閑話休題 女王陛下の憂鬱(後編)
(1)
「もう本当やだ!他の人より仕事早いからって私にばっかり回してきてさ!!無理だから後にしてって言ってるのに急ぎの分だけでいいからって……、やってられないわよ!!私だって自分の仕事で手一杯なの!!慣れた人にやらせた方が効率的なのは分かるけど、そんなんだから他の皆がいつまで経っても全部の仕事覚えられないんじゃない!!本当、あの上司使えないんだから!!」
横長のカウンター席、カウンター席後方に二人掛けのテーブルが三席並ぶだけのこじんまりとした空間で、アンナは艶やかな栗色の髪を振り乱してビール瓶の底をガンッ!と机上へと叩き置く。
エドとアンナはテーブル席の内の一つに座っているのだが、カウンターに座る客の何人かが彼女の大声に驚き、こちらを振り返ってきた。
店員や他の客から注意されやしないかと、エドはヒヤヒヤして大きな身体を縮ませる。
「ちょ、落ち着けって!瓶が割れる割れる!!」
「いくら仕事が好きでも押し付けられるのはイヤなのよ!!」
「はいはいはいはい、そうですね!」
『一人飲みで二軒目のバーに来たけど、もし練習終わってたら付き合ってくれない??場所は……』というメッセージを受け取り、誘いのままに来てみれば――、何のことはない、すっかりできあがったアンナから繰り出される、怒涛の愚痴の嵐を聞かされる羽目に陥るとは。
実はこれが初めてではなく、過去に何度か経験しているので大方の予想はついていたけども。
「てゆーかさ、俺よりも同じ部署にいる彼氏の方が話分かってくれるんじゃ……」
「だからぁ、何度も言うけどぉ!あれは彼氏じゃなくて同僚、どーうーりょーうー!!」
「はいはいはいはいはい、そうでしたねぇ!」
「だいたい、あいつ、最近彼女できたしー??」
「あぁ、そう……、じゃあメアリとかに……」
「メアリねー、メアリかぁー。うーん、あの子、滅多に愚痴言わないから言い辛いのよー」
そう言えば、メアリがあからさまな愚痴や弱音を吐いたり、泣いたりしたのを今まで見たことがあっただろうか。
エドの記憶の限りでは一度も見たことはない。
もしかしたら、気丈さの裏返しで人に甘えたり、時には弱音や愚痴を零したりなどが全くできない質で、そういう部分に彼女の元恋人達は寂しさや物足りなさを感じてしまったのかもしれない。
更に記憶を遡ってみると、一〇代の頃に彼女の当時の恋人を紹介された時、『彼女は僕なんかには勿体ないくらいしっかりしてるから、僕がいなくても別に平気なんじゃないかって時々思うんだよね』と、冗談っぽく言われていたような……。
「ちょっと!話聞いてる?!」
「え、ああ、聞いてるけど??アンナさんの上司がいかに無能かってことだろ??」
酔っているとはいえ不貞腐れて頬をぷくっと膨らませるところとか、とても自分より年上の女性が見せる顔とは思えない。
無防備というか面白いというか、ぎゃんぎゃん怒っていてさえ彼女のくるくると変わる表情は見ていてちっとも飽きない。
ほら、散々怒り散らしていたかと思えば、今度は風船がしぼむようにシュンと落ち込んでいくし。
「……ごめんね、わざわざ来てくれたのに愚痴ばっか言って」
「いいって、気にしない気にしない」
「聞いてくれてありがとう。……すっきりした」
「そりゃ、良かった。すっきりしたついでにさぁ、アンナさん、俺と付き合わない??」
「いいけど、明日も仕事よ??」
「いや、そうじゃなくて」
「……は??なに、その、ちょっと近所を散歩しよう、みたいな言い方は」
唐突な告白にアンナは戸惑い、困ったように笑っている。
勢いに任せて言った照れ臭さを誤魔化すべく、エドは努めて明るい口調で言葉を続けた
「えー、お互いフリーだし」
「そんな理由?!」
「あと、お互い一緒にいて楽でしょ」
「うん、まぁ、それは言える、かも……」
「理由なんてそれで充分じゃね??ま、俺は結構好きだけど」
「はい??」
「で、どうする??嫌ならちゃんと言ってよ??」
「ああ!もう!わかった!!付き合う、エドとひとまず付き合ってみるわよ!!」
半ばやけくそ状態で了承するアンナに、エドは嬉しそうに頬を綻ばせたのだった。
(2)
――一方、明けて翌日のバブーシュカにて――
仕事で慣れない靴は履いてくるものじゃない。
