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She's So ×××(改稿版)  作者: 青月クロエ
マイ・アイロン・ラング
37/93

閑話 シーズ・ソー・ラブリー(4)

 アルフレッドは、とある屋敷へ仕事に出向く母の様子がいつもとは違うととっくに気付いていた。


 元々、アビゲイルは小柄で華奢な体格に童顔も相まって、実年齢より随分と若く見える。

 特に、その家の者から出張仕事の依頼が入った時や、屋敷へ出掛けていく時は夢見がちな少女みたいに、ふわふわと浮ついた雰囲気を醸し出していた。

 それは幼い頃、自分に向かって『アルフレッドは本当のパパにそっくりだから。本当のパパのように素敵な男の人になってね』と言い聞かせる顔と同じ表情だった。

 母が、自分と「あの人」を重ね合わせて見ていることなど、物心つく頃には気付いていたし、いつも不安を感じていた。


 もしも、「あの人」が再びアビゲイルの前に現れたら??

 彼女は自分などあっさり捨てて、手の届かない場所へ行ってしまうのでは。


 アビゲイルがチェスターと結婚し、弟のマシューが生まれたことで、捨てられるかもしれない不安は取り除かれ、すっかり忘れ去っていた、はずだったのに。  

 その屋敷の夫人、つまり仕事の依頼主が急逝したとかで、アビゲイルが呼び出されることはなくなったが、アルフレッドの不安は完全に消えなかったし、残念なことに的中してしまった――










(1)


 一〇年振りの対面は、互いに初めて会うかのような、形式ばった挨拶だけで終わった。


 一〇年前と比べると、肌のキメも荒く目元の皺が目立つ上に、ひどく頬が痩せこけて老け込んでしまってはいたが、「あの人」には違いなかった。

 鳴り止まない胸の鼓動を意識しないよう、アビゲイルは必死に平静を装ってあいさつを交わす。

 本来なら出張仕事はチェスターの仕事だし、アビゲイルがこの仕事を全面的に任せて欲しいと申し出た当初、反対すらされていた。

 その反対を押し切れたのは、チェスターが店の仕事や別の出張仕事などで多忙を極めていたからだ。


 依頼主である「あの人」の妻は重い病気で余命宣告を受けたらしいが、あの人も妻本人も詳しく語らなかったので、何の病気を患っているのかは分からない。

 ただ、残りの人生を自宅で静かに、夫と共に穏やかに過ごしたいとのこと。

 あの人は妻の願いを叶えるため所属していた楽団を退団したという。

 平凡なアビゲイルと違い、あの人の妻は元来美しい人だっただろうが、仕事で会う度に顔から色が消えて痩せ衰え、日に日に弱っていく一方なのは薄々感じ取っていた。


 もしも万が一、彼女が儚くなったら――、人一倍繊細な「あの人」はショックと哀しみの余りに心労を溜め込みやしないか。


 アビゲイルにはそれだけが気掛かりで仕方なかったが、それ以上の想いを彼に抱かないよう自制しているつもりだ。

 屋敷へ出掛けるのはあくまで仕事のためであり、「あの人」と何かある訳ではないし、互いに配偶者がいる身なのだから、むしろあってはならない。

 ありがたいことに彼と屋敷内で顔を合わせる機会も少ないし、たまに遭遇しても会釈を交わす程度である。


 しかし、彼の屋敷に(正確に言うと彼の妻だが)呼ばれる度、アビゲイルの心は無意識に二十歳の頃に引き戻される。

 夜遅くに家をこっそり抜け出す感覚――、彼に会える(かもしれない)密かな楽しみで胸が躍る気持ちと、家族に隠れてこそこそと彼に会う(今は仕事という口実があるが)後ろめたさ。 

 別にやましいことなんて何もないし、ちゃんと家族を愛しているんだから――、これくらいは許して欲しい。

 どこからか湧いてくる罪悪感に見舞われる度、アビゲイルは誰に言うでもなく、そっと心中で弁解を述べていた。






(2)


 マクダウェル家に訪問し始めて一か月が過ぎた頃だろうか。

 いつものように屋敷を訪れ、いつものように仕事をし、いつものように広い玄関ホールを抜けて,扉を開こうとした時、いつのまにか背後に立っていたあの人がアビゲイルを呼び止めてきた。

