シーズ・ソー・クール(23)
(1)
クリエイターズショー開催から十日余りが過ぎた――
その日のジルは終日休みで、ひたすらベッドの上でだらだらと寝転がっていた。
正午はとっくに過ぎていて、枕元の置き時計の針は十四時を差している。
明日からの仕事は帰宅時間が予測できないので、今日の内に食糧品の買い出しに行かなければ、当分の間水のみで過ごす羽目になってしまう――が、外出どころか着替えすらも億劫だ。
しかし、汗ばんだ肌や髪がベタついて気持ち悪いのもまた事実だし、それと、買い出しの他にポストに投函したい書類が――。
書類の投函を思い出した途端、ハッとなったジルはベッドからすぐさま起き上がった。
すると、ジルが起きるのを見計らったかのように電話が鳴りだした。
呼び出し音に急き立てられ、仕方なくベッドから降りてナンバーディスプレイに表示された番号を確認する。
「……ハロー??」
『…………』
「お母さんでしょ??」
無視されるのを承知でかけてきたのか、もしくは冷たく対応されるか。
何らかの覚悟を持って電話してきたらしく、受話器越しに小さく息を飲む音がした。
『……ハ、ハロー……』
「……うん、何??」
『……じ、実はね、この間……、あんたが出てるファッションショーを、お、お父さんと、観に行ってきたわ……』
「……そう、ありがと……」
やはり見間違いなんじゃない、確かに、あれは二人だったのだ。
『お、お父さんとお母さん、ただ、ただ、吃驚しちゃった……』
「……うん、普段と違って化粧は濃いし、衣装も派手だからね」
『違うの、そうじゃなくて……』
「じゃ、何??」
数瞬の沈黙が降りる。
受話器越しから大きく息を吐き出す音。
『あんたがまともに笑った顔を見たの、初めてだったから』
「…………」
『吃驚しただけじゃなくて、ショック、だった……』
「…………何で??」
『あんたが、あんな風に笑えるなんて……、お父さんもお母さんも、今まで全然知らなかったから』
「…………」
『……ごめんね……』
「…………」
『あんたが私達の前では難しい顔しか見せないのは、私とお父さんのせいだったんだって……、やっと……、分かっ』
「……もういいよ」
『ジル』
「後悔してるんだったらさ……、頑張ってよ。今までの【夫婦】や【家族】関係を変えるために、頑張ってみせてよ。せめて、私が二人の前でも笑えるくらいになるまでは」
『…………』
「正直、私の中でまだ二人共許しきれないし、許しちゃいけないと思ってる。でも、私も……、もうちょっとだけ……、歩み寄る努力するから」
受話器越しから嗚咽が漏れてくる。
慰めるべきか、一瞬迷ったが――
「ごめん、話が終わったならもう切るね。……近々家に寄るからさ、その時にまたゆっくり話そう??できれば、お父さんも一緒に」
言葉になりきらない言葉でまだ話そうとする母を遮り、ジルは強引に電話を切った。
すぐにかけ直してくるかも、と思ったが、電話が再び鳴ることはなかった。
受話器を元に戻すとジルは浴室へ行き、シャワーを浴びた。
一〇分程後にタオルで髪を拭きながら浴室から出てくると、今度は玄関のインターホンが鳴らされた。
今、ドアを開けられる状態じゃないんだけど、と、軽く舌打ちすると、タオルを首に掛けて渋々玄関の扉を開ける。
開いた扉の先にはチェスターが立っていた。
まだ濡れたままの髪、ほんのり上気した頬――、風呂上りのジルの姿に、見てはいけないものを見てしまったかのように、チェスターは気まずそうに視線を泳がせた。
「……何しに来たんですか」
「ジルさんに話したいことがあってですね……」
「話したい事??」
「あぁ、でも、ちょっと間が悪かったみたいだし、また今度でー……」
そう言ってチェスターは立ち去ろうとしたが、ジルはシャツの袖口を掴んで引き止めていた。
驚いて目を丸くするチェスターに半ば呆れつつ、「あと一〇分。一〇分だけ待てるなら、話を聞くだけ聞きますけど」と告げた。
(2)
約束通り一〇分後、身支度を整えたジルは、玄関前の外廊下で待っていたチェスターと共にアパートを後にした。
立ち話も何だから部屋に上がれというジルに、チェスターが頑なに拒否したからだ。
とりあえずアパートの近くのカフェにでも行こうかと思ったが、喫煙席は屋外のテラス席、多くの通行人が行き交う中で込み入った話はし辛い。
考えた結果、アパートから少し距離はあるけれど、図書館に隣接する例の公園に向かうことにした。
あそこであれば、人気は少ないし灰皿スタンドもあるからだ。
『今日は休みだから時間はたっぷりある』とチェスターも快諾してくれたので、散歩も兼ねて二人連れ立って歩き出す。
公園へ向かう途中で見つけたポストに、書類の封筒を投函するのも忘れなかった。
「……で、話って何ですか??」
奥の木陰のベンチに腰掛け、ジルはやや不機嫌を装って煙草に火を点けた。
同じく、隣に座ったチェスターも煙草に火を点けていた。
「まずは……、母がジルさんに言ったことや俺が事実を隠していたことを謝りたくてですねー……」
「あぁ……、別に……、もう、気にしてませんよ」
半分は本当だが、もう半分は――、嘘だ。
アガサが先走ってしまったことは、今ではもう気にしていないのも本当だが――
