シーズ・ソー・クール(15)
(1)
ジルがオールドマン家に訪問するのは決まって夕方だった。
午前や昼過ぎの時間帯はアガサの友人が家に遊びに来ていることが多い。
だから、今日とて一旦アパートに戻り、先客が帰る頃合いを見計らった上で立ち寄ったのだが――
「あぁ、こんにちは!」
「…………」
インターホンを押してから数十秒後。
開いた扉からジルを出迎えたのは、アガサではなくチェスターであった。
「イヤだなぁ、驚いた顔しないでくださいよー」
「いえ、そういうつもりは……」
「またまたー、営業日の筈なのに何で家にいるのって言いたげですよ??」
脳裏を掠めた疑問を見抜かれ、チェスターからさりげなく視線を逸らす。
そんなに分かり易く顔に出ていたのだろうか。
ジルの当惑をよそに、チェスターは「どうぞー」と中へ入るよう手招きした。
促されるまま、小さく「お邪魔します」と告げて開け放された扉を潜る。
「母は今、洗濯物を取り込みに二階に行ってるんで、リビングで待っててもらえます??」
ジルの前に進み出て、リビングへと案内するチェスターの笑顔と声に、僅かながらに疲れが滲んでいるような。
蜂蜜色の髪も下ろしっぱなしで寝ぐせらしき跡が残っているし、シャツもパンツもあちこち皺が寄っている。
「あの」
「ん??」
『もしかして、寝てましたか??』
喉まで出掛ったが、実際に口には出さなかった。
「あ、そういや、リビングに先客いますけど、気にしないでくださいね」
「え」
「あぁ、大丈夫ですよ、ジルさんもよく知ってる子だから」
リビングの扉前に来たところで、チェスターは唇に指を押し当てながらジルを振り返る。
悪戯めいた子供っぽい笑みの意味するところがいまいち解らない。
軽く眉を寄せれば、もう少し扉の傍に寄って、と目配せされた。
訳が分からないなりに、チェスター同様扉に張り付いてみる。
どうでもいいけれど、ジルの肩がチェスターの腕に、微妙に触れているのが気になって仕方がない。
近すぎる距離感に戸惑っていると、チェスターがそうっと扉を開ける。
「なぁなぁ、フレッド、この問題教えてくれ」
「あ??自分で頑張って解けよ。俺は自分の宿題で手一杯だ」
「じゃあ、それ解いてからでいいやー」
「あのなぁ。エドの学校の方が俺のところより授業内容進んでるんだぜ??俺が解けるかどうかは知らないぞ??」
「大丈夫だろ。お前、頭良いし」
「そういうことじゃない」
室内から漏れ聞こえてくる『先客』達の話し声。
中に入るでもなく、チェスターは扉の影から様子を窺っている。
なぜ、フレッドとエドに見つからないように隠れるかは全くもって謎だけれど――、自分がいない時の子供達の姿を見ていたいのだろう。
「実はあの二人、出会った当初は相性最悪で顔合わせれば喧嘩ばっかりしてたんですよ」
「……意外。でも、確かに真逆の性格だから、分からなくもないです」
「でしょ??」
「けど、きっとあの二人はこれからも仲良くやっていけそうな気がします。エドワード君と一緒にいる時のフレッド君、嫌そうにしている割に楽しそうに見えるから」
「ジルさんもそう思うんですね」
ジルの言葉にチェスターの笑みは益々深まっていく。
単に、思ったまでのことを口にしただけなのに、こんな風に嬉しそうに微笑まれるなんて。
互いに顔を見合わせている状態でその顔は反則だ。
気恥ずかしさから今すぐ顔を背けたいが、ここで顔を背けるのは余りに不自然且つ失礼に当たる。
「あの、中に……」
「あらあら、二人共こんなところで何しているの」
中に入らないんですか、と言い掛けたところで、洗濯籠を手に階段を下りてきたアガサの声が二人の背中に届く。
よく通るアガサの声は廊下中に響いたので、中にいるフレッド達に気付かれてしまっただろう。
いつの間にか、肩が触れ合う程近づいたチェスターとの距離は少し離れていた。
ホッとする反面、寂しいような残念なような――、もう少しだけ、あのままでいたかった、気がしないでもなかった。
「まったくもう。体調不良だった癖に、ジルさんが来た途端元気になるなんて。ホント現金ね」
「や、別にそういう訳じゃ」
「オールドマンさん、体調不良って……」
「出勤する直前に、立っていられないくらい激しい眩暈と耳鳴りに襲われたのよ。多分、持病のメニエールが発症したんだけど。少し休めば治まるから這ってでも仕事行くって言い張る割に全然治らなくて。結局、今日一日寝込んでいたのよ」
「母さん」
体調不良の原因を語るアガサと、咎めるチェスターを二、三度見比べた後、ジルは改めてチェスターを凝視する。
始めに出迎えてくれた時に感じた違和感は的外れではなかったみたいだ。
「調子が悪い時にお邪魔したりして、すみませんでした。あの、これ……」
手に提げていた、赤と黒のタータンチェック柄の紙袋をアガサに手渡す。
「知らなかったんだし、ジルさんが気にすることじゃないわ。あら、ありがとう。いつも悪いわねぇ……って、やあね!ここの紅茶、高かったんじゃないの??気を遣わなくてもいいのに……」
「いつもお世話になっていますし、アガサさんには少し甘えすぎますから、これくらいは」
