シーズ・ソー・ビューティフル(1)
「ネヴァー・イズ・ア・プロミス」の章最終話から一年近く経過しています。
(1)
――遡ること、約二十六年前――
枯れ木の枝によく似た細腕が玄関扉を乱暴に開け放す。止まることを知らない喚き声の音量は一段と大きくなった。室内を包んでいた暖気を冷たい外気が掻き乱していく。
枯れ木の細腕にトレーナーの襟首を掴まれると、玄関の外へと強引に引きずり出された。
「外で反省してな!」
バタン!と、背後で勢いよく扉が閉ざされた後もずっと立ち尽くしていた。
乾いた風が頬を撫で、ぷるぷると身震いする。鼻につく饐えた臭いと催した尿意から気を逸らそうと空を見上げる。
どんよりした曇天とアルフレッドの瞳は同じ色だ。瞳の色だけじゃない。太陽の光ごと覆い隠す雲は、アルフレッドの心模様ともよく似ている。
へくちっとくしゃみが一つ飛びだす。すん、と洟を啜り、寒さを誤魔化すべく足を交互に浮かせては地につける、を繰り返す。
「あれ、アルフレッド??どしたー??」
足の動きを見るのに俯いていたので、近づいてくるチェスターの気配に全く気付けなかった。声こそ出さなかったけれど、びくり、肩が大きく跳ねる。
恐る恐る顔を上げれば、精悍な顔に浮かぶ柔和な笑顔、風に乱れる蜂蜜色の長い髪が真正面に。
「ごめんごめーん!急に声掛けたからビックリしちゃったねぇ……」
皆まで言う前に、チェスターから笑顔が消えた。
「アルフレッド、その服……」
「…………」
濃いショッキングピンクの地色のトレーナーの胸元、赤×緑のタータンチェックのハートを抱えるテディベアがプリントされた部分が吐瀉物で汚れていた。
チェスターはしゃがんでアルフレッドと目線の高さを合わせると、包み込むように小さな手をそっと握った。
「怒らないし、誰にも言わないから。正直に言ってごらん??」
「……ほんとう??」
薄茶の双眸の真摯さ、大きな掌から伝わる温もり。
自分と瓜二つの顔と同じ名前だということ以外は何も知らない。実際に会ったことも見たこともない。父親と呼ぶには実態が曖昧な存在ではなく、チェスターが父親だったらどんなに良かっただろうか。口には決して出さないけれど。
「デボラさんのスカウス食べたら……、きもちわるくなったの……。ぼく、牛のお肉にがてだけど、食べなきゃ怒られるから……」
「……苦手なのに食べたはいいけど、気持ち悪くなって吐いちゃったとかー??でも、まさか、それで締め出された訳じゃ」
遠慮がちに頷けば、チェスターの笑顔が再び凍り付く。瞬時に元の笑顔に(無理矢理)戻ったけれど。
「デビー小母さんは、アルフレッドが牛肉苦手なことは知ってたのかなー??」
「わかんない」
例え知っていたとしても、『我が儘言うんじゃない!私が作ってやったものが食べられないっていうのかい?!』と叱責されるだけだ。
アビゲイルがいない時を見計らってデボラはアルフレッドにきつく当たっていた。
直接的な暴力に訴えないまでも一挙手一投足に文句を言い募り、二言目には『お前なんか生まれてこなきゃ良かったのに!お前のせいでアビーの人生はめちゃめちゃだよ!!』と激しく罵ってきた。名前に敬称をつけて呼ばせるのも、『お祖母ちゃんと呼ばれるなんて虫唾が走る!お前なんか孫とは認めていないんだから!』と。
「ま、細かいことはどうでもいいや!とりあえず汚れた服は着換えなきゃだしー……、家においで」
俯くばかりで何も言わない、言えないアルフレッドにチェスターは困惑しきりだったが、気を取り直したらしい。努めて明るい口調でアルフレッドの肩を優しく叩いた。
「デビー小母さんには俺と母さんの方からちゃんと言っておくから」
「…………」
「大丈夫、アビーには内緒にしておくし」
「!!」
幼き胸に抱く懸念をチェスターは簡単に見抜いてしまった。
アビゲイルは気付くどころか、些細な疑念や違和感の一つすら全く抱かないと言うのに。
「さ、行こっかー。いつまでも外にいたら風邪引いちゃうしねー」
冷えきった手を握る大きくて温かい掌は、言いようのない安心感を齎してくれる。
戸惑いながらも、自分が求めていたものかもしれなくて、気づかれない程度にそっと握り返した。
チェスターがアビゲイルと結婚したのは、それからしばらく後のことだった。
