シーズ・ソー・クール(2)
(1)
袖や首回りが伸び切った長袖Tシャツ、色落ちの激しいハーフ丈のパンツ。
目を凝らすとソースの染み跡がスカートに付着したワンピース。
それらを箱いっぱいに詰め込んだ段ボールを酷く醒めた目で見下ろしていた。
「これさ、あたし達からジルちゃんへのプレゼント!」
「お古ばっかで悪いけど、でも、ジルちゃんに似合うかなって」
「ほら、ジルちゃんかわいいしお洒落な服着た方が絶対いいって思ったのよ!」
終業後の教室内はジルと三人の自称お友達しか残っていない。
自称お友達たちの不自然にはしゃいだ声ばかりが煩く反響し、苛立ちに拍車を掛けていく。
整然と規則的に並ぶ机と椅子、老朽化した板張りの床が斜陽の橙で暖かな色に染まる中、ジルの心の温度は下がる一方。
ぐずぐずしていたら、あそこへ足を運ぶ時間はもちろん、滞在する時間が短くなってしまう。
「……あのさ、あんた達のお古なんて別にいらないからね」
煩わしげにはっきりと断り文句を告げる。
断られるなどまるっきりの想定外だったのか、自称お友達たちはぽかんと間の抜けた顔で言葉を失ってしまった。
「悪いけど、私、ゴミ箱じゃないし。いらないもの押し付けられても迷惑だから」
机上に置かれた段ボールをちらと一瞥し、「私、行きたいとこあるから」と背中を向け、扉へと進んでいく。
「なっ……、ひどーい!」
「あたし達、ジルちゃんのこと思ってしたことなのに!」
「せめてちょっとくらい、服を見てみるくらいしてみればいいじゃない!!」
ささやかな厚意が無下にされた――、そう認識した途端、ジルの背に向けて批難の言葉が次々と投げつけられる。
いちいち言い返すのも面倒臭いので無視を決め込む。
「何よ!ちょっと可愛いからっていい気になってさ!!」
「そうよ、そうよ!!顔が良くたって、いっつもみすぼらしい格好してるくせに!!」
ぎゃあぎゃあと喧しいし騒がしい。
別に吠えたければ好きなだけ吠えていればいいけれど、とりあえず黙らせようか。
ドアノブを握りしめながら、ジルは振り返った。
無表情で、吊り上がった薄青の双眸をわざと細めて。
じとりとした鋭い視線に絡めとられた少女達は、ハッと息を飲む。
怯えたようにジルから目を逸らし、各々明後日の方向へそわそわと視線を彷徨わせた。
特に何を言うでもなく、ジルは何事もなかったかのようにドアノブを回し、教室を後にする。
長い廊下を速足で歩いていく。
モップで綺麗に掃除されているであろう廊下は歩く度にキュッキュッと小気味いい音を立てた。
音と共に廊下から大階段を駆け下り、玄関まで更に歩調を速める。
飛び出すように玄関の扉を開け、校門を抜けたところでジルは脇目も振らずに駆け出した。
校門の外で我が子が出てくるのを待つ母親、出てきた子供と仲良く手を繋ぐ親子――、毎日の通学で目にする光景をあえて見ないようにするため、もう一つは――、唯一の居場所へ向かうため、ジルはひたすら走った。
家に真っ直ぐ帰ったところで楽しいことなんてない。
帰ってくるなり母による父への愚痴を聞かされるし、最悪父もいたら顔色をいちいち窺って過ごさねばならない。
だったら、ほんのひとときの間、閉館時間の十八時になるまでは一人で、誰にも気を遣うことなく過ごしていたい。
あそこに行っていたと言えば両親は文句は言ってこない。
一分でも一秒でもいいから、早く辿り着きたい。
あそこなら誰も私を構わないし邪魔もしない。
怖いくらいひっそりと静寂に包まれた空間が恋しい。
玄関ホールの吹き抜けになった高い天井、ステンドグラスの天窓からの木漏れ日は七色。
カウンターを通り越し、見上げる程の高さを誇る年季の入った本棚。
少しだけ埃臭い古い紙の匂い。
本棚と同じく年代物であろう、アンティーク製の長机、椅子、ソファーの数々。
それら全てに囲まれ、手に取った本の世界にどっぷりと浸かる。
