アスガルド
ーーーアスガルド暦994年4月12日16時頃
後世に於いて、豊穣と豊作、そしてアスガルド世界の絆を祝う、とされるイースター(復活祭)にあたる、この日の夕刻。
茜に染まりはじめたアスガルドの大地と空。
大陸北東部辺境域と呼ばれるノーザンクロス辺境領よりさらに北に広がるジュアナパシア大森林中央のグリーンバレイ上空に、虹色に輝く巨大なビフレスト(虹の橋)が、その姿を現した。
◆◇
サウザンドバレイ中央部 古都ヴァルハラ‐葉隠の里
黄金色に輝く三尾を持つ狐族の女がこの異変にいち早く気づき、里山の中央に悠然と聳え立つ、白く枯れ果てたユグドラシルの巨神木の頂上部へ駆け登り、南の空を眺めてその美しい碧眼を細めた。
「あ、あれは‥‥‥‥」
茜黒くなりはじめた南の天空に蠢くような不気味な淡い光が現れ、そこから突き刺さるように極彩色の曙光がこの葉隠の里からほど遠いグリーンバレイの地にゆっくりと降りていくのが見てとれた。
幼いころ、語りべの大婆さまから聞かされた極彩色の曙光‐ビフレスト(虹の橋)の出現からはじまる、恐ろしい悪鬼と巨大な神獣たちによる戦乱の物語。
「‥‥ビフ‥‥‥レスト‥」
そして、そう呟いた瞬間、光とともに襲ってきた強烈な魔瘴気の衝撃波に、彼女はその身を一杯に仰け反らせた。
「‥‥‥あがッ!!?」
生物の心身を原始的恐怖で縛り上げる悪魔の咆吼。
一瞬ではあるが、尋常でない量の魔瘴気にその身を曝された彼女は、その暴風に明滅する意識が刈り取られないよう強く歯を食いしばった。
「ぐッーーーーーーーーーーッ!!」
永遠とも思えるような数瞬の耐え難い苦痛に鍛えぬかれた彼女をして血を吐くようなくぐもった声を漏らす。
そして、この尋常ならざる衝撃波が彼女の身と葉隠の里を一閃、通り過ぎると、天に突き立った虹色の柱はその瘴気の残滓を微かに残すのみで、その姿かたちは今はもう嘘のように跡形もなく消え去っていた。
眼下に広がる里には、あまねく混乱と人々のざわめきを残すだけで、すでに、葉隠の里には黄昏の空が戻っている。
だが、輝く光に塗り潰されたあの場所に世界を巻き込むなんらかの厄災が降り立ったことは間違いない。
不安に揺らいだ美しい蒼い瞳が、遠い茜色の空をじっと見つめていた。
中世代狐族年代記の中で語られている天を穿つ虹色に光る柱ーーー虹の橋。
それは、ここ魔領域の動乱。そして、かつて狐族滅亡のきっかけとなった、終末戦争の始まりを意味していた。
◇◆
グリーンバレイ中央部。
「モフブッブフフフゥーーーッ!」
「なッ!なななんちゃあああーーーーッ!!?」
運わるく虹の架け橋が天に立ち上った付近を飛行していた黒く大きな飛竜にも似たその飛行生物は、夕暮れの薄暗い森林を突然襲った極彩色の強烈な閃光にその大きな身体を何度も蛇行するように翻し、驚愕の鳴き声をあげた。
そして、その飛行生物の背に騎乗していた獣人らしき小さな女の子は大切な弓矢を放り投げ、何が起こったのかさえわからずに、その大きな背から振り落とされないよう手綱を引き絞り必死の形相でしがみついていた。
◇
(‥‥‥なんだろうか?)
