アバウト・ア・ガール(9)
カフェ営業時のバブーシュカの店内は女性客が大半の数を占めている。
数種類の自家製サンドイッチ、サラダ、オリジナルブレンドの紅茶、ハーブティー等、健康志向の女性が好むメニューが多く、また、菜食主義の客に合わせた特別メニューもあり、昼時は満席になることもしばしば。
だから、フレッドが休日の昼間バブーシュカに来店するのは最低でも十三時半過ぎてからと決めていたので、その日も十四時過ぎに、いつも座るカウンター席の端で遅すぎるブランチを食べていた。
メニュー表立ての隣に並ぶ、オリーブオイル、ソース、マヨネーズ、塩、イタリアンやシーザー、フレンチ等々の調味料、ドレッシング類の中から塩のボトルを選び、手元のサラダボウルに振りかける。
レタス、キュウリの緑、パブリカの赤と黄色、玉ねぎの白の中に埋もれたローストチキンの上に、粉雪のように細かな塩の白が点々と混ざっていく。
ローストチキンサラダとセットで付けられるバゲットとスープだけのブランチ、同年代の男から見れば物足りないだろうが、起きてから左程時間が経っていない分、これくらいの食事量が丁度良い。
「相変わらず食が細いわねぇ」
サラダをつつきつつバゲットを齧っていると、カウンター越しにメアリが話しかけてきた。
昼時の忙しさから解放され、店内の客もほとんど引けたことでようやくフレッドと話す余裕ができたらしい。
奥の厨房でも食器洗いや片付けがてら、アルバイトの女の子達のお喋りが聞こえてくる。
「無理して食べない訳じゃないし、体質の問題だから仕方ないだろ」
「フレッドの場合、偏食気味なのもあると思うけど」
「牛肉の脂は胃がもたれるから苦手なんだよ」
「それは単に歳のせいじゃ……」
「歳って……、お前も俺と同い年だから人のこと言えないんだが??」
普段ならここでメアリに叩かれるところだが、仕事中の今ならば睨まれるだけで終わる。
ふふんと軽く勝ち誇ってやれば、案の定メアリはムッと唇を引き結んでいた。
『プライベートで会った時に覚えときなさいよ』と、思い切り顔に書いてあるが知ったことではない。
「エイミーにもそういう意地の悪い態度取ってないでしょうね??」
「まさか、そんな訳ないだろ……って、何であの子が出てくるんだよ」
何の脈絡もなく出されたエイミーの名前に、思わず食事の手を止める。
「なに、ひょっとして動揺してる??」
「してない」
「ふーん……」
他の者ならともかく、物心つく前からフレッドと接するメアリには彼の些細な態度や表情の変化を読み取るのは容易なこと。
加えて、フレッドは嘘や誤魔化しの類が案外下手くそである。
「最近めっきり女遊びをしなくなったのは、あの子が関係あるとか??」
「は??そりゃ、週二回も特定の相手と会っているんだ。他に気を回す余裕なんてないし……」
「……まぁ、女に刺される可能性が減るなら、何でもいいけど」
「何だよそりゃ」
「私は心配してるのよ??」
「……そりゃどうも」
いくら身長を追い越し年齢を経ても、フレッドにとってメアリはいつまでたっても姉のような存在だ。
時々お節介が過ぎるけれど、彼女の包み隠さないはっきりした態度は潔くて好感が持てるし、同じく世話焼きのリュシアンとは似た者夫婦だとつくづく思う。
「で、例のストーカー男はまだエイミーに付き纏ってるの??」
「さあな」
「……さあな、って。その男から守るためにエイミーと会ってるんじゃないの??」
「勿論、そのつもりだが??」
あれから――、ブノワがエイミーに迫った雨の夜から三ヶ月近く経ったが、未だ彼が姿を見せる気配はない。
もしかしたら、フレッド達が事態を重く捉え過ぎているだけで、実はとっくにエイミーのことは諦めてくれたかもしれない。
