ネヴァー・イズ・ア・プロミス(6)
(1)
その日、冷たい霧雨が半日以上降り続いていた。
月曜日の朝はいつもより遅い時間に起床する。
日曜の夜に床で肌を重ねてから眠りにつき、昼に近づいた頃ベッドから抜け出す。それから目覚めの紅茶を飲み、ゆっくりブランチを食べる。
年末から続いていた慌ただしさも、新年を迎えて二週間以上経た今では落ち着き、習慣化された日常に戻りつつあった。
エイミーは作ったばかりのエッグベネディクトの皿を二つ、リビングのテーブルに運んでいた。
焼き立てのイングリッシュマフィンに鎮座するのはスモークサーモン、とろとろに溶けそうなポーチドエッグ、オランデーズソースのオレンジ色とパセリのグリーンが彩りを添えている。
オールドマン家の男性達はエッグベネディクトが好物で、フレッドは特にスモークサーモンを添えるのが好きだとジルやシャーロットに教えてもらったのだ。
実は年末に一度作ってみたものの思うように作れず、新年に再びオールドマン家に訪問した際ジルにコツを教えてもらい、今回二度目の挑戦で納得の出来映えに。
エイミーが皿を置くのに合わせてフレッドがテーブルにウォーターピッチャーを置き、ナイフやフォーク、グラスを並べる。
食事の準備が全て整うと二人は席に着いた。
「……そんなにじっと見つめられると食べ辛いものが」
「へ??え、あ、ごめん!」
「いいから早く食べろよ」
感想を気にする余り、無意識に凝視していたらしい。
間の抜けた声を発して狼狽えるエイミーに呆れながら、フレッドは慎重にナイフを動かした。
「この前作ったのより美味い」
「……本当??」
「嘘言ってどうするんだよ、だから早く食べろって。冷めるぞ」
「あ、う、うん、そうだね……」
美味いの一言に安心したのと、早く食べろと二度も促されたのとで、エイミーはようやくナイフとフォークを手にする。
お金を出せば美味しいものは簡単に手に入るが、自分の食べたいもの、好みの味は自分で作れた方がいい
確かに毎日手の込んだ料理を作るのは面倒くさいし、普段は生活時間帯が違うので互いに勝手に適当な食事を摂ることも多い。
ただ、確実に二人が揃って食事できる月曜の昼はちょっとだけ張り切ってしまう。
外食する時もあるけれど、共に家でまったり過ごすのが嫌いじゃないし、寒い冬の時期は外に出ること自体が億劫である。
エイミーがバブーシュカに出勤する時間まで、一緒にYouTubeで共通の好きなバンドのライブ動画か、インターネット配信の映画を観るか――、特に何をするでもなく、ひたすらぼーっと寛ぐのも案外好きだった。
しかし、そんな穏やかな昼下がりは、食事後程なくして終わりを迎えることになる。
使用した食器類を食洗機にセットし、洗浄ボタンを押した直後、突然インターホンが鳴らされた。
そして、インターホンから流れてきた声を聞いた瞬間、危うくエイミーは悲鳴を上げそうになった。
寸でのところで悲鳴を飲み込み、玄関先で声の主と応対を続けるフレッドの背中に恐る恐る視線を送る。
エイミーの視線に気付いたフレッドは冷静に応対しながらも、キッチンで呆然と佇む彼女をちらちらと振り返った。
明らかに困惑気味のフレッドの傍へ、足音を立てないように一歩、二歩……、そろそろと静かに歩み寄っていく。
「あんたの双子の妹だと名乗っているが……、本当に妹で合っているか??」
インターホンを通して声が漏れないよう玄関扉から少し離れ、小声で尋ねてくるフレッドに無言で首肯する。
「うちに訪問すること、事前に連絡は……」
この質問にはゆっくりと首を振ってみせる。
ブノワの件がきっかけでスマートフォンの番号もメールアドレスも随分前に変更している。
変更後の連絡先をアナイスには報せていないので、彼女の方からエイミーに連絡がくることはまず有り得ない。
両親との確執は打ち明けたものの、アナイスに抱く複雑な感情についてまではフレッドに打ち明けていない。
エイミーがアナイスへの嫉妬や劣等感を勝手に拗らせているだけ、と、フレッドに指摘されるのが怖くて言えないでいるのだ。
「生憎、外出中でまだ帰ってきていない、とでも伝えよう、か……??」
事情を知らないなりに、エイミーの顔色の悪さ、ひどく怯えた様子に感じるものがあったのだろう。
フレッドは宥めるような口調で三度問いかける。
『うん、そうしてもらえるかな』
居留守で通す方向に持っていこうとしたが、言葉が喉元で引っ掛かった。
あのクリスマスの日、オールドマン家のキッチンでジルと交わした会話の数々が脳裏に浮かび上がってきたのだ。
(2)
「悪かったわね」
「え??」
人数分用意したティーカップを一つ一つ手に取っては電気ポットの湯を注いでいると、背中越しに謝罪の声が届いた。
声につられて振り返れば、コンロの前に立つジルもまたこちらを振り返っていた。
