シーズ・ソー・ビューティフル(20)
(1)
――およそ二か月後――
定時で仕事を終わらせた後、『Library』の旗が立つ正面玄関ではなく裏側の職員用出入り口へ向かう。エイミーに帰宅時間を伝えるため、スマートフォンを耳に当てながら自動ドアを潜り抜ける。
二、三人横並びになっても広さに余裕がある正面玄関とは違い、職員用出入り口は人一人が通れる程度の広さでしかない。通話に気を取られ、うっかり扉にぶつからないよう気をつけなければ。
呼び出し音が鳴り続ける間にポーチに出て段差を降りていく。
傍にスマートフォンを置いていないのか、手を離せない時だったのか、エイミーはなかなか電話に出ない。鳴りやまない呼び出し音を煩わしく感じながら、ポーチから真っ直ぐに伸びた石畳の小径を進んでいく。小径を間に挟む形で入り口から通用門の間はちょっとした庭園になっているが、花々が咲き誇る春から夏にかけてならいざ知らず、真冬の今は枯草だらけで見るも侘しい状態だ。枯草の影が冷たい夜風にざわざわ揺れているが、先を急ぐフレッドの眼中には当然入りもしない。
しかし、通用門に近づくにつれてフレッドの歩みは次第に速度が落ちていき、小径の途中で止まった。耳元では『ハロー??アルフレッド??』とエイミーの呼びかけが聞こえてきたが、応じるどころではなかった。
フレッドの視線は、夜闇に紛れて通用門の石柱に凭れて佇む人物へと一身に注がれていた。
上質だが、流行遅れで地味な色合いのロングコート。黒縁眼鏡の下の、自分とよく似た少し冷たい顔立ち――
「……こんばんは。お久しぶり」
「……あぁ」
短い挨拶と共に、サスキアとフレッドの息は白い靄となり夜気へ溶け込んでいく。
あの病院での一件以来、サスキアはフレッド達の前に姿を見せていなかった。
『自分で何とかする』と言い切っていたが、マクダウェル氏とナンシーに良いように押さえつけられているのではないか、などと、密かに彼女の状況を案じていたのだが。
約二カ月を経て突然姿を現したということは、何かしら状況が好転したのだと捉えるべきか。
ふと、サスキアを当然のように気にかけている自分に気づいた。
『血縁上の妹というだけの赤の他人』だと、あんなに疎んじていたくせに。
「……何が可笑しいのよ」
無意識に浮かべていた苦笑にサスキアが憮然としたため、フレッドは慌てて笑みを引っ込めた。
「直接家に来てくれればよかったのに」
「ごめんなさい。いきなり押しかける訳にもいかないと思って」
「……だからと言って俺の職場に押しかけるのはありなのかよ」
「まぁまぁ、そう言わないの。アルフレッドから大体の事情は聞いていたけど……、大変だったみたいね。でも、またサスキアさんの顔が見られてホッとしたわ」
通用門で待ち構えていたサスキアを伴って帰宅すると。驚きながらもエイミーは快く彼女を迎え入れてくれた。
三か月前のあの雨の夜と同じく、二人対一人の並びで居間のソファーに座る。運ばれてきた紅茶も香りから察するにあの夜と同じもの。違うとすれば、サスキアが恐縮しつつ運ばれてきた紅茶に口をつけたことか。
「……美味しい!」
「口に合ったみたいでよかった。お気に入りのフレーバーティーなの。と言っても、今の私はカフェインレスの紅茶じゃないとダメだから飲めないのよね」
片手でカップ、もう片方の手でエイミーは大事そうに下腹部を撫でる。水色のケーブルニットワンピースは身体に添うデザインで、膨らみ始めた下腹部が少し目立っていた。
「その、体調は落ち着いた、の??」
「13週目に入ったんだけど、だいぶ落ち着いてきたわ。ありがとう」
「そう、よかった……」
妊娠と同時に切迫流産が判明してからおよそ二カ月。仕事も休職し、自宅で安静に過ごしたお蔭で10週目を過ぎた辺りで症状が安定し始めた。概ね普通に日常生活を送れるまでになったが、それでも無理は禁物だ。
