アバウト・ア・ガール(2)
(1)
「いらっしゃい、久しぶりね」
肩に担ぐソフトケースを腕に抱え直して濡れ具合を確かめる青年に、エイミーは普段と変わらぬ笑顔で声を掛ける。
青年は無言で軽く頭を下げるとカウンター席ではなく、カウンター後方に並ぶ四人掛けテーブルの一席に腰を下ろした。
「今日はオレンジかグレープフルーツ、どっちのジュースにするの??」
「あ……、料金は同じだし、どっちでも……」
上着のポケットから出したハンカチで濡れたケース、自身の黒い髪、黒で統一された服を順番に拭きながら、青年はエイミーから目を逸らして答える。
青年の不自然な態度に一応は笑顔を保ちつつ、エイミーも当惑を隠しきれていない。
「あれ、久しぶりだね!近頃は顔見せないからどうしたんだろ、って気になってたよ」
「あ、あぁ、最近、色々忙しくて、ですね……」
「そっかー、そうだよなぁ、あくまで学生さんの本分は勉強だし、課題とか色々あるもんなぁ。あ、それ、俺が持ってくわ」
ゲイリーがオレンジジュースのグラスを青年の席へ運ぶのを見て、エイミーはそっと胸を撫で下ろす。
ゲイリーは単純に青年と話がしたいだけで特に気を使った訳じゃないし、彼はそもそも青年とエイミーの間の事情を知らない――、否、彼らの事情を当事者の二人以外で知っているのはフレッドだけだった。
あれはちょうど一か月程前だろうか。
その夜、フレッドは自分のバンドのライブでバブーシュカに訪れていた。
週末の夜とはいえ大抵は翌日も仕事のフレッド、ライブイベントが終了し通常営業に切り替わり次第、まだ店に残るエドやリュシアンよりも先に帰ることがほとんどである。
しかし、その夜は珍しく翌日が休みだったこともあり、閉店の二十三時まで居残っていた。
更に飲み代とチップを払いがてらゲイリーと話していたら思いの外話し込んでしまい、気付けば他の客はおろかエイミーの姿すら店内から消えていたのだ。
さすがに調子に乗り過ぎた、と慌てて店を後にする。
地下鉄の最終に間に合うだろうか、と焦っていたのに――、店を出て一分もしないところで、思いがけない理由で足止めを食らう羽目に陥ってしまった。
パブや飲食店が数多く集まる場所とはいえ、二十三時半を迎える頃には半数以上の店は閉店してしまう。
closeの札が掛かった扉、もしくは立て看板が置かれた各店の窓は消灯と共にブラインドが下げられ、等間隔に設置された常夜灯の光だけが真夜中の歩道を照らしていた。
その常夜灯の光の下で、先に帰った筈のエイミーと黒髪の青年が立ち止まっていたのだ。
二人は微妙に距離を離した状態で向かい合っていた。
よく見れば、青年は思い詰めた顔でエイミーに何事か言い募り、エイミーは俯いたままで固まっている。
この様子だけでフレッドは状況を察すると同時に、真夜中で人気が少なくとも一応は公道のど真ん中、よくやるよな、と半ば呆れていた。
あの青年はエイミーに気があるだろうとは以前から薄々感じていたし、気づいていたかどうかはともかく、エイミーも彼のことを憎からずは思っていたみたいだし。
ただ、こっちとしては地下鉄が間に合うかどうかの瀬戸際、さっさと結論出すなら出して欲しいし、出来ることなら告白現場を目撃してしまった自分に気付くことなく立ち去って欲しいものだが。
地下鉄の駅まで行くには二人の傍を通り過ぎるしかないせいで、イライラと身勝手な思いばかりが脳裏を横切っていく。
苛立ちを募らせるフレッドの存在に未だ気付かない二人――、青年が必死に想いを伝えれば伝える程、エイミーは俯かせた顔を益々下げていくばかり。
やっとのことで青年が言葉を切ると、エイミーは俯かせた顔はそのままで、小さな身体を一層縮こませて頭を深々と下げた。
一回のみならず、何度も何度も頭を深く下げるエイミーに、青年は全然気にしていないから、とでも言うように、弱々しい笑顔で両手をぶんぶん振って、後ずさるようにその場から足早に離れていく。
