シーズ・ソー・クール(11)
(1)
「何しに来たんですか」
玄関扉を閉めると、段差に腰掛けたままフレッドがこちらを振り返った。
細めた切れ長の瞳と歪めた唇は不機嫌さよりも気まずさが勝っているように見える。
「アガサさん……、あんたのおばあさんから、お茶が入ったからあんたを呼んできてって頼まれたのよ」
「ばあちゃんが??」
一定の距離を取るように玄関扉の前で佇むジルを、フレッドは訝しげに見返した――、のも束の間、ジルから顔を背けてしまう。
「わかった……けど、もう少ししたら戻るって伝えておいてください」
ジルの顔も見ず素っ気なく言い放つと、フレッドは膝に顏を埋めてまたさっきと同じ歌を歌いだした。
自分自身を延々と蔑む歌を。
ジルは扉の把手を掴んではいるが、中に戻るどころか扉を開けようともしない。
ただ、膝を抱えて小声で歌い続けるフレッドの後ろ姿を無言で見下ろしていた。
晴れていた空に雲が広がりだし、少しずつ陽射しに陰りが帯び始める。
天気までが歌の昏さに引き摺られているかのように。
「まだ何か??」
中に戻ろうとしないジルをフレッドはもう一度振り返った。
今度ははっきりと苛立ちを表情や声に滲ませて。
「一人で陰気臭い歌を歌っているのに、気にならない訳がない」
「別に深い意味なんてないし、好きな歌だから歌っている。それだけですけど」
「そんなに好きなの、この曲」
「好きだったら悪いんですか」
徐々に顔つきは険しくなっていくのに唇を尖らせているのが妙に幼い。
毛を逆立てる子猫みたいだ。
「いや、誰も悪いだなんて言ってないけど」
「確かに歌詞の内容は暗いけど、声もメロディも綺麗だし崇高ささえ感じますよ」
不貞腐れた顔して『崇高』という言葉が飛び出すとは。
大人びた言葉選びと子供じみた表情との落差、ある意味彼らしい気がする。
「でも、父さんやばあちゃんはこの歌を俺が歌うといい顔しないし、メアリとエドも暗い暗いって言うから……。歌いたくなった時はこうしてこっそり歌うしかなく……って、なんで、ギャラガーさんまで座るんですか?!」
「距離を空けて話すのが少し面倒になってきたから」
ジルはフレッドの右側、彼と同じくポーチの段差に腰を下ろした。
コンクリートの冷たさがひやり、尻から全身に伝わっていく。
晴天から曇天に変わったせいで気温も少しずつ下がってきている。
フレッドは身体を左へずらし、隣のジルと間隔を空けて座り直す。
あからさまな、と呆れたが、立ち去らない辺り本気で嫌がっている訳ではない、筈。
「私一人で戻ったら、きっとアガサさんやオールドマンさんがフレッド君のこと心配するからよ。もしかしたら、あの場の雰囲気が居づらく感じてたとか、全く楽しめていないとか」
「居づらくもなければ皆のことも好きだし、ゲームも楽しかったし。ギャラガーさんの考えすぎですね」
そっぽを向いたままで更に、ふん、と鼻を鳴らして笑われた。
生意気にも程があるのでは、と、さすがに少しカチンときた。
そんなに言うなら好きなだけここにいればいい。
だんだん心配するのが馬鹿らしくなり、段差から腰を浮かしかけ――
「……だけど、俺……。本当は……、この家にいていい人間じゃないのに、って、ふと我に返る時がある……。決して居づらい訳じゃない……、でも、どんなに楽しくても皆のことが好きでも……、心の底から、ここが自分の居場所だとは、どうしても思えなくて……」
聞き逃してしまいそうな程、小さく掠れた呟きに浮かしかけた腰を再び下ろす。
相変わらず、フレッドはジルから顔を背けているので表情は見えない。
さらさらと流れる前髪が白い額や目に当たり、俯いた顔に降りる陰を色濃くさせる。
「多分、父さんから聞いたかもしれない、けど……」
「……知ってる。あんたが、アビゲイルさんの連れ子だって。でも、私は気にし過ぎだと思う。オールドマンさん達はちゃんと家族の一員として見ているし、少なくとも今日集まった人達はフレッド君を大事にしている。あんたは自分が思うよりも周りから愛されているよ」
「……っつ!そんなことは、分かってるよ!」
フレッドは急に振り返り、泣きそうな目をしてジルを睨み据えた。
「……そうじゃないんだ、そうじゃないんだよ……!」
「……じゃあ、何なの??」
愛されている自覚があるのなら、一体何に対して苦悩するのか。
彼の口ぶりから母親に捨てられたことや複雑な家庭環境とはまた別の理由が大きそうだが――、正直な所、ジルには皆目見当つかない。