このとき獣人の女の子は大きな獲物を求めるあまり本来の狩り場から遠く離れたこのグリーンバレイ奥地の危険地帯であるサウザンドバレイに足を踏み入れていることに気づいていなかった。
いくつかの山を越え、この千の峡谷に入ったときから。(何かがおかしい‥‥)そう思わせるような、なんともいえない嫌な匂いがプンプンとし出した。というのも、さっきまでうるさいほど聞こえていた小鳥たちのさえずりがぴたりと止み、小鳥の気配はおろか小動物や虫の声、気配、匂いが一切消えてしまったのだ。
(‥‥なんだかイヤな匂いがする)
眼下の森を見回し『‥‥はふぅ』とひと息ついたそのとき、グワゥッと腹の鳴るような音が上空から聞こえた。
「ん?」
ふと顔を上げると、不安に彩られた虚ろな瞳に、ゆっくりと落ちてくる虹色の箒を伴った流れ星が映っていた。
「ん、ふやッ!?」
あまりに突然の出来事に茫然自失と箒星を眺めていた数瞬の間にそれはみるみる大きくなり、辺りは目映い極彩色に彩られていた。同時にそれを目の当たりにしてパニックに陥った飛牛のモモ爺が右に左にその大きな身体を翻して蛇行飛行し始めたのだ。
「モッ!モモモモヂィィーーーーーーーッ!!」
そう叫び、手綱を引き絞り。(箒星に食べられる!)と思ったとき、意識を刈り取られるような強烈な衝撃波が女の子と飛牛の身体に突き刺さった。
「あぅがッ!!?」「モボフッ!」
喘ぐような鳴き声と同時にモモ爺の翼が力を失くしてその大きな身体が急降下しているのが落ちゆく微かな意識の中で感じた。
◆
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥?」
何が起こったのか、どれだけの時間が経ったのだろうか。辺りはすでに暗く、森は夕闇に包まれていた。
(‥‥危ないと思ったら、ずっとずっとカラダを丸めて穴を掘ってその中に隠れていなさい)と母親が教えてくれた通り、この女の子は小一時間以上もの間、草むらの中でカラダの痛みに耐えながら芋虫のように丸まっていた。
「‥‥‥モ、モモ‥爺!?」
(‥‥そうだ。上空から墜落したのだ)
そう呟いて、今の状況を少し理解した女の子はモモ爺の行方とあの箒星を探すべく顔をあげゆっくりと辺りを見回した。だが、草むらの外にはモモ爺の姿も虹色の閃光も今は無く、モモ爺の苦し気な匂いと嗅いだことがないなんともいえない食べ物の良い匂いが漂っている。
ここしばらくドングリしか食べてない。草むらから出てはいけない。と思うココロに反して、カラダが勝手に草むらから這い出していた。
這い出したこの子は辺りを十分に見回してから、ゆっくりと立ち上がり、ふらふらとした足取りでモモ爺の匂いのする方向に歩き出した。
錆色の髪はボサボサで顔は真っ黒に汚れていたが、そのクリクリの瞳とかわいらしい八重歯の口元には、なぜか笑みがこぼれている。
微かにだが、たしかに生きているモモ爺の匂いがしたのだ。
◇◆
一方、この虹の橋は、グリーンバレイから遥か南西に位置する辺境領王都ノーザンクロスに於いても、ある特殊な能力の持ち主たちによってこの事象が観測されていた。
「うええ~~い、お疲れちゃ~~ん!」
「はい、お疲れさまァ~」
「‥‥ん‥‥おおうぅ」
口々に乾杯の音頭を取り、重ねた杯からガチャンと音が鳴り、白い泡が派手に散る。
日が傾きはじめたばかりだが、ここノーザンクロス冒険者ギルドにほど近い、南のメインストリートに建つ酒場【夕楽亭】では、この日も数多くのギルド冒険者たちで賑わっていた。
この日、二週間にわたる魔領域と呼ばれるグリーンバレイ遠征から無事の帰還を祝って、オレちゃんこと【アッシュ・グレイ】 マウンテンこと【アーロン・ブランドン】 そして、マリリンこと【マリア・ヴァレンチノ】の三人‐【チームハウンド】の面々でささやかな慰労会がここ夕楽亭で開かれていた。
乾杯を終え、挨拶代わりのエールを飲み干し、魔道士のマリア・ヴァレンチノが二杯目に注文した蜂蜜酒に口をつけたとき、その違和感は突如として現れた。
「ーーーブ、ブハッ!?」」
いきなり蜂蜜酒をオレちゃんの顔に向けて盛大に吹き出したマリリンは『ガタンッ!』と木の椅子を転ばし、両手をついて勢い良く立ち上がると、茫然とした表情で店の入り口の方向に目を向けた。
「ウ、ウオオオイッ!!‥‥って、いったい、なんなんだよォ。マリリ~~~ンッ!?」
「‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥ん?」
あからさまにガン無視されたオレちゃんは、マリリンの茫然とした横顔から瞬間的になんかしらの異変が彼女に起こっていることを察知した。
一点を見つめるマリリンの顔は美しいロウ人形のように血の気を失い、少し震えているようにも見えた。
同時に、店内のあちこちでもギルド冒険者らしき者たちが騒ぎはじめている。
「お、おい、マリリン、いったい、何が起きてる?」
尋常でないマリリンの表情といきなり騒然となった店内。
何が起きているのか問いただそうと思い、彼女の肩に手を伸ばすとマリリンはその手をスルリと逃れ、サッと店の入り口に向かって走り出してしまった。
「ち、ちょっ、待てよ!」
彼女の後を追うようにして店外に飛び出すと、マリリンと一緒に出て来た暗い色のローブを纏った幾人かのギルド魔道士らしき者たちが茫然とした表情で北の空を見上げている。
つられるようにして見上げた、北の天空にーーー。
「なんッ!?」
夕闇に包まれる街並。その街並の北西の遠い空に一条の虹色に光る柱が突き刺さっていた。
「‥‥‥マ、マリリン‥‥何なんだよ、あれは‥‥」
マリリンはその美しい顔を歪め、震える声で小さくこう呟いた。
‥‥‥魔王堕天
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明日はどんな日になるのだろう‥‥。