「ちょうど今日、病院の検診だったの。赤ちゃんのエコー写真、良かったら見てみる??」
「ええ」
「ちょっと待て、なんで俺より先にサスキアに見せようとするんだ」
「へ??一緒に見るんだから先も後もなくない??」
「いやだ、お兄様ったら、もしかして拗ねてる訳??」
「別に拗ねてない」
「意外に子供っぽいところあるわよね」
「あのなぁ……」
兄妹の応酬を横に、エイミーはカップの近くに置いたスマートフォンを手に取る。手帳型のケースに挟んであった胎児のエコー写真を、二人に見えるよう机上に差し出した。
逆扇に似た白画面の中心に丸い頭部、頭部の1.5倍程の大きさの胴体、小さな手足が白い影のように、しかしはっきりと映し出されている。
「すごい……。小さいけど確かに人の形をしているし、手足の指もなんとなくわかるわ」
「大きさはまだ少し小さいみたいだけど、順調だって。今日はちょっとだけ動いていたのよ??」
サスキアは初めて目にする胎児の写真の端を慎重に持ち上げると、画像を食い入るように見入っている。
もう一度下腹部を撫でるエイミーの掌ごと包み込むように、フレッドも彼女の下腹部を撫でた。込み上げてくる愛おしさも含め、我が子の存在は日に日に大きくなっていくばかりだ。
足元に寄ってきていたヴィヴィアンが、ひょいとエイミーの膝に飛び乗ってきた。腹に乗っかられてはいけないと、フレッドはヴィヴィアンを抱き上げると自らの膝へと乗せかえる。不満げな声で鳴かれたが、引っ掻いたり噛みついたりといった抵抗は特にされなかったので良しとしようか。
「ところで、サスキア。家に来た理由は何だ??ここに来られたということは、そっちの家で何か進展でもあったのか??」
会話が途切れた隙を見計らい、サスキアに問いかけた。何口目かの紅茶を口に含みかけていたサスキアの動きが止まる。フレッドの横ではエイミーが表情を引き締めた。
三人の間に緊張が走り、重たい沈黙が落ちてきた。ヴィヴィアンだけはフレッドの膝上で大きな欠伸をして寛ぎきっている。
エイミーと二人だけならば、人間の事情など我関せずな愛猫に緊張の糸が緩むところだが、と、相対するサスキアに向き直る。サスキアはカップを机上に下ろすと姿勢を正した。
「あの日――、迎えの車の中で、我が家のクリスマスディナーにあの女を招待するよう、父に薦めたの。二人は、私がやっと仲を認めたと思ったみたいだけど、実際はそうじゃなくて大事な話をしたかったから。もちろん、二人共私がそんな心づもりでいるとは露ほどにも思っていなかったけどね」
「大事な話、とは……??」
慎重に尋ねると、(色は違えど)自分とよく似た双眸が眼鏡の奥で怜悧に光った。次いで、これまた自分とよく似た薄い唇が吐き捨てるように言葉を続けた。
「お母様と離婚してあの女と再再婚してもいいと、言ってやったのよ。その代わり、交換条件を五つ突きつけたの」
フレッド達が絶句するのも構わずに、サスキアは淡々と事務的に事の顛末を語り始めた。
(2)
全ての条件を伝えると、改めて父とナンシーを正面からしっかりと見据える。二人共が中途半端な位置で止めていた手を、いつの間にやら音もなく机上へ置き直していたし、浮かべた表情はどちらも苦いものだった。
無条件に認めてもらえるとでも思っていたのだろうか。父は『いつまでも幼稚で気狂いなアビゲイルよりもナンシーの方がこの家にふさわしい』と本気で考えているし、ナンシーも口に出さないだけで態度からして一目瞭然だ。
例え前妻を失ったショックでの気の迷いだったとしても、親族総出での猛反対を押し切ってアビゲイルを迎え入れのは何を隠そう父自身なのに。兄の台詞じゃないが、父にとっての女性とはペットみたいな存在なのかもしれない。
