エピローグ(1)
本編最終話から約三年後の話です。
(1)
ディスコボールの銀の光が、真下にある円形ステージを、ステージの後ろの壁を隠す真っ赤なカーテンをぎらぎら輝かせている。
ぎらついた光が輝かせるのはステージだけじゃない。ステージより一段低いフロアの床、一定の間隔を空けて置かれたスチール製のテーブル、ドリンクカウンターの天板をも輝かせていた。しかし、一段と輝いて見えるのはやはりステージ上に立つ者達である。
フロアに集う人々の注目を一身に浴びているのは、ステージの中心に立つアルフレッドだった。三十半ばに至ってもモッズスーツが似合う長身痩躯、冷たく整った顔立ちは相変わらず人目をよく引く。ハスキーだがよく通る中低音の歌声も乾いたギターの音も変わっていない。
変わらないと言えば、アルフレッドの真後ろでドラムを叩くエド、向かって左側で軽やかに飛び跳ねながらベースを弾くリュシアンも変わらない。一点だけ変わったとしたら――、向かって右側で、アルフレッドとよく似た美人が淡々とキーボードを弾いていることだろうか。
二年前に彼女が加入したお蔭でバンドの音楽性は広がり、新たな若い客も獲得しつつある。当人たちは『客が増えるのはありがたいけど、バンドはあくまで趣味で楽しんでいるだけ』と反応は素っ気なかったけれど。
「昇進おめでとう!」
ディスコボールに代わって明るい客電の光がフロアを満たす。アルフレッド達はスチールテーブルの一脚に集い、ビール瓶で乾杯し合った。
「まさか、あのエドが営業部長だなんてねぇ」
「おいメアリ、『あの』は余分だ、あのは」
「だって、ねぇ……??」
メアリはちょうど向かい側に立つアルフレッドに目配せし、互いに頷き合った。
「お前らな、こういう時だけ結託するなよ」
「まぁまぁ、昇進祝いのパーティーの時くらい喧嘩しないでよ」
メアリの隣に立つリュシアンが苦笑交じりに三人を宥めた。これもまた、何年経とうと変わらぬ光景である。
「あら、喧嘩している訳じゃないわ。私たちなりの祝辞みたいなものね」
「だな」
「祝辞じゃなくて単なる皮肉じゃねーか!アルも同調するな!」
エドは自棄気味にビールをぐびぐびと煽り、ドン!と音を立てて瓶をテーブルに叩き置く。
「エド、うるさい。テーブルに傷つくぞ」
「お前らのせいだろうがっ」
「そうよ、兄さん。エドワードさんをあまり苛めてはダメよ」
「お、お嬢っ……!お嬢は兄貴と違って優しい子だなぁ!」
「……その、稀に見せる優しさを、少しは俺に向けようと思わないのか??」
「全然。優しさなら私じゃなくてエイミーさんに求めれば??」
ぴしゃりと言い放つサスキアに、アルフレッドの眉間に皺が寄った。兄の機嫌が傾こうとも、サスキアは胸元まで伸びた艶やかな栗毛を指先でくるくると弄び、勝ち誇った笑みを浮かべている。
眼鏡をコンタクトレンズに変え、髪を伸ばし始めたことですっかり垢抜けたサスキアは本来の美貌が際立つようになった。けれど、自信に満ち溢れた態度は、外見を変えたことよりも自分の手で人生を切り開いたという自負によるものだ。
大学卒業後、サスキアは高級レストランや高級ホテルのラウンジ、バーへの出張演奏の仕事を始めた。最近ではスタジオミュージシャンの仕事も依頼されるようになり、多忙かつ充実した日々を送っている。そんな多忙な中でもアビゲイルの見舞いは今も続けているようだった。
「そういえば、エイミーの姿を見ないけど。今日のパーティーは不参加ってこと??」
フロアをさっと見渡してリュシアンがアルフレッドに問う。
「いや、一応参加予定なんだが……」
「フードコーディネーターの資格試験があるから遅れて参加するって」
アルフレッドが答えるより先にメアリがリュシアンに事情を説明する。何でお前が知ってるんだよ、と喉元まで出かかったが、愚問だと思い直して飲み下す。エイミーにフードコーディネーターの資格取得を薦めたのは他ならぬメアリだから。
メアリはゲイリーとバブーシュカの共同経営の傍ら、二年前に食品コンサルタント会社を設立。出産を機にバブーシュカを退職したエイミーを一年前に社員として迎えていた。
仕事と家庭をしっかり両立し、同じ年頃の子供を持つメアリに感化されたのか。仕事はもちろんのこと、エイミーは仕事に役立つ資格取得の勉強に日々励んでいる。
「ところで、アル。アルは新しい職場にはもう慣れたの??」
「俺??半年経ったし大体慣れてきたな」
エイミーの話題から唐突に自分へと振られたが、アルフレッドはリュシアンの問いに淀みなく答える。
半年前、アルフレッドは長年勤務していた街の公共図書館を退職し、母校である大学の図書館で働いている。慣れ親しんだ職場を離れるのは非常に名残惜しかったが、キャリアアップを目指す気持ちの方が遥かに強かった。給与(公共図書館よりも高い)や週末に固定された休日に惹かれたのも理由の一つだ。
「でもよ、あのMs.グレースーツが先輩になるだろ??いびられたりしない??」
