シーズ・ソー・ビューティフル(12)
(1)
ティーカバーを外すと、カップから柑橘系の香りがふわり漂った。カップに口を付ければ香りはより濃厚に。オレンジかレモンピールだろうか。
フレーバーティーを自ら好んで飲むことはほとんどないが、今夜に限って爽やかな香りが心を落ち着かせてくれる。
ほのかに揺れる湯気の向こうにはサスキアの姿があった。男物のミッドナイトブルーの開襟パジャマを着用し、フレッドと相対する形で対のソファーに座っている。小柄なエイミーと長身のサスキアでは服のサイズが違うのでやむなくフレッドのものを貸したのだが、当然ながら肩幅、身幅は大きいし、袖、裾も長い。サイズが小さくきついよりマシとはいえ、少々不格好になってしまったが、サスキアは文句一つ言わなかった。
「冷めないうちにどうぞ」
自らのカップを片手にフレッドの隣に座るエイミーがサスキアに紅茶を勧めた。フレッドやサスキアと同じくティーカバーを乗せているのは、膝上でヴィヴィアンが寛いでいて被毛が紅茶に混入するのを防ぐためだ。
「……ありがとう」
膝で握りしめた拳を見つめていたサスキアは、おずおずと顔を上げ素直に礼を述べた。傲慢で生意気な態度はすっかり影をひそめ、世界の全てに怯えているかのような、オドオドとした目で二人の様子を窺っている。礼は述べたけれどカップを手に取ろうとしない。
怯え、警戒、猜疑心――、拾ってきた捨て猫を思わせる目付き、態度。もしかしたら、これこそが本来の彼女の姿かもしれない。
「……で、俺に何の用があって家に押しかけたんだ」
先に沈黙を破ったのは、フレッドだった。
サスキアは怯えた目、引き結んだ唇のままで見返した。風呂から出て間もないので眼鏡を外しているが、素顔は思いの外幼い。
「黙っていては分からないだろう??さっさと話せよ」
「ね、もうちょっと穏やかに……、気持ちは分かるけど少し落ち着いて、ね??」
自分のために向き合う決断をしたものの、サスキアへの刺々しい態度が崩せない。案の定、エイミーが見兼ねて横から宥めてきた。
苛立ちを抑えるべく、再びカップに口を付ける。荒ぶりかけていた感情がほんの少しだけ落ち着いた、気がする。
サスキアは身を竦めて二人の――、特にフレッドの顔色を上目遣いで窺っていた。ぶかぶかのパジャマ、折り曲げた袖口と裾が更に彼女を幼く見せ、まるで両親の叱責を恐れる子供みたいだった。
「お父様が……、遂に、あの女との結婚を決意してしまったの……。今後の話し合いをするために、お父様とあの女と私で、お茶をしながら話し合おうって……。話し合いなんて言ってるけど、要は、私に二人の結婚を認めさせようと説得するつもりなのよ。だから、私……、屋敷を飛び出してきたの……。あの女が義理の母親になるなんて、絶対嫌……!でも、行く当てがなくて……、気づいたら、お兄様の家の前に来てしまったの……」
膝に乗せたサスキアの拳が一層固くなり、震えが生じだす。
俯いて唇を噛むサスキアをエイミーは痛ましそうに見つめる一方、フレッドの視線は依然褪めていた。
「……で、俺にどうしろと??」
「お母様に会って欲しいの……、お願い……」
「俺はアビゲイルを一生許すつもりもなければ会う気もない。なぜ、そんなに俺をあの女に会わせたがるんだ」
「お母様の症状が少しでも良くなれば、お父様も離婚を思い止まってくれるかもしれないから……。ここ数ヶ月、急にお母様は貴方のことばかり話すようになったの。私に対しても完全に『アルフレッド』だと思い込んで話し掛けるのよ。私は貴方と顔が似ているし……」
「いくら顔が似ていてもあんたと俺は性別が違うし、年齢も一回り近く離れている。それを認識できてない時点で相当にイカレている。俺と会う程度で快方に向かうとは到底思えないんだが」
バブーシュカで話した時のように生意気に言い返してくるか、はたまたヒステリーを起こすか。けれど、フレッドの予想に反し、サスキアはしゅんと項垂れるばかりで大人しく口を閉ざしてしまった。
こうもあからさまに落ち込まれると、だんだん苛めている気分に陥ってくる。事実傍から見れば、年甲斐もなく年下の小娘を苛めているようにしか見えないだろう。勿論、この場にいる唯一の第三者はそんな風には思わない――、と、信じたい。エイミーはヴィヴィアンの背中を撫でながら、不安そうに事の成り行きを見守っていた。
