シーズ・ソー・ビューティフル(13)
(1)
車の走行音、会社に出勤する人々や登校する子供達の声が眠っていた意識を呼び覚ましていく。
清潔だが使い慣れないベッドの上で、サスキアはもう何度目かの寝返りを打つ。意識は浮上しつつあったが、全身を蝕む倦怠感、鉛のように重い瞼のせいで目を開けられずにいた。
しかし、今現在何時なのかだけは知りたい。上下の瞼に力を込めて剥がすように目を開ける。デジタル置時計は枕元のすぐ傍に。
時間を確認した途端、意識がはっきりと覚醒した。覚醒せざるを得なかった。まさか、九時を回っていたとは。完全に寝過ぎだ。
撥ねとばすように薄手の羽毛布団をまくり上げ、再び枕元に手を伸ばす。デジタル時計の反対側に置いてあった黒縁眼鏡を急いでかけ、室内を見回した。カーテンや寝具の色、素材、壁紙の質感、窓の形、家具の配置。室内の様子を一つ一つ目視で確認すると、膝を抱えて昨夜の記憶を反芻した。
フレッド達の前で延々と泣きじゃくったあげく、『今夜はもう寝た方がいい』とエイミーに諭され、二階の来客用の寝室に連れていかれ――、そして、今に至る。
あんな風に泣くつもりじゃなかったのに。羞恥と後悔の余りに穴があれば入りたい、否、この場から今すぐ消えてしまいたい。何なら、窓から飛び降りて逃げ出したい。
実行するつもりは勿論ない、ないけれど――、抱えた膝に顔を埋めた時、ノックの音が飛び込んだ。膝に顔を埋めたまま、消え入りそうな声で返事をすれば、扉の影からエイミーが顔を覗かせた。
「おはよう、起きたのね」
「……えぇ、少し前に」
「気分はどう??食欲は??良ければ一緒に朝食食べない??」
「…………」
そう言えば、昨日の昼食以降何も口にしていない。気分は優れないのに、平らな腹は空腹を静かに訴えてくる。浅ましくも正直な身体の反応にはほとほと参ってしまう。
「アルフレッドなら仕事に出かけて家にいないから」
「…………」
サスキアの肩がぴくり大きく跳ねる。
兄が不在と知って安堵するなんて、身体以上に心までもが何て浅ましいのか。
きっと昨夜の件で兄には益々嫌われてしまっただろう。ただでさえ、最悪な第一印象を与えていたし――、昨夜打ち明けたように羨ましい気持ちを拗らせたがゆえだが、そんなのはただの言い訳に過ぎない。
「無理に、とは言わないし、食べるより休んでいたかったらまだ寝ていてもいいよ。私は十五時頃まで家にいるし。それまでなら好きなように過ごしていても構わないからね」
「……りる」
「ん??」
「……着替えたら、下に降りるわ」
目線だけをエイミーに向けて告げる。
エイミーは小さくクスッと笑った。
「ん、分かった。じゃあ、待ってる。ゆっくりでいいからね」
「……ありがとう」
扉が閉まったのを合図に、サスキアはようやくベッドから抜け出した。
朝食はベイクドビーンズを添えたバタートースト、オレンジジュースと、屋敷で出されるものよりずっと簡素なものだった。しかし、空っぽの胃の中に入れるにはちょうど良かったし、世話になっている以上文句をつけるなど以ての外だ。
食事する間、エイミーと会話はほとんど交わさなかった。会話の接点がほとんどない上に、エイミーは食べ物を口にしながら話す習慣がないようだった。食べ方がキレイなのも含め、育ちの良さがなんとなく窺える。サスキアもまた、食事中の私語は厳禁、作法も徹底されてきたので静かな食卓を違和感なく受け入れられた。ただし、誰かと一緒の食事という状況に緊張するでもなく、逆にホッとしている自分に戸惑いを覚えていた。
(2)
