ネヴァー・イズ・ア・プロミス(7)
キッチンから食洗機の洗浄音が響いてくる。
「エイミーと会うのはいつぶりかしら、貴方が家を出てから全然会ってないから三年以上かしら」
「そうね」
リビングのL字型ソファーに座るアナイスに、エイミーは素っ気なく一言返しただけだった。
さりげなくアナイスから視線を外し、トレイで運んできた紅茶とスプーン付きシュガーボックス、菓子類を手早くローテーブルに用意すると、トレイを机上の端に置く。
数瞬迷う素振りを見せた後、仕方なさそうに目を伏せてアナイスの隣に腰掛けた。
アナイスはエイミーの戸惑いに気付いていないのか、もしくは気付いていても気に留めていないのか、「あぁ、美味しい。これはイーストインディアカンパニーの紅茶ね」などと、優雅に紅茶を飲んでいる。
見事なゴールドブロンドをサイド結びで肩から流し、高級ブランドのワンピースを着こなすアナイスの洗練された雰囲気の隣で、エイミーは気の毒な程全身をガチガチに強張らせていた。
対照的な姉妹の姿に、ソファーの端に座るフレッドは黙って眉を潜めた。
当初、姉妹に気を遣って席を外そうとしたが、「オールドマンさん……にもお話がありますから」と引き止められたのと、エイミーのアナイスに対する萎縮ぶりがやけに気になったため、彼も同席することになったのだ。
気まずい沈黙を――、少なくともエイミーとフレッドにとっては、だが――、破る言葉を言い出せないまま、壁時計の秒針の音、食洗機の音のみが絶えず響いていた。
「それにしても……、どうして引っ越したことを教えてくれなかったの??」
沈黙を破ったのは、この場の空気において場違いな程おっとりしたアナイスの声だった。
「ううん、それだけじゃないわ。堅実なタイピストの仕事を辞めて、あんな水商売の仕事に転職しただなんて……。私に相談の一つでもしてくれれば、もっとまともな仕事を一緒に探してあげたのに」
口調こそ穏やかで笑顔さえ浮かべているけれど、アナイスの言葉には棘が含まれていた。
アナイス自身に悪気はなくあくまで無意識、むしろ、心底エイミーを案じているのだろう。
しかし、悪気がないからこそ、この言葉はエイミーの胸を深く突き刺し、静かだが強い怒りを駆り立てた。
「あんな仕事だなんて……。オーナー達もお客さんも皆良い人ばかりですごく良くしてもらっているし、日々やりがいを感じられる大事な仕事なのよ。嫌な言い方しないで」
アナイスに反発するのはこれが初めてだ。
緊張で舌がもつれそうになりながら、真っ向から反論する。
反論が想定外だったアナイスは虚をつかれたのか、薄緑色の目を細かく瞬かせて口を噤んだ――、が、それも一瞬のこと。
「でも、タイピストの仕事よりもお給料は低いのでしょ??手だって……、ほら、ちょっと荒れてるじゃない。水仕事で酷使するせいよね??」
「手が荒れるのは職業病みたいなものだし、荒れているといってもそこまで気にする程ものじゃないわ。お給料だって生活していける分は充分貰っているし、アナイスに心配されることなんて何一つないわ」
「でも……」
「それよりも、今の私の住所や仕事、彼の名前をどうやって知ったの??教えてもいないことを知っているだけじゃなくて、突然家に押し掛けてくる方が余程非常識じゃない??」
互いの価値観が違う以上、この話題で対話したところで時間の無駄にしかならない。
非常識と言われ、明らかに傷ついた顔を見せるアナイスに良心が痛まないでもないが、彼女の「善意」によって今の生活を邪魔されたくなかった。
「バーで働く貴女の写真を顔本で見たの」
「顔本で??」
確かにエイミーは顔本に入会していて、バブーシュカのライブ情報や店での日常などを投稿している。
(本当は規約違反だが)身バレ防止のため本名で登録していないしアイコンや投稿写真含めて顔出しは一切していない。友人許可も仕事関係限定だし、公開も友人の友人までだ。
「私が通う医学部の後輩の弟がミュージシャン志望でね、後輩通して彼とも知り合いになったの。ある時、たまたま彼の顔本を覗いたら、『今夜のライブでお世話になったバブーシュカのマスターと女性スタッフさんとのスリーショット!』っていう、貴女が写っている写真が投稿されていて」
驚いたアナイスはすぐさまエイミーに連絡したが、電話も繋がらなければメールも届かない。
そのライブバーに足を運ぼうかと思ったもののいまいち勇気が持てなかった結果、探偵を雇ってエイミーの居所と現状を調べたという。
「ちょっとお金と時間は掛かったけど、家を出てからのエイミーがどういう生活送ってきたのか、詳しく知ることができて良かったわ。それにミステリー小説の依頼人になった気分で楽しかったし!そう言えば、エイミーってシャーロック・ホームズやポワロのシリーズが好きだったじゃない??私は赤毛のアンの方が好きであんまり興味なかったけど……、あ、エイミーは私とは反対に赤毛のアンが好きじゃなかったような……。まぁ、でも、これをきっかけにホームズやポワロをちゃんと読んでみようかしら」
