シーズ・ソー・ビューティフル(4)
(1)
客電が煌々と輝くホールの最奥ーー、小さなステージの上でエイミーは一人佇んでいた。ドラムセットの左側、ベースアンプと横並びのアップライトピアノに指を走らせている。
最初はぽろぽろと適当に軽く弾いていただけだった。しかし、ばらついた音は次第に形ある音楽へと変化していく。
ピアノ演奏と共に少し鼻にかかった甘い、けれどしっとりと艷めく歌声が閑散とした店内を満たした。
水曜日は客入りが多いか少ないか極端に分かれるが、残念ながら今日は客入りが少ない日だ。
二〇時に近づいた時点で一見の客が二人、常連客が一人来店しただけで、客はほとんど来ていないに等しい。おまけに、一見の客達も普段は最低でも一時間は滞在してくれる筈の常連客も、今夜に限っては一杯飲んで早々に退店してしまった。
ゲイリーも暇を持て余す余り、裏でスマートフォンで開いたSkypeを使って子供たちとお喋りに興じている。しばらくすれば戻ってくると思うが、誰もいない店内で退屈を紛らわす術は限られてくる。
妊娠の疑いは消えたし、マイボトルのウィスキーをグラスに注いで一人飲むも寂寥感ばかりが増していく。いくら酒に強くとも、気分が沈みがちな時は悪酔いしやすくなる。だから、一人ピアノに向かい久々に弾き語りを始めたのだ。
とにかく何かに集中しないと気分がそわそわと落ち着かなかった。
ナンシーがソファーから立ち上がったタイミングで自動扉が開く。乾いた風が吹き抜けただけで人が入ってくる気配はない。
二人でいる場面を来館者に見られなくて良かったと安心していると、ナンシーもまた同じことを考えたらしい。あからさまに安堵の表情を浮かべていた。
人に見られたくないなら来なければいいのに。フレッドの内心など知る由もなく、ナンシーは再び余裕めいた笑みを口元に湛えた。
「貴方を探すために、手当たり次第街中の図書館に足を運んだわ。オーディションを蹴ってまで希望していたのだもの、絶対に司書資格取得して図書館で働いているに違いないって。電話番号もメールアドレスも変えたでしょ??顔本やIns×××amの検索にも全然引っ掛からないし、連絡手段がなくて本当大変だったわ」
先に電話番号やメールアドレスを変えて拒否したのはナンシーの方ではなかったか。
まるでフレッドの方が彼女を避けたかのような言い方に目尻が跳ね上がり、唇の端が引き攣りそうなのをぐっと堪えて無表情を保つ。
「随分探したのよ??私の立場上表立って人探しなんてできないから、自分の足を使うしかなくて。そのかいあって、やっと見つけられたわ!そう言えば、貴方と面識を持つきっかけは大学の図書館での出会いだったわね。私の方ではすでに貴方のことは知って」
「申し訳ありませんが、館内での私語は禁止です。静かにしていただけますか」
途中で遮らなければナンシーは延々と一方的に喋り続けるだろう。私情は一旦横へ捨て置き規則を遵守する図書館員の顔で、フレッドは無感情かつ平坦な声で注意を促す。
フレッドに窘められるなどとは考えすらしなかったのか。ナンシーは絶句して、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。呆気に取られる様子にふと、ナンシーに厳しい態度を見せたのは初めてだったかもしれないと気付く。
肘掛けについたままのナンシーの手に、逸らした視線を落とす。
顔や体型は努力次第で若さを保てるが、手には年齢が表れてしまう。短く切り揃えた爪に塗ったパールホワイトのネイルがまた皺を浮き立たせ、薬指には指輪跡がくっきりと残されている。
「お仕事の邪魔をしてごめんなさい。でも、どうしても話したいことがあって、ずっと貴方を探していたから、見つけられた感動でついお喋りを」
「俺はあんたと話すことなんて何もないから」
近くを人が通り掛からないのをいいことに、素のぶっきらぼうな口調に切り替える。
「貴方の休憩時間に館内のカフェで話すのも??」
「貴重な休憩時間をなんであんたのために割かきゃならない??何を企んでいるか知らんが、俺とあんたは一〇年以上前に別れているのに??俺があんたのために時間を割く理由がどこにある??第一、俺は今仕事中だ。悪いが帰ってくれ」
言いたいことを言い切り、ロビーから去ろうとしたフレッドの腕をナンシーは咄嗟に掴んで引き止めた。思いの外、強い力で掴まれているせいで簡単に振りほどけない。ぎりぎりと腕に食い込む指の力に目元を顰める。