時折、本の返却や館内の見回る職員達が行き交うが、静かにしていれば、閉館時間さえ守ればそっとしておいてくれる。
街の図書館へ毎日通う。
ジルにとっての楽しみであり、図書館だけが彼女の居場所だった。
将来はここで働けたなら――
しかし、ジルの幼き夢が叶う事はなかった。
(2)
耳元で流れる激しいROCKミュージックは、喧騒で溢れ返る外界から意識を遮断してくれる。
地下鉄のホームで電車を待ちながら、ジルは音の洪水に一人静かに身を委ねていた。
平日の正午過ぎ、地下鉄構内には地元の大学に通う学生や営業らしきスーツ姿のビジネスマンがぽつり、ぽつりいるだけ。
ジルのように学生でもなく会社員でもない、けれど、やたらと人目を惹く風体の若い女は人気の少ない構内では否が応でも目立つ。
自身に向けられる視線を無視し、イヤホンの位置を調整するべく指先を耳元に宛がう。
指の動きに合わせ、薄ピンクに染めた長めの前髪や肩上でアシンメトリーに切り揃えられた横髪もふわふわ動く。
柔らかく軽い猫毛が動く度、短く刈り上げた後ろ髪がちらちら覗く。
薄暗い線路上におぼろげにライトの光が浮かび上がり、徐々に電車が近づいてくる。
イヤホンの位置調整が終わる頃には、赤と白の塗装が施された車体が停車していた。
ホーム同様、昼間の地下鉄車内はまばらで座席もガラガラに空いていたが、あえてジルは座らずにいた。
車体の扉と同じ赤で統一された手摺、ロングシート、ボックスシート、床の色。
他の車両よりにはない安っぽさと紙一重の高級感は本日向かっている目的地の雰囲気と似ているような。
四駅を通過、五駅目に到着したところで電車を降りる。
色褪せた煉瓦の壁面と古い石造りの階段の出入り口から地上へ出れば、通りを挟んで昔ながらのデタッチド・ヴィラやマナーハウス風の大きな家が出迎えでもするように建っていた。
初めてこの場所に訪れた時は、動じない性格のジルにしては珍しく高級住宅地の景観に圧倒されたものだ。
あれから六年を経た今では何の感慨も持たないけれど。
その高級住宅地の通りを一〇分程歩いたところで、高さが優に三メートルはあろうかと思う鉄柵に囲まれた、白亜の豪邸の前で足を止める。
鉄格子越しから垣間見える広い庭園を視界の端で捉えながら、門柱のインターホンを押す。
「ディータ、今来たけど」
『あら、ジルってば相変わらず早いわね!まだ指定した時間の三十分前よ』
「地下鉄の時間でちょうどいいのがなかったのよ」
『ま、いいわ!門のロックは今解除したから上がって頂戴』
「了解、お邪魔します」
門を開けようとインターホンから離れようとしたジルだが、ディータと呼ばれた女が続けた言葉に思わず動きを止めた。
『今日はね、チェスターくんにヘアメイクお願いしたのよー』
「……は??」
『だって彼の美容師としての腕は確かだし、それにいい男でしょ??ちなみに、貴女よりも一足早くここに来て待ってるのよ』
「……あぁ、そう。たかだか絵のモデルにヘアメイクさせる為だけに、売れっ子美容師呼び出すとかよくやるね……」
どうせ押しの強いディータが無理を言って、早く屋敷に呼びつけたのかもしれない。
彼も彼で、いつものように軽いノリで二つ返事で請け負ったのだろう。
「……ワーカホリック気味なオールドマンさん自身はともかく、助手の奥さんは」
『あぁ、アビゲイルちゃんなら今日いないわよ』
「へぇ……」
あの夫婦はセットと言っても過言でないくらい、出張仕事では必ず一緒という噂もあるのに。
ふと脳裏に過ぎった疑問に応じるように、インターホン越しのディータの声のトーンが落とされた。
『ここだけの話よ??チェスターくん、アビゲイルちゃんと別れたんですって。しかもね』
気の毒そうに潜められたディータの声音には好奇心と喜色が入り混じり、隠しきれていない。
『原因は浮気よ、う・わ・き。チェスター君じゃないわ、アビゲイルちゃんの方の浮気だって』
プロローグに少し繋がってきました。