緊迫する空気の中、ごろごろぐるぐる、ヴィヴィアンが場違いにも喉を鳴らしている。周囲にお構いなくマイペースに生きることを許される猫が羨ましかった。
(2)
「あんた、この間言っていたな。アビゲイルに『貴女さえいなければ……』とか言われていたと。つまり、あんたもアビゲイルの身勝手さに振り回されて苦しんできた被害者なんじゃないのか??なぜ、そんなに必死になって庇おうとする??」
「…………」
「何も責めている訳じゃない。純粋に知りたいだけなんだ、答えてくれ」
「…………」
声の調子を幾分和らげ質問の内容を変える。サスキアは顔を上げた後、怯えた目のまま唇を軽く開けては閉じを繰り返す。
言いたいことがあるならさっさと言えよ、と喉元まで出かかったが辛うじて飲み込む。沈黙も何度か続くといい加減慣れてくる。
サスキアは縋るような目でフレッドではなくエイミーを見返した。エイミーはサスキアの視線に深く首肯する。
さりげないアイコンタクトを怪訝に思っていると、サスキアが躊躇いがちにゆっくりと、ゆっくりと。じれったい程ゆっくりと左腕の袖をまくりあげる。真っ白な細腕には蚯蚓腫れに似た無数の切傷痕が残されていた。
「……さっき、服を着替えさせた時に見てしまってね。それで知ったんだけど……。今に始まった事じゃないみたいで……」
「……お母様と同じように私も、幼い頃から親族や屋敷の使用人達から冷遇されていたの……。学校の級友達にも、『したたかで恥知らずな労働階級者の娘』だと蔑まれてきた。お父様は私を無視し続けるし、お母様は心を病んでいる。皆、私を傷つけるばかりだった」
「…………」
「私、お兄様が心の底から羨ましかったの……」
「俺が羨ましい、だと??」
目尻がきつく跳ね上がり、頬や口元が激しく引き攣る。
腹の奥底からどろどろとしたものが一気に噴き上がり――、かけて、肩や背中を擦る掌の温かさにハッと我に返った。色違いの目が『聞くに堪えないかもしれないし、辛いと思う。でも、今少しだけ耐えて……、貴方自身のために……』と無言で訴えかけていた。彼女の心根同様、薄緑色と榛色の優しい色合いと視線、包み込むような優しい手つきに噴き上がりかけていた昏い怒りはたちまち収束していく。
フレッドの怒りを察したからか、サスキアがすぐに口を噤んだことも幸いした。
深呼吸を二、三度繰り返す。無意識にヴィヴィアンの頭や背中を無造作に撫で回す。いきなり撫で回されたあげく、雑過ぎる撫で方に当猫は迷惑そうにニャッ!と強く鳴いた。
「もう怒っていない。続けろよ」
「…………」
「いいから、思っていること話せって」
「……お兄様が、お父様とお母様のせいでひどく傷ついていて、複雑な境遇から多くの苦労を重ねてきたのは確かだと、思うわ……。でも……」
「でも??」
「義理の家族から大切にされて、気の置けない友人もそれなりにいるし、心優しい妻と共に幸せな家庭を築いているじゃない……」
「…………」
「私には、私を大事に思ってくれる家族も友人も恋人も、誰もいないの……。私だって、あんな家や両親の元になんか生まれたくなかったし、私なんて生まれてこなければ良かったってずっと思ってきた……!確かに、お母様は狂っているし、何かと私を責めたりする。でもね……、ほんの時たま、お母様が『サスキアは良い子ね。大好きよ』と言ってくれる、その言葉だけが唯一の拠り所だったわ。単なる気まぐれでしかないことは分かってる。だけど、気まぐれであっても私に優しい言葉がけしてくれるのはお母様しかいなかったの……。だから、例え気が触れていようが何だろうが、お母様を見捨てるなんて、私にはできないのよ……!」
サスキアの目から堰を切ったように涙が溢れだしていく。
両手で顔を覆い、激しく嗚咽を漏らす姿にフレッドもエイミーも掛ける言葉が見つからない。例え見つけたとしても言える筈がない。
彼女もまた両親に存在を否定された子供だった。否、両親だけじゃない。
彼女を取り巻く世界の全てに否定された子供だった。




