットを握り締めていると、冬の夜空のように澄んだ声が耳を撫でた。
「――おや、こんな所にもヒトが居るとはね。“世界を支配している”と、豪語するだけのことはあるようだ」