最初こそ、身分違いと言う物珍しさと無邪気さでアビゲイルに癒されていたが、次第に飽きてきたのと無邪気さの裏返しである無知さに、煩わしさばかりが鼻につきだした。サスキアの存在に至っては可愛かったペットの付属品に過ぎない。
「渋る理由など一つもない筈でしょう??」
「ええ、私はその条件全て、概ね認められます」
やはりというべきか、父が口を開くより先にナンシーが答える。
「概ね、ということは、お気に召さない点があるのかしら。まぁ、おそらくは母の施設料金に関してだと思われますけど」
サスキアの指摘にナンシーは気まずそうに口を閉ざした。露骨な反応に最早呆れすらもしない。
「私が大学卒業し、生計立てられるまでの数年だけでいいと申し上げましたが??それでもお気に召しませんか??お言葉ですが、10年以上続く貴女と父との関係に母と私が苦しんだ期間の方が余程長いと思うのですが……」
「サスキア、口を慎みなさい」
大事な話し合いには参加しないのに、愛人を横から庇うことだけはするのか。少し前なら傷付いたであろう父の行動にも別段感じるものなど何もない。
「離婚裁判となった場合、本来はお二人の方が圧倒的に不利な状況となるのですよ??この国の離婚裁判は理由問わず妻側が有利な判決に持ち込みやすいと聞きますし」
「サスキア、黙りなさい」
「数年間のみの金銭的援助すらも拒否するのでしたら、離婚裁判で母の代理人として私は『不倫による耐え難い精神的苦痛』でお二人を訴えます。援助していただけるなら、逆に『病が原因による婚姻生活継続不可』だという理由で裁判を行います。これならば、裁判員達の心象も多少はマシになるでしょうし悪い話ではない、と思うのですが」
理論整然と話を進めるサスキアに父はおろか、ナンシーも口を挟めず大人しく黙り込んだ。机上に並ぶ料理の数々はすっかり冷め、グラスのワインも温くなっていくが、サスキアにはどうでもいいことであった。
(3)
「……で、結果的にあの二人は条件全て飲んだのか」
「父はあっさりと認めてくれたわ。考えるよりも折れる方が楽と見なしたのよ。あの女も一つ目の条件に難色示していたけど、最終的には渋々折れて認めたわね。長年結婚を阻んできた邪魔者が自ら去ってあげるんだもの、多少は妥協してほしいものよね」
「サスキアは、それで……いいのか??本当に納得しているのか??」
エイミーと共に気づかわし気な視線をサスキアへと送る。サスキアは細い指先をカップの把手に引っ掛けると、残り僅かだった中身を上品な仕草で飲み干す。
「納得するも何も……。あの家はとっくの昔に私の居場所じゃなかった。お母様への責任さえきちんと果たしてくれれば、私があの家に留まる理由なんてない」
二人の視線を避けるかのように、空のカップをソーサーに置きがてらサスキアは素っけなく答えた。
「お母様のことも今はまだあの家任せだけど、将来的には私が面倒を看ると決めているし……、なに??」
「いや……、あんたの決意は立派だと思う。立派だと思うが……、アビゲイルに関してあんたが責任を負うことはないと、」
「確かに。でもね、以前も話したけど……、例え一瞬の気まぐれであっても、お母様は何度か私に愛情を示してくれたから」
「……そうか……」
フレッドの言葉をやんわりと遮りつつ、母への想いを吐露するサスキアの表情はあくまで穏やかで。フレッドはそれ以上何も言えなかった。
「……お兄様は??お兄様は、どうだったの??」
「何が??」
先程とは一転、フレッドの顔色を窺うように恐る恐るサスキアが尋ねてきた。
「怒らないで聞いてくれる??」
「内容にもよる」
「……じゃあ、やめておくわ」
「……怒らないよう、なるべく善処する」
「そうしてもらえると助かるわ」
「いいから早く言えよ」
「急かさないでよ。……お兄様は、お母様から愛されていると感じたこと、全くなかった、の……??」




