シーズ・ソー・ビューティフル(22)
(1)
バスから降り立ったその場所は、見渡す限り畑か牧草地だった。
聞こえるのは牛らしき動物や鶏の鳴き声、遠ざかっていくバスの排気音のみ。人の気配がまるで見当たらない。バス亭看板の塗装も、busstopの文字が辛うじて認識できたくらい剥げ落ちている。
アビゲイルを収容する施設は郊外にあるとは聞いていたが、フレッドが暮らす街を出て施設の最寄りバス停に到着するまで、約二時間も要する遠い田舎だとは。バス停から北東へひたすらまっすぐ進めば、白煉瓦のマナーハウス風の建物――、件の施設が見えてくる、らしい。
しかし、目を凝らしてみても北東の方角にそれらしき建物は見当たらない。つまり、それだけバス停から遠く離れた場所にあるということ。
「……勘弁してくれよ……」
歩くこと自体は別に嫌いじゃない。三月下旬に入った現在、肌寒さは残るが身を震わせる程でもない。特に今日は珍しく雲が少なく青空さえ見えている。だが、澄み渡った空とは裏腹にフレッドの表情は終始曇っていた。
公営や私営でも大手の病院から見放された精神病患者を集めた私営施設というだけに、(戸籍上)アビゲイルの家族でないフレッドの面会許可はなかなか下りなかった。そのため、サスキアに連絡した夜から一か月弱を経て、ようやくアビゲイルとの面会が許されたのだ。
「立ち止まっていても埒が明かないし、行くしかない、よな……」
次のバスは二時間以上あとにしか来ない。腹を括って広い車道の端に沿って目的地へと歩きだす。整備されたアスファルトではなく、未舗装の道のごつごつした砂利、土塊が足裏を刺激し、地味に痛みが走る。
歩き慣れない道を延々と、黙々と一人歩く間にも不安とある種の恐怖に蝕まれていく。
アビゲイルとの面会を決意したはいいけれど、実際に姿を目にした場合、己がどう反応を示すのか、まるで予想がつかない。もしかしたら、悪魔でさえも恐れをなして逃げ出す程の、凶暴な悪意に満ちた言葉の数々をぶつけてしまうかもしれない。何にせよ、冷静に振る舞える自信がないことだけは確かである。
三十分近く歩き続けて、ようやく施設らしき建物が遠くに見えてきた。別荘か高級ホテルのような外観は長閑で牧歌的な風景とよく溶け込んでいる。
やがて高い鉄柵に囲われた白亜の豪邸風の施設の前まで来てしまった。フレッドの心臓は強い緊張で今にも張り裂けそうだ。
息を大きく吸い込み、盛大に吐き出す。ここまで来たからには鉄柵の向こう側へ足を踏み入れなければ。
フレッドは覚悟を決めると、鉄柵と同じく背の高いアーチ形の鉄門に立つ守衛に話しかける。事前に職員から説明されていたのか、守衛はあっさりとフレッドを施設内へと案内してくれた。
施設へ続く芝生とつるバラのグリーンアーチを潜る。暖かな春の陽射しと緑の鮮やかさに目を細める。白煉瓦の外壁、玄関ポーチ同様、白い塗装の木製扉を開けば、白い壁紙、白い床、白い受付カウンター……と、内装まで白で統一されていた。
「アビゲイル・トンプソンの面会に来ました。アルフレッド・オールドマンです」
受付に立つ職員に告げると、奥のソファーでしばらく待つように指示を受ける。指示通り、受付カウンターの左側の廊下を少し進み、面会者の待合所らしい一対の白いソファーの片側に腰を下ろす。ここで面会する入所者の準備が整うのを待つようだ。
三〇分以上、下手したら一時間以上待たされるのもザラだと、サスキアから事前に聞かされている。緊急連絡以外はスマートフォンの使用も禁止だとも。
だから、本でも読んで時間を潰す気でいたのに。ものの五分もしない内に、看護師の男性と女性が一人ずつ、フレッドの前に現れた。
「マクダウェルさん……、いえ、トンプソンさんは他の入所者よりも症状が重いので、面会室まで連れていくのが困難な状態です」
「……それは、面会謝絶ということですか??」
「場合によってはそうなることも。ですが、今日のトンプソンさんは比較的落ち着いていますし面会を許可します。ただし、面会室ではなくトンプソンさんの居室で私達の立ち会いの下、一〇分間だけの面会となります。それから、途中で何らかの変調が見られた場合は面会は即刻中断します。それでも宜しいでしょうか??」
「構いません」
「分かりました。では、トンプソンさんの居室へと案内致します」
(2)
重篤な症状を患う入所者は個室を宛がわれる。時折記憶が混同し、まともな現状認識が一切出来ない。その度に錯乱し大暴れするというアビゲイルも例に漏れず。
看護師達の後を、少し距離を空けて続くフレッドの足取りは一歩進むごとに重くなる。
窓代わりの硝子ブロックの煌きが白い壁を、廊下を。前を歩く看護師達の白い制服を更に白く輝かせていた。