ただ、ブノワのストーカー行為が本当に終わったのか、エイミーの身の安全は保障できるのか確証が持てないから――、というのは表向きの理由でしかない、と、先週の土曜日に痛感させられたのは記憶にも新しい。
偽装の恋人関係をずるずると続ける真の理由は、二人で過ごす時間に居心地の良さを覚えてしまったからだ。
「一体、何を考えているの??」
「あ??」
メアリの声が刺々しいものに変わっていく。
質問というより尋問されているような気分に陥り、フレッドの機嫌も傾いていく。
「本当は分かってるんじゃないの??」
「何がだよ??」
わざと遠回しな言い方をされ、フレッドの苛立ちが募り始めたタイミングで、カウンター端のレジ台と並ぶ電話機が鳴りだした。
メアリはちらりとフレッドを一瞥すると、彼の傍から離れていく。
フレッドに対するきつい口調から一転、電話応対するメアリの声は仕事用の穏やかな声に。
とりあえず不毛な口論は回避できた、とホッとしながら、冷製ポタージュを口に含んだ時だった。
「分かったわ。ゲイリーにも伝えておくから、今日はゆっくり寝てなさいね。熱が下がっても咳が出るようなら明日も休んだ方がいいと思う。あぁ、ちょうど今フレッドが来ているし、風邪薬を買って届けるよう言っておくわ、お大事に」
危うくポタージュを吹き出しそうになるのを寸でのところで堪え、口に含んだ分を慌てて飲み込む。
焦ったせいで気管支に入ってしまい、げほげほと盛大に咳き込むフレッドを戻ってきたメアリが「ちょっと、大丈夫なの??」と、心配げに見下ろした。
「……だ、だれの、せい、だと、げほげほっ、思って……、げっほ!」
「あら、聞いてたの」
「ち、がう、げっほ!きこえて、きた、げほ!聞こえてきたんだ、よ……!」
「そ、じゃあ、話は早いわね。さっきの電話はエイミーからで、風邪で寝込んでるから今日は休みます、って」
土曜日の夜、ギターケースを抱えて飛び込むように入店したフレッドを迎えたエイミーの笑顔は、いつもと変わらず元気そうだったのに。
閉店間際に入店したこと、ライブ自体に間に合わなかったことを詫びれば、「気にしないで。ライブ後にも関わらず来てくれただけも充分嬉しいし」と、声を弾ませてハイネケンを差し出してくれたのに。
その様子をやたらニヤニヤと眺めてくるゲイリーがかなりうざかったけれど。
「心配??」
あの夜のゲイリー同様、メアリの顔も心なしかにやついているような。
ここの店主達は揃って人のことを新種の玩具とでも思っているのか。
「心配していないと言ったら、嘘になるが……、だからといって、何で俺があの子に風邪薬届けに行かなきゃいけないんだよ。仕事の後にお前が届けてやれば??」
「それでもいいんだけど」
「じゃあそうしろよ」
「でも、あの子にはフレッドが行くって言っちゃったし??私よりフレッドが行った方が嬉しいんじゃないかしら」
「お前なぁ……」
言いたいことは次から次へと湧いてくるのに反し、言葉を続ける気力はどんどん失われていく。
一見揶揄っているだけに見えてメアリなりに応援しているつもりなのだろう。
だが、いくら応援されたところで、エイミーが抱える異性へのトラウマを知るフレッドは彼女との関係を進められないでいた。
下手に動けば、あのベース弾きの青年の二の舞になってしまう。
エイミーに惹かれれば惹かれる程、拒絶される恐怖もまた増長されていく。
「とにかく!この後、ちゃんとエイミーのお見舞い行ってあげてよね」
「はいはいはい、わかったわかった」
メアリの強引さにさも根負けした、と言わんばかりに、掌を振って渋々了承する。
しかし、数時間後――、メアリに従ったのは正解であり、逆に感謝する羽目になるとは、この時のフレッドは想像すらしていなかった。