店で買った時や休日に試し履きした時は、特に足が痛くなることもなかったから、仕事に履いていっても問題なしと判断したのだ。
何の変哲もない、足首ストラップ付パンプスでサイズも合っている筈だが、長時間立ちっ放しゆえに足が浮腫んでくるのを失念していた。
厨房に立って料理の仕込みをしている時、注文の料理を客の元へ運ぶ時――、時間が経過するにつれ、固い革が足の腱に食い込んで皮膚が痛みだす。
店内に保管してあるバンドエイドを、皮が捲れて血が滲みだした腱に貼って応急処置を施してみたが、動く度に傷の範囲は少しずつ広がっていく。
大判サイズのバンドエイドがあれば良かったが、昼時の繁忙にドラッグストアへ買いに行く暇などない。
足の痛みを堪え、いつも通り笑顔できびきび働いていると玄関扉が開き、最近見慣れてきた人物が入店してきた。
「いらっしゃい」
「こんにちは、メアリさん」
リュシアンはメアリを見上げて挨拶を終えると、「あれ??」と小首を傾げた。
一〇代の少年と見紛う童顔にあどけない仕草は、実年齢よりもずっと幼く見せる。
彼はバブーシュカの最寄り駅付近にあるメンタルクリニックに勤務しているが、どう見繕っても社会人には見えない。(実際、彼はまだ二十二歳なので学生でも充分通る年齢ではあるが)
リュシアンの幼く可愛らしい表情に束の間気を取られていたメアリだったが、「メアリさん、もしかして今日はちょっと元気ない??」という質問に、違う意味でどきりとさせられた。
「え、何でそう思うの」
「んー……、何となく」
心理カウンセラーという職業柄、些細な表情一つで色んなことを看破されてしまうのでは、特に彼は飛び級で大学進学できる程の頭脳の持ち主だし――、などと、内心気まずく思っていると。
「まぁ、いいや。それよりも今日も『いつもの』のお願い」
「え、えぇ、わかったわ」
やっぱり考えすぎよね、と厨房に踵を返しかけた時、「あ、メアリさん」と再びリュシアンに呼びかけられた。
「え、なに」
「ちょっとだけ、そうだね……、一〇分くらいここから出てもいいかな??必ず戻ってくるからさ」
「それは構わないけど……」
「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」
入ってきて三分も経たずに出て行く、リュシアンの小さな背中を一瞥した後、とりあえず注文の料理を作るべく、メアリは厨房へと戻った。
ひょっとして忘れ物、例えば財布を忘れたのか。
見た目や若さにそぐわず、落ち着きあるしっかりした人だと思っていたが、意外にそそっかしいのだろうか。
『いつもの』シーザーサラダ、ローストビーフのサンドイッチ、ソラマメのスープを用意し、それぞれのプレートをトレーに乗せたのと同時くらいに、リュシアンはバブーシュカに戻ってきた。
「はい」
「え??」
カウンター席の真ん中、リュシアンが座る席へとトレーを運んだ時だった。
リュシアンの手からスッと大判サイズのバンドエイドの箱が差し出されたのだ。
「靴擦れの傷が拡がっていて痛そうだったから」
「……もしかして、わざわざ買ってきてくれたの」
「その足で長時間の立ち仕事はきついだろうし、痛いの我慢することに気がいってしまって、思わぬミスをしないとも限らないしね」
「……ありがとう……」
「どういたしまして」
差し出されたバンドエイドの箱を受け取ると、穏やかに微笑むリュシアンからさりげなく視線を逸らす。
他に注文された料理も作らなきゃ、と、厨房に戻りかけた時、メアリにだけ聞こえるように小さな声で彼は言った。
「辛い時は辛いって、ちゃんと言えばいいんだよ。君のことを大事に思う人なら、快く対処するはずだから」
声に引き寄せられるようにカウンター席を振り返ってみたが、リュシアンはすでに素知らぬ顔でサンドイッチにかぶりついていた。
『自分よりも背が高くて心身共に強い年上男性』にばかり惹かれてきたのに。
『自分よりも背が低くて優男の年下男性』と真逆のタイプの筈なのに、
先程とは違い、正しい意味で不覚にもどきりとさせられたのを打ち消し、メアリは逃げるように厨房の奥へ入っていった。
このやりとりがきっかけになったのかは定かでないが、後日、意外な組み合わせの交際が始まるのに、そう時間はかからなかったという――
若いっていいですね。
爆発すればいい(`・ω・´)