朝食後はエイミーから借りた本や雑誌数冊をパラパラと適当に読んだり、ヴィヴィアンを少し構ったりしてまったりと過ごした。
何も考えず、ひたすらぼんやりと時間を過ごすなど、これまでのサスキアの生活では有り得ない。空き時間は勉強かピアノの練習にひたすら励む。もしくは母の見舞いのために施設に足を運ぶか。遊びに行く場所も知らなければ一緒に遊ぶ友人もいないので、他の時間の過ごし方がよく分からなかった。
お蔭で学業成績とピアノの技量だけは幼少時から誰にも負けなかったし、この二つだけは唯一サスキアが誇れるものだった。学校の教師やピアノ講師以外からは褒めてもらえなかったし、級友達からは却って敬遠されたりもしたが。
だから、陰口を叩くばかりの無能と見なした者は全員、露骨に見下しては溜飲を下げてきた。
怒らせることで返ってくる反応を馬鹿にしつつ、更なる反応を求めて火に油を注ぐような発言も繰り返した。それ以外に他人とのコミュニケーションの取り方がサスキアには分からない。根本的に人なんて信用できないし、どこへ行っても居場所のない自分が弱みを見せたりしたら一環の終わり。常に神経を尖らせていないと、その場に立つことさえままならない。
それなのに――、他家のリビングのソファに軽く凭れ、雑誌の頁を捲る自分の、いつにない寛ぎぶりといったら!
同じ空間には(暖房費節約のため)別室から移したキーボードセットの前で、エイミーが楽譜を睨みながら演奏している。ヘッドフォンをはめて消音しているが、カタカタと鍵盤を叩く音、ペダルを踏む音がひっきりなしに聞こえてくる。別に気になる程の音ではないが――
「ごめんね、うるさい??」
「うるさくはないけど……、必死に練習しているから何の曲かと気になって」
閉じた雑誌をローテブルに置いて立ち上がると、壁際のキーボードセットの傍、エイミーの背後まで近づいていく。
譜面板に拡げた楽譜をエイミーの肩越しからざっと目を通す。流行りのポップス曲らしいが、サスキアの知らない曲だった。
「練習の邪魔をして悪いけど……、ちょっと試しに弾いてみても、いいかしら……」
「ちょっとだけならいいよ、どうぞ」
エイミーはヘッドフォンの端子を引き抜いてキーボードの前から離れ、サスキアと入れ替わった。指定されたものより遅めのテンポで譜面を目で追いながら、鍵盤に指を走らせる。
軽快な16拍子、スカの要素を取り込んだR&Bポップス。古典音楽ばかり弾いてきたサスキアの指に馴染みはないけれど、たまらなく新鮮で――、楽しかった。
弾いたことのない類の曲、何の気負いもなく、ただ楽しむためだけにピアノに向かうことが。
この、ほんの数分程度のお遊びが、後々彼女の人生に大きく影響を及ぼすことになるとは、サスキア自身想像すらしていなかった。
(3)
結局、サスキアがフレッド達の家を出たのはエイミーが仕事に出掛ける時だった。
家から近い大通りでタクシーを待つ間、「さっきの曲はね、私の義妹が小学校のクリスマス会で歌う曲で、アルフレッドと私がバックバンドに参加するの」とエイミーが語ってくれた。
シャーロットについて、フレッドではなく自分の義妹だという説明の仕方に、自分への配慮を感じつつ気づかない振りで「……そう、だから一生懸命練習していたのね」とだけ答えておいた。
「来月の十九日、金曜日の十七時から始まるんだけど良かったら遊びに来て。父兄じゃなくても誰でも無料で参加できるし」
「……考えておくわ……」
折り良く、一台のタクシーがこちらに向かって走ってきた。エイミーは爪先立ちになり、腕を大きく振り仰ぐ。程なくして、タクシーは二人が立つ歩道の脇に停車した。