「別にいびられはしないさ。それに性格のキツイ女には散々慣れている」
いびられはしないとは答えたものの、Ms.グレースーツはアルフレッドをよく覚えており、『例え一分の遅れであっても、貸出期限を過ぎていた場合は必ず罰金を徴収するように。硬貨がない、紙幣しか持ち合わせがないと言われた場合、買い物等で両替してくるよう伝えること。でないとこちらの硬貨が不足してしまうので』とわざわざきつく言い渡してきた。二十五年近く前に返却カウンターでひと悶着したのを未だ根に持っているのか……??と、内心慄いたのは秘密である。
「それって、どういう意味かしら??」
メアリとサスキアの普段よりワントーン低めた声が見事に重なった。ついでにじとりとした視線も。二人の美女に詰め寄られるのはある意味役得かもしれないが、姉のような幼なじみと実妹とでは煩わしさしか発生しない。面倒臭いと思っていると、忙しない足音を立てて小さな影が二つ、アルフレッド達のテーブルに駆け寄ってきた。
「ん、どうしたの??」
半目でアルフレッドを睨んでいたのが一転、メアリは近づいてきた小さな影、今年三歳になる双子の息子達に柔らかく微笑んだ。息子達は父親譲りの大きく丸っこい瞳で母をじっと見つめた後、くしゃっと顔を歪めた。
「ママ、おしっこ!」
「えぇ?!ハリーとビリー、どっちが?!」
「ぼく!」
「ぼくも!!」
「二人揃って!?」
「「もれちゃう!!」」
「ちょっと待って!!トイレはどこ?!」
「あぁ、僕も一緒に連れて行くよ!」
夫婦で掻っ攫うように息子達を一人ずつ抱きかかえると、メアリとリュシアンは急いでトイレへと駆け込んでいく。テーブルに残る者達は二人の必死な姿をただ呆然と見送るしかなかった。
(2)
「メアリはともかく、ルーが慌てる姿はなかなかに貴重だよな」
「小さな子供がいたら常にあんなもんだぜ??うちもトイレトレーニングには随分苦労したし……って、その顔は何だよ」
「いや、お前の口から子供の話題が出る度に違和感が未だに拭えないっつーか。アルは結婚自体興味ないってずっと思ってたしさ」
「いい加減慣れろよ」
「ねぇ、兄さんってそんなに結婚向きな人じゃなかったの??」
「サスキアは余計なこと聞くんじゃない」
「過去に遊んでいたらしいことくらいは知ってるけど。でも、何だかんだ言って、父と違って真面目で誠実よね」
「何だかんだは余分だ。あと比べる相手が余りに悪すぎる。あの男、また離婚するんだろ」
「そうらしいわね。まだ一歳半の息子を巡ってあの女との親権争いが泥沼化しているみたい。似た者同士な二人だし遅かれ早かれこうなることは予想できたけど」
どうでも良さそうに吐き捨てると、サスキアは右隣のテーブルを振り返る。サスキアが振り返ったタイミングで、浅黒い肌の小柄な女性がにこやかに手を振った。つられてサスキアも頬を緩ませて手を振る。お互いに振り合った手には同じブランドの指輪が光っていた。
「ちょっとカリーナのところに行ってくるわ」
さらに表情を緩ませ、軽やかな足取りで移動するサスキアを、残されたアルフレッドとエドで見送る。
数か月前に交際相手だとサスキアから紹介されたのが、先程の黄色人種と黒色人種の混血女性カリーナであった。当初は反応に戸惑ったものだが、今ではすっかり公認の仲である。同性といえどもサスキアに信頼できるパートナーができたのは喜ぶべきことだから。
それでも拭いきれない複雑な想いを振り払うべく、やや雑な動きでネクタイを緩める。気を取り直すように、ビール瓶に口を付けようとした時だった。膝裏に強い衝撃を感じたのだ。
「うぉ?!ちょっ、アル、何事だよ?!」
危うく膝から崩れ落ちそうになるのを咄嗟にテーブルに突っ伏して食い止める。激しく揺れるスチールテーブルから自身のビール瓶を持ち上げて避難させつつ、エドはアルフレッドに驚きと心配混じりに呼びかけた。だが、アルフレッドの膝裏にしがみつく小さな影に気付くなり、ぶふっ!と吹き出してしまった。
「……笑うな」
「いや、だってさ」
僅か数十秒程度の考え事に耽っていたせいで、足音に気付けずにいた自分の愚かさよ。
「なに、最近は膝カックンするイタズラ覚えたのかよ??」
「……違う、なぜか膝裏に飛びついてくる癖がついちまっただけで、本人に悪気は全くない、筈だ」
「でもエイミーにはしないんだろ??確信犯じゃねぇの??」
「ねーねー、ひじゃかっつん、って、なーにー??」
「……ベネディクト。後ろから飛びつくのは駄目だと。危ないからって、いつも言ってるだろう??」
よろよろとテーブルから起き上がるアルフレッドの膝裏から、猫耳つきの黒いニット帽を被った男児がひょこっと顔を見せた。帽子の下から覗く赤毛に近い栗毛はぴょこぴょこ跳ね、薄緑色のつぶらな双眸がアルフレッドとエドを交互に見上げてくる。
シュッと通った鼻筋や薄い唇は父親似だが、人好きのする愛らしい笑顔は母親によく似ていた。