「立ち入ったこと聞かれてたみたいだけど、あの子に決して悪気はないから」
「ええ、分かっていますし、全然気にしていませんよ」
「そう……、ならいいけど。うちは家族が多いし何かと騒がしいから、気疲れしてないかも少し気になっていたのよ」
「大丈夫です。職場もですけど、こういう和気藹々とした明るい雰囲気が好きなんです、私。それに、皆さんすごく優しくて、私も家族の輪の中に入れてくれますし、実家とは大違い……」
慌てて口を噤むと、見計らったかのようにコンロにかけたケトルがシューシュー音を立てる。
吹き出し口から白く細い湯気が立ち上りだす。
「ごめんなさい、今のは忘れてください」
「やっぱり、こういうのは繰り返されるものかしらね」
「え……??」
カップの中の湯と共に先程の発言も流してしまおう。
そう思いながら、カップを温めていた湯を次々と捨てていると再びジルの言葉が降ってきた。
思わず手を止め、今度は隣に並ぶジルをまじまじと見上げる。
元モデルというだけに真っ直ぐに伸びた背筋、出産を経た後も余り変わっていないスタイルの良さから実年齢よりもずっと若く見える。
見上げた先の、きつく吊り上がった薄青の瞳に僅かばかりの憂いがちらついていた。
「あぁ、私が初めてこの家に来た時にね、お義母さんから聞かされたのよ。『この家に集まってくる子達は、揃いも揃って家庭不和な環境で育ってきた子ばかり』って。まぁ、この家自体が色々と複雑な事情で成り立っているから、類は何とかじゃないけど自然と集まってしまうんだろうね」
「すみません」
「あぁ、違うよ」
ケトルを手に、ジルは後ろのテーブルへ。
あらかじめ茶葉を入れておいたティーポットに、沸かし立ての湯を注ぎ入れながらジルは言葉を続ける。
「ちょっと言い方が悪かったかも。悪い意味で言った訳じゃないよ。砂時計ひっくり返してもらえる??」
「はい」
言われた通り、机上にティーポットと並ぶ砂時計を上下逆さまに置き直す。
「ただ、この家がエイミーさんにとって居心地の良い場所であってくれたらいい、って思っただけ……、昔の私の時みたいに」
ケトルをコンロに戻し、砂時計を横目にしつつジルはエイミーに向き直った。
向き合う相手が長身かつ迫力ある美人のせいか一瞬身構えたものの、ジルがふっと口元を緩めたお蔭でエイミーの緊張も抜けていく。
「エイミーさんを見ていると昔の自分を思い出すのよ。私もあんまり家庭環境良くなくて、両親とも不仲だったし。……と言っても、斜に構えた一匹狼気取りの捻くれ者だった私と違って、貴女は素直で気立ての良い子だから、一緒にしたらフレッドに叱られそうだけどね」
「あは……、でもちょっと意外です。えっと……」
「ジルでいいよ。『お義母さん』とはまだ呼びにくいでしょ??」
「あ、はい、ありがとうございます……、えっと、ジル、さんと、私が似ているだなんて」
「似ているというか……、そうね、昔の自分を見ているようで放っておけないというか……。あぁ、私もこの家のお節介気質に染まってきたみたい……」
「あはは、じゃあ……、『お節介』に少しだけ甘えてみてもいいですか??」
「どうぞ。その代わり大したことは言えないだろうから、あんまり期待はしないで」
「いいんです、ほんのちょっとだけ吐き出したいだけですから」
「わかった。でも、その前に砂時計の砂がそろそろ落ちきるから、まずはティーポットの紅茶をカップに注いで。皆のところにカップを持っていってから、ゆっくり話を聞くわ」
(3)
「……やっぱり、入れてあげて」
喉の奥から辛うじて絞り出された言葉が意外だったのか、フレッドは二度見する勢いでエイミーを見返してきた。
「今日は帰ってもらったとしても、また日を改めて家に来るかもしれないし。時間を置けば置く程、顔を合わせ辛くなるから。とりあえず家に置いてある紅茶で一番高い茶葉を出してくる。カップとソーサーも頂き物のウェッジウッドを使わなきゃ」
『家族関係を断ち切るか修復するかは、あくまでエイミーさんの問題だから私は一切口出ししない、してはいけないと思う。冷たいかもしれないけど』
『いえ、いいんです。話を聞いてもらえただけでも充分、ありがたいですから』
『でも、どちらを選ぶにせよ、今まで抱えてきた胸の内の想いは正直にぶつけた方がいい。相手の考えを変えるとか説得しようとかの期待や欲は持たずにただ想ったことを伝える。少なくとも、自分の中では何かが吹っ切れて、あとはどうしていけばいいかが自ずと見えてくる。大した事言えなくて悪いけど、私から言えることはそれだけね』
フレッドの視線に込められた意味をあえて無視し、エイミーは無理矢理唇を引き上げて笑みを形作った。
いよいよ次回、姉妹対決なるか。
エイミーとジルの会話は、「シーズ・ソー・クール(10)」でのジルとアガサの会話を一部踏襲しています。