エイミーが赤毛のアンを嫌いになったのは、不登校の時、「アンと同じ赤毛」を理由に「アンみたいにもっと明るく前向きにならなきゃ!」とアナイスが何かと引き合いに出してきたせいでもあるのだけど。
それよりも、探偵を雇ってまで自分の現状と居所を知ろうとするアナイスに、エイミーは恐怖心を抱き始めていた。
内心で震え上がるエイミーに構わず、アナイスはエイミーがタイピストの仕事を辞めた理由もブノワにストーカーされていたことまでも調べていたことを滔々と語って聞かせてくる。
「エイミーは大人しくて人が好いから、変な人に付け込まれるのよ??あぁ、家を出るって言った時やっぱり反対すればよかった!そしたら、危ない目に遭わずに済んだのに……」
「でも、全部解決したし大切なパートナーがいるから!」
「パートナーねぇ……」
アナイスは小首を傾げると、今度はフレッドの方へと視線と共に向き直った。
「あぁ、ずっと話から置き去りにしていてごめんなさいね」
「いえ、僕のことはお構いなく……」
「私からもオールドマンさんにお礼を言わなければと思っていたのです。姉を、エイミーを変質者から守ってくださってありがとうございます。先程、姉にも話しましたが、姉の現状を知るために貴方のことも調べさせてもらいました」
「……そうですか」
平静を装いつつ、フレッドが纏う空気に緊張と警戒が滲みだす。
全く気付く由もないアナイスと併せてエイミーは両者の動向をハラハラと見守っていた。
「ご両親は業界で名の知れた美容師だそうで。でも、貴方は美容師の道は進まず、ロウワーなのにハイクラスでも難関と言われるかの大学に進学されて。真面目で誠実な人柄だけじゃなくて、努力家で向学心が高い方なのですね」
「いえ、希望する職種に就くのに必要な勉強するためには、あの大学へ進学するのが一番良かっただけのことです」
「ただ、そのお仕事ですが……。失礼ですが、男性司書だとそれ程お給料も高くないのでは??実際、持家ではなくて賃貸にお住まいなのはそういう理由じゃ……」
「ちょっとアナイス……、それはいくら何でも失礼な質問よ……??」
「失礼なのは承知も上よ。でも、結婚を前提でのお付き合いなんでしょ??金銭面で貴女が苦労するようなら……」
「アナイスさんのご心配は理解できます。彼女……、エイミーさんと交際する以前は気楽な独り身でしたから賃貸でも構わないと思っていました。ですが、将来的には家を買うつもりでいますし、それでも生活していくのに困窮するようなことにはなりませんからご安心ください」
憤るエイミーを制し、フレッドは怖いくらい冷静な態度でアナイスの不躾な質問に丁寧に答えた。
しかし、アナイスは臆することなく、まだ洗浄が終わらない食洗機の音が聞こえてくるキッチンをちらりと見やり、更なる質問をぶつけていく。
「結婚後もエイミーに家事をさせる気ではないですよね??あなたの生家と違って、私達の生家では家政婦に家事を任せていましたけど……」
「アナイス、いい加減にして!貴女に私達の生活をそこまで干渉される筋合いはないし、貴女の価値観を押し付けてこないで!!」
「押し付けだなんて……、私はただ、エイミーがこの人と結婚することで苦労して欲しくないから言ってるだけよ??」
「苦労って何よ??貴女に私達の何が分かるというの??」
「何って……、だって……、同じ中流でもミドルとロウワ―じゃ色々違ってくるじゃない。それに……、オールドマンさんの生家は複雑で問題も多そうだから……、不登校になるくらい打たれ弱いエイミーが本当にやっていけるのか、私、すごく、すごく心配なのよ……」
アナイスは何故自分がエイミーに責められるのか、本気で理解できていないようだった。
身を竦めて弱々しげに眉尻を下げて涙ぐむ姿に、まるで自分の方が彼女を苛めている気分に陥り、罪悪感が込み上げてくる。
その一方で、これまでに溜まりに溜まったアナイスへの鬱憤が今にも爆発しかけていた。
「ねぇ、アナイス。今の私と昔の私、どっちが幸せだと思う??」
「え??」
「もしも、今の私を見ても幸せそうに見えなかったとしたら……、貴女の頭は飾り物で目は綺麗なだけのガラス玉でしかないわ」
「エイミー、それは……、さすがに言い過ぎじゃないか」
「これくらい言わなきゃ分かってくれないもの。貴方を値踏みしてくるのも、失礼な物言いも到底許せるものじゃない」
なぜ、フレッドは自分を窘めるのだろうか。
自分に対しても彼自身に対しても、アナイスの数々の発言の方が余程酷いものだというのに。
アナイスのみならずフレッドにも苛立つせいか、エイミーの心も言葉も益々ささくれだっていく。
「私の幸せはアナイスに決めて貰わなくて結構よ。自分の幸せは自分で決めるから」
赤毛のアン好きな方ごめんなさい。