青年の姿が闇の中に消えていったのを確認すると、エイミーはようやく顔を上げたが、肩を落とした後ろ姿はひどく頼りなく、振った方に関わらず振られた青年以上に落ち込んでいるのは明らかだった。
そして、ここで初めて人の気配に気づいたのか、フレッドを振り返った。
全くの不可抗力だが、告白現場の一部始終を目撃してしまった気まずさ。
若い女の子に恥をかかせてしまった罪悪感で、フレッドは反射的にエイミーから目を逸らした。
「……いや、地下鉄の駅に行く途中だったんだ……。悪い、見るつもりはなかったんだ……」
「…………地下鉄??…………」
夜目でもはっきり分かるくらい、顔を真っ赤に染めてフレッドを見つめるエイミーが鸚鵡返しに呟いた直後、ハッと我に返った――、かと思いきや。
「っああぁぁぁーー!?!?」
「……夜中に叫ぶなよ……」
「いや、だって!多分、もう今からじゃ地下鉄の最終間に合わないですよ!?」
「だろうな」
「だろうなって……、ご、ごめんなさい!!私が足止めしちゃったから!!」
赤くなったり青くなったりと忙しなく百面相するエイミーに、「別にあんただけの責任じゃないし??まぁ、ナイトバスかタクシーでも捕まえるか、捕まらなきゃ歩いて帰ってもいいけど。どうせ明日は休みだし」と、ため息をついてみせる。
「う……、ホント、ごめんなさい……」
「もういいって。とりあえず、あんな場面見ちまった詫びも兼ねて送ってく。ここから近いんだろ??」
「いや、それは」
「落ち込んだ状態だと普段よりも注意力とか落ちるし、そういう時に限って悪いものを呼び込みやすい」
「悪いもの……」
「あ??まさかと思うが、俺が送り狼になるとでも」
「思ってない!思ってない!!」
「いいか??あんたに何かしようものなら、俺は貴重な友人を少なくとも二人は失うことになるし、バブーシュカを出禁になっちまうかもしれん。そんな危険、誰が侵すか」
こんなにムキになる必要はあるのかと思う程に弁解がましい発言だが、変に疑われるのも本意ではない。
色違いの目を丸めてぽかんとフレッドを見上げていたエイミーは、もう耐え切れないと吹き出した。
「なぜそこで笑う……、笑うなよ」
「え、だって。フレッドさんでも必死になることあるんだぁって……」
目尻に涙を浮かべてくすくすと笑いだしたエイミーに憮然としつつ、笑顔が戻ったことに少しだけ、ほんの少しだけフレッドはホッとした。
(2)
『…………昔、初めて付き合った人に嫌な目に遭わされて。今思えば、それまで同じ年頃の男の子に優しくされたことがほとんどなくて、ましてや好きだなんて言われたことが初めてだったから舞い上がってた私も馬鹿だったし、今なら、あぁ、この人はどう考えても身体目当てなんだろうな、って分かるんだけど。でも、それ以来、男の人に好意を寄せられると怖くなる……、というか、気持ち悪いって感じちゃって。例え私の方でも少なからず好意を寄せていたとしても、言われた瞬間、無理!って、なるの』
あの夜、エイミーをアパートまで送っていく道中に聞かされた打ち明け話をふと思い出し、ソフトケースから出したベースを爪弾きながらゲイリーと談笑する青年、カウンターで自分用のドリンクを作るエイミーの横顔を見比べる。
若さやほんわかした見かけによらずエイミーは酒に滅法強く、ビールや女性が好む甘いカクテルよりもブランデーやウィスキー等を好み、今もカットアイスのみのグラスにウィスキーをドボドボと注いでいる。
彼女の酒好きは周知の事実だし心配する必要はないだろうが、もしかして居心地の悪さを酒で誤魔化そうとしているかもしれない。
フレッド自身、さっきからそれとなくエイミーの姿を横目で窺う青年の視線が少々煩わしかった。
「なぁ、ゲイリー」
「お、どうしたよ」
「ベーシストが来たことだし、今いるメンツで一、二曲遊んでみないか??俺が歌とギターやるから、お前はドラム叩いてくれよ」




