シーズ・ソー・ビューティフル(10)
(1)
「今回は私が誘ったのだから、私が払うわ」
「何言ってるの、ここは働いてる私が出すよ」
「いいのよ、相談にも乗ってもらったし」
「でも、せめて自分の分は」
三時間近くお喋りした後、会計の際に支払いをどちらがするかでしばらく二人は揉めていた。最終的にはアナイスが押し切り、エイミーは渋々会計カウンターから引き下がった。
会計をするアナイスより先に店員から鞄とコートを受け取っていると、玄関扉が開く。
先程自分を出迎えてくれた壮年の店員が新たな客を出迎えるのを横目に、邪魔にならないよう更に二歩ほど下がる。
会計カウンターとアナイスを待つエイミーとの間を通り過ぎていく客が視界を横切ると、エイミーの色違いの目が大きく見開かれた。
客は一組の男女だった。
女性は見事なゴールドブロンドの巻毛が特徴的な美人で、面識はないけれど見覚えがあった。
男性はというと――、見覚えがあるどころか、今までもこれから先も、毎日見続けるだろう人物と瓜二つの容貌の壮年男性だった。髪色がブルネットではなくグレイヘアと化していなければ、その人物本人だと勘違いしてしまったかもしれない。
衝撃が強すぎて声一つまともに上げられない。身体も石化したかのように、指先一本ですら動かすことができない。
「場所が場所だけに不安だったが、なかなか雰囲気が良さそうな店だ」
「でしょう??ここならサスキアさんも気に入ってくれると思ったのですけど……」
「まったく……、あれも頑なで利き分けが悪い質で困ったものだよ。絶対行くものか、と子供みたいに駄々を捏ねたあげく屋敷を飛び出してしまったのだから」
「まあ……!知らなかったとはいえ、こんな呑気にお茶をしている場合ではないですね……、今からでも探しに」
「あぁ、いつものことだから放っておけばいい……。どうせ屋敷しか帰る場所はないのだし」
「でも」
「いいんだよ、ナンシー。今日は娘の我が儘に疲れているんだ。君とゆっくり過ごしたいんだよ……」
男性の弱々しい言葉は甘えているようで女性も満更でもないのか、それ以上の反論しなかった。
不可抗力ながら耳に飛び込んできた会話はエイミーに更なる衝撃を、衝撃だけでなく怒りともやるせなさともつかぬ、形容しがたい感情を呼び起こした。
「エイミー、お待たせ……ってどうしたの??」
「え、あ、ちょっとボーっとしてただけ」
だから、アナイスが戻ってきてくれた時は心底ホッとした。我に返っただけでなく、聞くに堪えない会話で耳を汚されたような錯覚が一瞬で消えたからだ。
アナイスがコートと鞄を受け取るのを確認すると、さりげなく彼女を押し出すようにして玄関扉へと急ぐ。だいぶ遠ざかってはいるが、アナイスがあの二人に気付いてしまわないように。
外に出てみると霧雨がパラパラと降っていた。石畳の敷石がびしょびしょに濡れているので、一時的に強く降った後かもしれない。
アナイスも同じことを思ったらしく、「また雨足が強まらないうちに急いで帰った方がいいかも」と、雨雲に覆われた夜の空と濡れた歩道を見比べていた。
別れの挨拶もそこそこにアナイスと店の前で別れると、通りから一番近い地下鉄の駅へ向かう。黒い柵に囲われた入り口の階段を駆け下り、改札を抜けるとちょうど電車が到着したところだった。
上部のみ薄灰色に塗装された赤い車両に乗り込み、赤色の座席に腰を下ろす。十九時を過ぎた現在、平日なのも手伝って乗客の大半はスーツ姿の会社員が多い。
動悸が強まっていくのを抑えるように、胸に抱えた鞄を押しつける。
地下鉄爆破事件に遭遇して以降、地下鉄に乗ると時々だが動悸が走るようになってしまった。息苦しさや胸痛を覚える程ではないし、周囲に心配かけてしまうので誰にも話していない。なんとなくだが疲れた時に現れる症状なので、帰ったら今日は早めに寝よう、などと考えている間に降車する駅に到着した。