「じゃあ、単刀直入に用件を言うわ。貴方の実のお母様について話があるの」
腕の痛みが一瞬にして消える。
背中を向けているのでナンシーの表情は伺い知れない。知りたくもない。
「……あの女は、とっくに他人だ。俺には一切関係ない」
「貴方に関係なくても私にはあるの。あなたのお母様のせいで私は彼といつまで経っても結婚できない。一度は諦めて別の人と結婚したけど、やっぱり彼を忘れられなくて結局別れたのよ」
ナンシーの声は静かだが高圧的、それでいて哀切するようでもあった。
だからと云ってフレッドが絆される筈もなく、却って平静を取り戻すきっかけにすらなった。
話を聞く耳はないと、力ずくでナンシーの腕を振り払う。振り払われた勢いでよろめいた気がしたが、倒れた訳ではないので無視して、その場に縫い止められていた足を再び前に進める。
「19時にフォース・アベニューカフェで。よく一緒に行ったお店だし覚えてるわよね??待ってるわ!」
行く訳ないだろう、と口内で小さく呟き、更に数歩足を進める。自分が向かっているのとと逆方向、自動扉へと遠ざかっていく靴音を背中で聴きながら。
肉付きの薄い背中で金の巻毛が揺れる様が振り返らずとも目に浮かぶ。
そんな自分に苛立ちながら、フレッドは歩調を更に速めた。
(2)
「ねぇ、もしかして……、彼女と会うつもりなの??」
『まさか、有り得ない』
即座に否定されて安心はしたものの、くらくらと軽い眩暈を覚えた。
夫の元恋人が一〇年振りに突然訪ねてきた。しかも二人で会って欲しいとまで請うてきた、だなんて。
「普通、この手の話は今のパートナーには黙っているものじゃない??」
『……すまない……』
「彼女の真意はどうあれ、浮気の誘いを掛けられたようにも取れるもの。はっきり言って気分が悪いわ」
眩暈はまだ続いている。エイミーはテーブルに寄り掛かり、眉間を撮んで揉み解した。
フレッドのかつての恋人については、ちらっとだけだが彼自身から話を聞いている。
同居を始めて間もなく気付いたことだが、フレッドは新聞記事やインターネットである女性の写真を見掛けると、決まってまだ読みかけにも関わらず新聞やプラウザをすぐ閉じてしまうのだ。
その女性は某有名交響楽団に在籍し、退団後は国内各地の独演会を中心に活動する美貌の女性ピアニストだった。
過去の詮索は良くないと思いつつ、どうしても気になって尋ねてみたところ、「昔の恋人だったが、互いの価値観の違いで別れた」とだけ答えてくれた。
過剰反応する割には素っ気ない答えに違和感を拭えなかったが、しつこく聞く訳にもいかない。以来、その話について二度と言及しなかったのだが。
『エイミーが怒るのも当然だ。俺だって、あのストーカー野郎があんたにまた近づいたらと思うと……、腸が煮えくり返るどころじゃない。今度こそ縊り殺してやりたいくらいだ』
「そう思うなら、なんで」
『……あんたの声を聞いて、気持ちを落ち着かせたかったんだ……』
縋りつくようなか細い声で囁かれたら、どうして責めることなどできようか。
喉元まで出かかった叱責の数々をごくり、嚥下し、はたと思い至る。
もしかしたら、彼が自分と結婚するまで特定の恋人を作らなかったのは、実母だけではなく、例の元恋人も一端を担っているのでは――??
問い質したい衝動に駆られたが、あえて古傷を抉る真似はしたくなかった。
ついさっきまでは嫉妬が大半を占めていた心中に、様々な懸念が新たに湧き上がってくる。
聞きたい、けれど、聞いてはいけない。
眩暈が一段と酷くなってきた。耐えきれずエイミーはソファーに座り、スマートフォンを耳に当てたまま頭を抱えた。
悲壮さを漂わせたフレッドの声に相槌を打ち、慰めの言葉をかけるごとに、嫉妬よりも案じる気持ちの方が完全に上回っていく。
「……ね、もしも今夜、一人で家に居たくないなら仕事帰りに店に寄って。で、閉店まで残って一緒に帰ろう??こういう状態の時のアルフレッドは一人にならない方がいい、と、思うの」
短い沈黙の後、『……分かった』と小さく応じる声に、ほんの少しだけ安心する。
「じゃあ、もう切るね。あんまり長く喋っていると休憩時間終わっちゃうよ??」
努めて明るく振る舞うもエイミーの眩暈は治らなければ、フレッドへの心配も尽きなかった。