しかし、アビーが出て行ったことで、大きくて温かい掌に自ら進んで触れてはいけない、求めてはいけない。長らくの間、そう信じて生きていた。
(2)
ぴとりと冷たいものが額に押し当てられた。額にかかる前髪をふわふわ柔らかいものがわしゃわしゃ乱してくる。眉を顰めて目を開ければ、琥珀色の丸くて大きな瞳と視線がかち合った。
「……くすぐったいぞ、ヴィヴィアン」
知らない間にリビングで眠っていたようだ。
ソファーの背にもたせかけていた頭を起こし、ヴィヴィアンを抱き上げて座面へと下ろす。緩慢な動きで顔を二、三度擦る間にヴィヴィアンはソファーを飛び降り、リビングの隅に設置したキャットタワーに向かって駆けだした。トントントン!と一足飛びで頂上まで駆け上り、得意げな顔で鎮座する姿が可笑しくてつい噴きだしてしまう。
動物は特に好きでも嫌いでもないが、ヴィヴィアンに関しては生活を共にする内に情が移り、飼い主程ではなくともまぁまぁ可愛がっている、つもりだ。そのヴィヴィアンのお蔭で嫌な夢から覚めた。キャットタワーを見上げながら、小さく、ありがとうと呟く。
室内を照らすLED照明が黒い被毛を輝かせる中、ヴィヴィアンはふわぁああと大きな欠伸をした。彼女自身は深く考えず、気分でフレッドにちょっかいを出しただけだろうが。
リビングと続きになったキッチンから煮込み料理の匂いが漂ってくる。
うたた寝している間にエイミーが夕食の準備を始めたようで、急いでキッチンへ向かう。
「何か手伝うことはあるか??」
テーブルを間に挟んだ位置から、コンロの前に立つエイミーに呼び掛ける。
「うーん、料理はもうすぐできるしなぁ。じゃあ、食器を並べてくれる??」
焦げつかないよう、レードルで鍋をかき回すエイミーの指示に従い、後ろの食器棚から出した皿、スプーン等をテーブルに並べる。その間にも鍋から漂う匂いも濃度を増していく。
「この匂いはもしかして……」
「スカウスだよ。店の常連さんからレシピ教えてもらったの」
ウスターソースとコンソメが混じり合った匂いは本来食欲をそそられるだろう。だが、フレッドは先程見た夢を思い出し、胃の腑から込み上げるものをぐっと堪えた。
フレッドの返事がないのが気になったのか、エイミーはレードルを鍋の中に戻し、火を止めて振り返った。
「顔色悪くない??大丈夫??」
テーブルを回ってフレッドの傍までくると、エイミーは支えるように肩に手を添えた。色違いの目が気遣わしげに覗き込んでくる。
先程の夢についてエイミーに話す訳にはいかない。
知らなかったとはいえ、幼き日のトラウマを刺激したと知れば、エイミーは必ず自分自身を責めるから。
「風邪の引き始め、かもな……。うたた寝したのが悪かったかもしれない」
「本当に??」
「嘘ついてどうするんだよ」
「もしかして……」
エイミーはバツが悪そうに徐に視線を逸らして声を落とす。
「貴方が苦手な牛肉を、スカウスに使ったと思ったから??」
「いや、それは……」
当たっている様で微妙に間違っている。
確かに、決定的に牛肉が苦手になったのはあの思い出が原因ではあるが。
言葉に詰まるフレッドを図星と捉えたのか、張りつめていたエイミーの表情が緩む。
「安心して。牛肉の代わりに羊肉を使ったから」
「……そうか……」
違う、そうじゃない――、と言いたいが、とても言いだせる雰囲気ではない。
安心させようと微笑むエイミーを前に何だか脱力してしまう。
「よかった、顔色戻ってきたね」
あんたの少しずれた発言で気が抜けたせいだ――、と言いたいが、これも言える雰囲気ではない。同時に吐き気もいつの間にか消えて、あの思い出すらもどうでもよく思えてきた。
「とりあえず、ちょっとだけでもいいから食べてみて。それで受けつけなかったら、別のもの作るよ」
「いや、そこまで気を遣わなくてもいいって。折角作ったんだし」
あの頃の自分と今の自分は違う
過去だって少しずつ乗り越えているのだから。
目の前で笑うエイミーと、互いの左手で輝く指輪がそうさせてくれるから。
スカウスはリバプール発祥の郷土料理で英国版肉じゃが的な料理です。(味付けや使用される肉は各家庭ごとに違うみたいです)デボラは「(ロンドンをモデルにした)この街」ではなく別の地方都市出身者だったのでしょうね。