「本当に気にしなくてもいいのに。人間はね、一つくらい、甘えられる場所があった方がいいのよ。そうだ!折角だから、早速この紅茶淹れるわね!」
「いえ、今日はもうお暇しようかと思います。オールドマンさんの体調も良くないみたいですし」
「僕なら全然大丈夫ですから!気にせず、どうぞゆっくりしていってください!!」
チェスターの声も表情も明るいが、取り繕った感じがどうにも否めない。
お土産は無事渡した。
また後日出直します、と言おうとした時、リビングの内側から扉が開く。
(2)
「……あのさ、いつまで部屋の前で立ち話している訳。中に入るなら入るでさっさと入れば??」
醒めた顔付きでドアノブを握るフレッドが、チェスター、アガサ、ジルへと順に視線を巡らせた。
「俺とエドがいるから入りづらかったかもだけど。でも、今からエドと一緒に俺の部屋に行くから」
フレッドの後ろでは、エドが二人分の宿題プリントや筆記用具を腕に抱えている。
宿題を教えてもらう交換条件でフレッドに持たされているのかもしれない。
「ジルさん、また会ったねぇ!おじさん、もう病気治ったの?!」
「バカ、そんな簡単に治る訳ないだろ。あくまで今日のところは症状が治まったってだけ。本当は毎日点滴打ちに病院通った方がいいくらいなのに」
フレッドは誰にともなく、はあぁ、と大きく溜め息を吐き出す。
「ほら、上行くぞ」
「ちょ、待てってば!じゃ、ジルさん、またね!!」
大人達を押しのけるように扉から離れ、廊下を歩き出すフレッドを、エドは慌てて後を追う。
有無を言わせぬフレッドの態度に大人達も少なからず圧倒され、ぽかんと小さな背中を見送った。
「ハハ……、息子に叱られちゃ世話ねぇや……」
「ほんとにねぇ、笑い事じゃないわよ。最近、出張仕事増やし過ぎだもの」
チェスターの自嘲に対し、今度はアガサが溜め息混じりに応える。
「しょうがないじゃん??出張仕事の大半はあいつが請け負ってたんだし、俺がやるしかないでしょー??」
「だからエリザ達にも回せって……」
「母さん、ジルさんの前で言い合うのはやめようか??すみませんねぇー、見苦しいところを見せてしまって」
「いえ、大丈夫ですけど……、休んでなくてもいいんですか??」
「半日寝たお蔭で大分楽になりましたよー。店の様子を見にでも行こうか、と思っていたくらい……」
「……駄目です!せめて今日だけでも、ゆっくり休んでいてください!!」
メニエール病は疲労の他に、過剰なストレスが関係するとも聞く。
彼が心身に抱える多くの負担が病と言う形で顕れているというのに。
どうして、何もかもを一人で抱え込んでは無理ばかりする??
仕事だけじゃない、別れた妻だって――、チェスターは彼女を決して憎んでいない。
己よりも他人を優先しがちゆえに自身を苦しめている、誰よりも不器用な人――、例えば、オールドマン家からアパートまでジルを送っていく道中、チェスターはやけに饒舌になる。
口数の少ないジルを気を遣っているだけかしれないが、時折、彼の弱さや普段は隠している本音を垣間見せる時があった。
特に、アビゲイルに関する事柄が最もたる例だ。
夜道を二人きりで歩く時、チェスターはジルにアビゲイルの話をよくする。
始めは別段気にもしなかったが――、近頃はアビゲイルの話題が出る度、傷口に溜まった膿のようにじゅくじゅくと嫌な疼きを感じ始めていた。
未だ彼の中に根強く存在し続けるアビゲイルの影に嫉妬心さえが湧き上がってくる。
仕事中、いつもチェスターの隣にいたアビゲイルは、ウェーブがかった栗色の長い髪と赤縁眼鏡が印象的で、加えて華奢で小柄な体格が女性というより少女のようだった。
外見のみならず、中身まで少女特有の危うさを抱えていた彼女は、チェスターの庇護欲を無意識にずっと駆り立てていたのだろう。別れた今でさえも。
しかし、ジル自身もチェスターに対し、無性に庇護欲を駆り立てられることがある。
一回り近くも年上の大人で自分など何の力にもなれないのに――
「ジルさん??」
アガサに呼びかけられ、ハッと我に返る。
しまった、と、思ったが時すでに遅し。
ジルの剣幕に、チェスターとアガサが同じ色の瞳をパチパチと瞬かせ見つめてくる。
二人の視線が突き刺さって痛いし、穴があったら入りたい……。
「……すみません……」
羞恥の余り、伏せた頭を大きな掌がポン、ポンと撫でた。
驚いて顔を上げれば、チェスターの苦笑顔が視界に入る。
「いーえ、むしろ心配させてしまったのだから、俺の方こそ謝らなきゃですよ」
「そうよ、チェスター。今日は一日大人しくなきゃ。店に顔出したところでエリザにも怒られるだけね」
「……やっぱりそう思う??」
恐る恐る尋ねたチェスターに、すかさずアガサとジルは同時に大きく首肯してみせる。
事前に打ち合わせたかのような、ぴったりと呼吸を揃えた二人の動きに、チェスターは頬を引き攣らせて絶句した。
なんて顔してるのよ、と笑うアガサにつられ、ジルもついつい噴き出してしまう。
笑っている内に、どろどろと淀んだ感情は跡形もなく消えていった。
この家に来る度に、失われた筈の素直な気持ちが蘇ってくる。
擦り傷だらけの心にじんわりと温かいものが拡がり、少しずつ癒えていく。
だが、穏やかな日々も刻々と終わりが近づきつつあった。