「誰だって他人に、例え親しい人や家族にだって言えないことの一つや二つあるんじゃないですか。逆に、私がそれを知ってしまったことの方が悪いな、と思ってるくらいですけど」
「あぁ、まぁ……、でも、結局、人に言えないことはするもんじゃない、と……、身に染みましたけどね」
チェスターは煙草を灰皿に押し付けると、改まった顔付きでジルと向き合った。
「実は……、貴女のところへ行く前……、アビーに……、アビゲイルと会ってきたんです……。あいつには今、生まれたばかりの娘がいるらしくて……、勿論、俺じゃなくてあっちの子で――」
「………………」
「やり方はともかくとして、あいつが自分なりに幸せ掴んだんだって、ようやく悟ったんです。だから、離婚届にサインを」
「…………バッッッッカじゃないの?!何格好つけてんのよ!!貴方、いつもいつも人の心配ばっかりして!少しは自分の気持ちに正直になりなさいよ!!」
気付くとジルはチェスターを全力で罵倒していた。
彼を責めても仕方ないだろう、と冷静に諭す自分がいる一方、それ以上に抱えて続けていた思いをぶちまけてしまいたい自分が上回っていた。
「本当は、奥さんにだって言いたいことがもっと沢山あるんじゃないの?!我慢ばかりしてないで、文句の一つでも言えば良かったじゃない!たまには誰かを傷付けたっていいじゃない!!」
頭の中がグチャグチャになりすぎて、自分でも何を言っているのか、もう訳が分からない。
チェスターは唖然としたまま言い返すことができないでいたが、ジルの勢いが一旦止まると軽く咳払いし、重い口を開いた。
「……会う前は、あいつに文句の一つでも言ってやろうかと思ったけど……、……やめた。あいつの幸せそうな顔を曇らせたくなかったんですよ」
「…………どこまでお人好しなのよ…………」
「我ながら、大馬鹿者だとは思いますよー??でも、これが俺の性分なんでねぇ」
肩を竦めてみせるチェスターの顔は憑き物が落ちたようにすっきりしている、ように見える。
一年以上掛かってようやく、チェスターはアビゲイルを待つことを止め、自分の気持ちに見切りをつけることにしたのだ。
「……そう。じゃあ、とっとと新しい相手探したら。貴方ならダースで出来るんじゃない??」
「そんな体力と精神力と経済力がある訳ないでしょうー??一人で充分ですって」
「貴方は何でもかんでも抱え込もうとするから、一人で支えるのは苦労しそうだもの」
「じゃあ、貴女が支えてくださいよ」
まるで軽い冗談を言うように、下手したら聞き流してしまうような感覚で、確かにチェスターはジルに告げた。
「冗談は抜きにして」
「…………」
「今日、バツが付いたばかりで切り替わりが早すぎるでしょうけど」
「………………」
「俺は真剣に……」
「バッカじゃないの?!」
チェスターが言葉を重ねるごとに俯いていく顔を、ジルは無理矢理勢い良く上げた。
「何、無理してんのよ。まだ奥さんのこと、完全に吹っ切れてない癖に」
ジルはチェスターをきつく睨みながら、日の光に透けて輝く蜂蜜色の髪を一房掴み、軽く引っ張り上げる。
思いの外力が強かったようで、チェスターは痛みで鼻先を顰めた。
「奥さんのこと、引きずりたければ一生引きずっていてもいいわよ。髪だって、一生長いままでも構わない。……私で良ければ、そんな未練がましい貴方ごと引き受けてやるわよ。……でも、今すぐはダメ。少しだけ、待っていて欲しい」
「待つ??」
ここで何かを思い出し、チェスターは、あぁ……、と、納得の声を上げる。
「専属モデルの誘いを断ってでもやりたいこと、のため??」
あのデザイナー氏の誘いを、ジルはその場ではっきり断っていた。
『モデルの他にやりたいことを見つけたから』と――
「もしかして、さっきポストに投函した手紙が関係ある――とか」
チェスターの問いに、ジルは無言で頷く。
「……始めは、ショーの役に立つために何となく勉強し始めただけだったけど……、本格的にヘアメイクの勉強をしたくなってきたのよ。そろそろ、何か手に職つけて、別の生き方をしたいって思っていたし……、専門の学校通うために資料取り寄せようかなって」
「なるほどねぇー」
ジルは掴んでいた髪を放してチェスターからぷいっと顔を逸らした。
「いいんじゃない??ジルさん、まだ若いんだし、色んなことに挑戦してみれば??俺、こう見えても気はかなり長いから、待てと言われればいくらでも待ちますけどー??……と、いうか、むしろ俺みたいなオッサン、しかもバツ持ち、二人のコブツキ、複雑な血縁関係有りで本当にいいわけ……」
「それでも構わないから待てって言ってるでしょ」
「……はい、すみません……」
物凄い形相で睨んでくるジルにチェスターは首を竦めたが、すぐに、もう我慢できないとばかりに吹き出した。
「……ジルさん、やっぱり格好いいですよねぇ。俺には勿体ないくらいだ」
遂に、声を上げて笑い出したチェスターを睨み続けながらも、これからはこういう笑顔が増えて欲しい――、ジルは密かにそう願ったのだった。
これにてジルが主人公の「シーズ・ソー・クール」の章は完結しました。
閑話休題一話を挟んで次回から、フレッドが主人公の第二部がスタートします。