「オールドマンさん」ではなく『アビゲイル』と呼び掛けられた驚きで思わず振り返る。


『あたしのこと、覚えていてくれたの……??』

『……君のことを忘れる訳ないだろう……??』


 薄灰の双眸が切なげに見つめてくる。

 一〇年前、アビゲイルの人生を一変させる程、恋焦がれて止まなかった人が今、手の届く場所に。


 でも、絶対に手を伸ばしてはいけない。

 彼にも自分にもそれぞれ伴侶がいる。

 いつものように、『お邪魔しました』と会釈し、玄関の扉を開けて出て行かなきゃ。

 今し方のやり取りなんてなかったかのように。


 頭の中で耳障りな警告音が絶えず鳴り響く。

 ほら、もうここから出て行くのよ。

 一刻も早く出て行くのよ。

 でないと――


『……アビゲイル、私を、助けてくれ……』


 アビゲイルが迷い、悩んだほんの僅かな間に距離を詰められ、気付けばあの人にきつく抱きしめられていた。


『……妻は、もうすぐ死んでしまう……』

『……そんなことっ』

 そんなことないですよ、と言おうとしたのに、あの人はアビゲイルを抱きしめる腕に更に力を込めるので、息苦しさで声一つまともに上げられない。

『妻の最後の望みのために楽団も辞めて、妻の余命も残り僅か。妻が死んだ後の私には何も残らない。何もかも空っぽになってしまう……。覚悟はしてきたつもりだった、でも、いざその時が近づいてくると、怖くて堪らないんだ……。だから、せめて、君が傍にいてくれさえしたら……』

『やっぱりダメ……!』


 このままでは流されてしまう――、アビゲイルは渾身の力を振るってあの人をどうにか押しのける。

 気分を害するかと思いきや、拒絶されたショックであの人は端正な顔を哀しげに歪めたのみ。

 そんな顔をされると、まるで自分の方に非があるように思えてしまい、罪悪感で胸が酷く痛むのと同時に、何もかも捨てて彼の傍に寄り添っていたくなってしまうじゃないか。


『……あ、あたしには……、夫と二人の息子がいますから……!!』


 そう叫んで逃げるように屋敷を後にした筈なのに。

 この数日後に彼の妻が亡くなり、これでもう会う機会はないだろう、と、残念に思いつつホッと胸を撫で下ろした筈なのに。




 あの日は一旦仕事を中抜けし、終業後にカット練習する従業員達用の夜食の買い出しに出掛けていた。

 十字路の角を左に曲がった住宅群の一番奥に位置する店より、更に奥まった場所にある住宅の外壁に沿うように、黒塗りの高級車が止まっている。

 何となく見覚えのある車のような気がして、眼鏡の奥で目を細めて確認しているところで後部座席の扉が開く。

 車から出てきた『あの人』が、縫い留められたようにその場から動けなくなったアビゲイルへと、一歩、また一歩と徐々に近づいてくる。





『きっと貴方は最愛の奥様を亡くされたショックで疲れているだけ。一時の感情に流されちゃ、ダメよ……』

『……一時の感情なんかじゃない……。私はずっと君を忘れられなかったんだ。誰よりも純粋で素直な君が本当に可愛らしくて、君といると私はとても優しい気持ちになって、その度にこのまま連れ去ってしまいたい、と一〇年前はいつも思っていたんだ」

『だけど、貴方が選んだのは亡くなられた奥様だったし、とっても大切にしていたじゃないの……」

『……確かに、私は妻を大切にはしていた。でも、それは……、君をずっと忘れられずにいることの罪悪感をひた隠すためでもあったんだよ。所詮は家同士の繋がりで決められた結婚だったし、情はあっても愛があったかは……、未だによく分からない』


 そんなのはアビゲイルだって同じだ。

 だけど、終わったことは美しい思い出として取っておくべきで蒸し返してはならない。




 ――――何故??――――



 今現在、アビゲイル自身は幸せだからだ。



 ――――幸せだって??

 ――――本当に??



 半径一㎞圏内の狭い世界で一生を過ごすこと、果たして本当に幸せなのだろうか。



『……君はかつて言っていたじゃないか。【あたしは狭い世界でしか生きることを許してもらえないし、そういう風にしか生きられない。きっとこのまま幼馴染の店で働き続け、幼馴染と結婚し、そのまま一生を終える。何てつまらない人生なんだろう。一度で良いから、自分自身で何かを選ぶことをしてみたい】と。それは私も同じなんだ。だから、私は自分自身のプライドや、他の誰かを傷つけてでも君をもう手放したくない』


 真剣な面持ちでアビゲイルを見つめながら、あの人は懇願するように細い腕を強く掴み取ると、その場に膝をついて手の甲にキスをした。

 端から見れば余りに気障すぎて、失笑ものの陳腐な行動にも関わらず、アビゲイルの中で押しとどめていた理性が見事に崩れ去っていく。



 やっぱり、あたしはこの人じゃないと――



 半ば夢心地で肩を抱かれながら、車に向かって共に歩き出す。

 後方から、誰かがアビゲイルを必死に呼ぶ声が聞こえてきたが、その声が誰のものかすら最早考えられなくなっていた。




(終)

アビゲイル視点の閑話「シーズ・ソー・ラブリー」はこれにて終了。

次回からは引き続き、現在のアルフレッドの話に戻りまして、新章「アバウト・ア・ガール」を開始します。

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