エイミーとフレッドが住む住宅街は比較的治安の良い地域だが、暗い冬の夜道を若い女性一人歩くには警戒心と緊張感を総動員させなければならない。加えて、地下鉄の出口を出るなり急激に雨足が強まってきた。家路を辿る足も自然と速まっていく。
やがて、すっかり見慣れた茶色い煉瓦造りのセミデタッチドハウス見えてきた。左側の駐車スペースには深緑色のローバー・ミニが停まっていない――、ということは、フレッドは今家を空けている。
周囲を見回し、小走りで玄関に向かいかけて足が止まった。
玄関の前に、見知らぬ人影が。背格好からしておそらく女性だが、女性だからといって油断はできない。直接声をかけてみてもいいが、いきなり危害を加えられる恐れもなきにしもあらずだし。
隣の義実家に電話して相談してみようか。抱えた鞄からスマートフォンを取り出そうか迷っていると、かの人物がエイミーのいる方へ振り返った。次の瞬間、エイミーは玄関先へと一目散に駆けだしていた。
(2)
エイミーが外出し、程なくしてマシューとシャーロットも各々帰宅していった。一人残されたフレッドは自室に籠り、渡されたCD―Rを流しながら楽譜を拡げ、ギターの練習を始めた。
練習が二時間を越えたところで小腹が空いてきた。妹とのお喋りに夢中になるだろうから、エイミーの帰りもそこそこ遅くなるに決まっている。簡単な夜食くらい作っておくかと冷蔵庫を開けたところ、ろくな食材が残っていない。
エイミーならば限られた数少ない食材でも作れるかもしれないが、生憎フレッドの料理スキルではお手上げだ。
仕方なく雨が降りしきる中、近場のスーパーマーケットへ車を走らせたのだが――、ヘッドライトの光が照らしだす自宅の玄関先の光景に不快感が押し寄せた。眉間に深い皺が寄り、威嚇するようにクラクションを一回鳴らす。
「エイミー、何をしているんだ」
食料袋を抱えて車を降りるなり、フレッドは鋭くエイミーに言い放つ。エイミーと共に玄関前に立っていたのはサスキアだった。
いつから玄関前にいたのかは分からない。ただ、髪や服が軽く湿っているだけのエイミーに対し、サスキアは頭から全身にかけてぐっしょりと濡れそぼっている。唇は青紫色に変色し、絶えず震えていることから、エイミーが帰宅するよりずっと前からいたに違いない。
「エイミー、そいつから離れるんだ」
エイミーはサスキアを庇うように、一層彼女に身を寄せる。
「そんな奴放っておけよ。気に掛ける必要なんてない」
「そんな奴って……」
「何の用だか知らないが、勝手に家の前に来て勝手に雨に濡れているだけじゃないか。とっとと追い返せ」
「彼女は貴方に助けを求めてずっと待っていたのよ??」
「俺に助けを求めること自体がそもそも間違ってるんだ」
「助けを求める相手が貴方しかいないかもしれないじゃない」
「そんなの、俺の知ったことか。エイミー、あんたは何だってそいつの肩を持つんだ??」
「……こんなに辛そうに打ちひしがれる人を目の前に、放っておけないでしょ??身体もすっかり冷えきってるし」
「犬や猫じゃあるまいに」
いつになく食い下がるエイミーに対してすら、段々と腹が立ってくる。一方で、エイミーに八つ当たるのは筋違いだと諭す自分もいた。
「……とにかく、あんたは中へ入れ」
「サスキアさんも中へ入れてあげて」
「エイミー、俺の言うことを聞いてくれ」
「サスキアさんも入れてくれるんだったら中に入る」
「…………」
色違いの目でエイミーはフレッドを毅然と見据えた。
普段は聞き分けが良く素直なエイミーだが、どうしても譲れない、納得できないことには我を押し通そうとする所がある。最終的にはフレッドが折れることがほとんどだ。
「……もういい。好きにしろよ」
頭を振りながら、車の鍵を閉める。
玄関ポーチの段差を上がり、寄り添う二人を押しのけるように扉の前に立つ。二人に背を向ける形で家の鍵を開けていると、「……ありがとう」と、エイミーの声が耳に届いた。