「トンプソンさん、入りますよ。面会の方がお見えです」
上部に(監視用の)小さな覗き窓がある扉を女性の看護師がノックする。返事はなく、中からは物音一つ聞こえてこない。
フレッドの心臓は破裂を危惧したくなる程、暴れる勢いで早鐘を打ち続けている。心臓だけではない。喉も肺も胃も、息苦しいくらいまでにギリギリと締め付けられている。こめかみも後頭部も鈍器で殴られ続けているかのように絶えず痛む。胃の腑から込み上げてくるものを、唾を飲み込んで無理矢理押し流す。顔色もおそらくは真っ白だろう。変調をきたしそうなのはアビゲイルよりもむしろフレッドの方だ。
看護師達はフレッドの顔色に気付く由もなく、遂に扉が開かれる――
八帖程の室内には、中央に白いベッド、傍らにパイプ椅子が一脚置かれているだけで、他には何もない。
無機質で静寂が保たれた白い部屋で、アビゲイルは窓辺でパイプ椅子に座り、興味深げに外を眺めていた。窓辺と言っても硝子ブロックの窓からは外の景色など何も見えないというのに。
フレッド達に背中を向けているのでアビゲイルの顔は見えなかったが、痛々しい程にやせ細った背中を丸め、だらしなく伸びきった長い髪は見事に真っ白だった。彼女の年齢は五十一、二歳の筈だが、後ろ姿だけ見ると七十過ぎの老婆のよう。
アビゲイルは看護師に呼びかけられても、振り返りもしなければ身じろぎ一つしない。そんな態度にはもう慣れているのか、女性の看護師は彼女の傍に近づいていく。
「トンプソンさん。今日はね、貴女に面会したいという方がいらしたのでここへ連れて来ました。お会いになりませんか??」
アビゲイルはもどかしいほど緩慢な動きで首を傾げ、その状態のままでしゃがみ込んだ女性看護師を虚ろに見つめた。
「オールドマンさん。申し訳ありませんが、もう少しトンプソンさんの傍まで近づいていただけますか??」
男性看護師が申し訳なさそうにフレッドに呼びかけた時だった。
それまでの緩慢な動きからは考えられない素早さでアビゲイルはフレッド達を振り返り、すくっと立ち上がった。
老婆のようだった後ろ姿からは想像がつかないくらい、アビゲイルは若々しい顔つきをしていて、まるで少女のようだった。
勿論、目をよく凝らせば年相応に皺や皮膚のたるみがあるものの、不思議とそんなものが目に入ってこない。もしかしたら、フレッドが抱くアビゲイルの印象が投影されていて、実際よりも若く見えてしまうのかもしれないが。
呆然と立ち尽くすフレッドを見たアビゲイルの虚ろな瞳が僅かに揺れ動く。唇が小刻みに震えだす――
「……アルフレッド??……」
自分かマクダウェル氏、どちらを指してのことか――、答えはすぐに出た。
「貴方、いつの間に、こんなに大きくなったの??でも、良かったわねぇ。女の子より背が低かったからママはずっと心配だったの」
穏やかに微笑んでいたアビゲイルだったが、その笑顔はすぐに悲しげに歪んだ。
「ねぇ、チェスターとマシューはあたしを置いて、どこに行ってしまったの??ねぇ、何で、貴方しかここにいないの??アルフレッドはあたしからサスキアを奪って何処かに行ってしまったわ。みんなみんな、あたしを置いていってしまうの。あたしには貴方しかいないのよ。アルフレッド、貴方だけはママの側にいてくれるわよね??あら、いやだ。アルフレッドってば、なんで泣いてるのかしら??」
アビゲイルは明らかに正気ではない。これが、一〇歳からおよそ二十一年間憎み続けた女の末路なのか。
彼女の愚かな所業の数々は自分やチェスター、マシューに祖母達、サスキア……と、何人もの人々の心に一生消えない深い傷痕を残した。相応の報いを受けるのは当然で、自業自得だ。頭ではそう思う。ざまぁみろ、と嘲笑ってやりたいのに。なのに、なぜ、涙があとからあとから流れてくる――??
フレッドは『泣く』という感情だけは生来欠落しているのではないか、と思う程、小さな頃から泣かなかった。少なくとも物心ついた時から泣いた記憶は一度もたりとてなかった。
「……アルフレッド、何故泣いているの??」
不思議そうな顔でアビゲイルがフレッドに歩み寄り、彼の身体を優しく撫でてきたその時。フレッドの中で、何かが音を立てて崩れ落ちていく。
「……母さん……!……母さんは、子供みたいにただ純粋で……、素直過ぎただけだったんだ……!!」
看護師達が制止する間もなく、フレッドは無意識にアビゲイルを抱きしめていた。
母を求めて幼い子供がしがみつくように。
台詞回しは違いますが、「シーズ・ソー・クール(4)」で少年フレッドがつぶやいた台詞が21年越しに再び登場しました。