「あれ??お前、まだこの家に居座ってるのかよ?!」
突然、素っ頓狂な叫び声が頭上から降ってきたせいで、ジルの思考は遮断され、現実に引き戻された。
汚れの目立つスニーカーの先と、くたびれてよれよれになったジーンズの裾が足元の視界に入り込む。
フレッドの様子を気にする余り、叫び声を聞くまでその人物がすぐ目の前にいたことにジルは全く気付けなかった。
感傷に耽っていたフレッドも同様で――、ただし、彼の反応はジルとはまた違っていた。
見知らぬ者への警戒心からジルは鋭い視線を飛ばすが、フレッドはサッと顔を青褪めさせる。
二人の反応を、その人物――、初老に差し掛かった年頃の痩せぎすの男は面白そうに見つめていた。
(2)
「とっくにこの家から追い出されてるものかと思ってたのになぁー、まぁ、チェスターのことだから我慢して面倒見てるのかもしれんが……、よくもまぁ、平然とここで暮らし続けられるってもんだ。あの元嫁の血引いてるだけに図々しさが似たのかねぇ」
男はわざとフレッドに詰め寄って話しかけてくる。
ニタニタと嫌らしく笑って喋る度、酒と煙草のヤニ臭さが混じった息がジルの顔にまでかかり、不快さに鼻先を顰めた。
フレッドは俯ぎがちだった顔を更に俯かせ、男の言葉と口臭に黙って耐えている。
「どうせ出て行くなら、元嫁もついでにお前も一緒に連れて行けば良かったのに。お前も本当の家族と一緒に暮らした方が幸せってもんじゃないか……」
「……いい歳した大人が、それも年寄りが、子供相手に絡むんじゃないわよ」
「ん??誰だ、姉ちゃん」
「誰だはこっちの台詞。あんたこそ誰。この家と何の関係があるのよ。……例え、関係があったとしても、この子のことをとやかく言う筋合いはないんじゃないの」
フレッドの前に立ち塞がったジルを、男は頭から爪先まで舐め回すように眺めた。
値踏みじみた厭らしい視線は非常に腹立たしくも耐え難いが、これ以上フレッドを謂れなき悪意に晒す訳にもいかない。
「あぁ、もしかして!チェスターの彼女!」
「違うわ、私はこの子の……、友達」
一瞬の躊躇いの後に言った『友達』に、フレッドが僅かに身じろぎする。
「友達ぃ??んなこと言ってさぁ、このガキに近づいて後釜狙ってんじゃないのかぁ??」
「馬鹿馬鹿しい……」
にやけた赤ら顔に、呂律が回りきっていない舌足らずな喋り方。
パブで飲んで帰ってきた時の父と似通っている――、が、父よりもこの男の方がもっと下劣だ。
どう見繕ったところでアル中のろくでなしが何だって、執拗にこの家の事情に深く踏み込んでくるのか。
知りたいような、知りたくないような――、だが、どうにも強い嫌悪感には抗えそうにない。
フレッドのためにもこいつは追い払うのが最善だろう。
「姉ちゃんがこのガキの友達ってなら、教えといてやるよぉ!このガキの本当のオヤジはな……、チェスターの元嫁が出て行った原因、要はあの女の浮気相手の男なんだよ!!」
「な……」
思わず足元で一層身を固くするフレッドを二度見してしまう。
同時に、彼が苦悩する理由を瞬時に理解した、否、理解できてしまった。
「チェスターもとんだ大馬鹿野郎だよ、わざわざ嫁を奪った男のガキ育ててんだから……、ぶっ!!」
背後で、乱暴な音を立てて扉が開くと共に、男の顔面目掛けて何かが、勢い良く投げつけられた。
ちょうど面中に当たったそれはバウンドした後、男とジルの足元へと落下。
落下物は使い込まれた茶色い合成皮革の長財布だった。
驚いて玄関を振り返れば、フレッドも呆然と同じ方向に首を巡らせている。
「それ、あげるから。帰ってくんないかなぁー??」
「チェ、チェスター!」
いつも通り笑っている、笑っているが――、いつもと違い、その笑顔にジルは寒気を覚えた。
「時々俺に金せびりに来るの、母さんには内緒で渡してたけどさ。もうこれからはそういうのなしにしよっかー??っていうかさ、もう二度と家に来ないでくれる??」
「わ、わるかった、悪かったよ!な、な??絶縁だけは……」
「絶縁も何も元から俺とあんたはもう二十五年以上前から他人じゃん??今度もし家に来たら、迷うことなく警察呼ぶから覚悟しといてねー、っていうことで……。フレッドもジルさんも早く家に入って!折角の紅茶が冷めちゃうでしょー??」
言いたいことを一通りまくし立てると、チェスターは後頭部をボリボリ引っ掻きながらジルとフレッドに、中へ戻るよう促した。




