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膝の上で、歳の離れた妹がにこにこと笑う。まだ五歳と少しだというのに、テレビで見る子役よりも可愛いと思うのは、もうすぐ十七になる姉のアタシの贔屓目か。
アタシが見よう見まねで描いた女の子のキャラクターの線画に、妹がクレヨンで色を塗っていく。
この地域有数の筆頭名家に生まれたアタシに、唯一許された娯楽といって良い時間だった。
アタシも妹も遊び道具なんて一切買い与えられず、宛がわれるのは家庭教師のババアが教えてくれる遊び方だけ。妹にぬりえを描いてあげようと提案してくれたのもババアだった。
当然テレビでアニメなど許されない。だから、学校のパソコンでプリントアウトした、このくらいの子供が好きそうなアニメの絵を模写するよりなかった。
「ねーねーさま、ウェディングドレス描いて」
「は? ウェディングドレス?」
また面白い物を発注してくれる。全く、妹すらそんな事を言うのか。
アタシには一応だが、花婿候補がいた。
その第一位は同じ姓を名乗る名家の一つの嫡男だが、粗暴でわがままでマザコンで、服の趣味が絶望的で、顔が良いと周囲に評価されている以外は何も良いところが無い単なる金持ちのニートだった。
そもそも結婚しても同じ苗字のままなんて、想像するだけで反吐が出る。
名家の独特な苗字を名乗るだけで、誰もが遠慮して、遠巻きに眺めるようになって、しかも同じ苗字同士で話していたりすると、あからさまに警戒されてしまう。
ただ、アタシは結婚するつもりも更々無いので、この苗字と付き合い続けなればならないのだが。
「アタシ別に結婚なんてしねーよ?」
まだアタシもガキなのに、このくらいの年の子には大人に映るんだろうか。
「あー! ねーねーさまお言葉使いわるい!」
「え? え偉いなぁ、もうそういう判断できるのかぁ」
うん、姉と違って我が妹は賢い。きっと良い人生が待っている事だろう。
「あれぇ? お兄さまは結婚するって言ってたのに?」
あの野郎、また戯言を。父親も母親も歓迎している事が尚更腹立たしい。だが、アタシに相手を選ぶ権利なんて無い。両親はアタシに覚悟を決めろと、暗に求めているのだ。
アタシにとっての不幸は、例えこの男を振り切れたとしても、学校にも町内にも第二第三の候補がいるという事だ。
こんな時、アタシは自分の人相風体を呪う。
私の母は夜の仕事をしていたらしく、その時に父に見初められ、この家に入って私を産んだのだ。男には扇情的に映るらしい顔つきや体つきは似ているらしい。
母親は父と結婚してはいなかった。本妻となる女性は、アタシが十二歳くらいの頃にこの家へとやってきた。
それが今、アタシの膝の上にいる妹の母親だ。
いつものように横柄な足音が廊下の向こうから近づいてきた。
部屋の襖が乱暴に開かれる。
「おいテメェ、なんでジャージ着てんだよ! 東京行きてえとか抜かしたのはテメェだろ! 駅に来いって言っただろうが!」
醜悪なヒョウ柄のジャケットを着た男と外を出歩けと。悪い冗談もあったものだ。
「そうだっけぇ? お前と出歩くなんてぜってー無理だから。サンキで服買って出直してこい」
この家は立派だが、すべての部屋が襖で仕切られているから、誰でも部屋へ入ってこれてしまう。今もこうして怒りを抑えられない馬鹿者の侵入を許してしまった。
「お兄さま、ねーねーさま、言葉遣いが悪いです!」
嫡子の妹の前では絶対に乱暴を働かないはずだ。アタシが一人でいれば、こいつは平気で暴力を働く。古い表現だが、アタシを手籠めにして既成事実というやつを作ってしまいたいのだろう。首を絞められたこともあれば、庭石を投げつけられた事もある。当たりはしないが。
「ブチ殺すぞガキ!」
しかし、この日は様子が違った。ついに堪忍袋の緒が切れたか。随分と脆い堪忍袋だこと。
「こっちの襖から出て行きな。大丈夫だから」
向けられるはずのない理不尽な憎悪を向けられ、震え上がってしまった妹を、反対側の襖から逃がした。
ついにこの瞬間が来たか。アタシはこの瞬間を待っていたのだ。
正当防衛の名の下に、正義の鉄槌を下す瞬間を。
ぬりえをしていた座卓の下に置かれたポーチの中にはテープレコーダーが仕込んである。
それはもう、足音が聞こえ始めた時に録音ボタンを押してあるから、我が家の嫡子への暴言の証拠は取れた。
「そんな態度でアタシを物に出来ると思ってんの?あそうだ、あなたの弟と結婚しようかしら?」
酷い演技だ。役者にはなれないな。
コイツは兄弟仲が悪い。弟を引き合いに出せばすぐに気分を害するのは分かっていた。
さぁ、早く掴みかかって来い。二度と妹にそんな口を利けなくしてやる。
「てんめぇ……!」
筆舌に尽くし難い卑猥な言葉を放ちながら、ソイツはアタシの顔を殴りつけた。
「ぎゃあ!」
大根役者丸出しの叫び声を上げてしまった。
血の味が口の中に広がる。だが、喧嘩の一つもしたことが無い奴の一撃など効くものか。
掴みかかろうと迫る馬鹿野郎に体当たりをお見舞いする。よし、ここまでは完璧。
「助けてぇ!」
大げさに叫ぶ。演技力をもう少し磨いておくべきだった。
座卓の上に尻もちをついた男に向けて、棚の裏に隠し持っていたソフトボール用の金属バットを持ち出した。学校のゴミ捨て場で拾った物だ。
もう頃合いだろう。
「て、てめぇなんだそれ!」
声を荒らげた男の顔へ向け、見よう見まねのスイングで、渾身の一撃を叩き込んだ。
その一撃は狙いが逸れて、そいつの胸にぶつかった。
「げへぇ!」
なんだ、その間抜けな呻き声は。
腹立たしい。今度はもっと腰を入れて、もう一撃御見舞してやる。今ぶち当てた同じ位置を狙う。この馬鹿は顔ばかり守って、何故他を守らないのか。
「ぐおぇ……!」
だから、なんだその小さな呻きは。
アタシがアンタから欲しいのは張り裂けんばかりの悲鳴だ。
こいつの暴力で何度も悲鳴を上げた。この部屋で、学校で、街中でも。ただただ恐怖に屈して逃げて来た。まだ小さな妹を盾にしなくてはならない程無様だったアタシに良い声を聞かせろ。
仰向けに倒れてのたうち回る男の顔は、恐怖におののく自分と重なった。そんな自分は、もういなくなれ。
男の手が、アタシの足首を強く掴んだ。そうか、もう一撃必要なのか。
「じゃあね、バイバイ」
体の力を抜きつつも、全身を鞭のようにしならせ、手首を柔らかく、しなやかに。手に持った武器を鋭く、ありったけの憎悪を込めて振り下ろす。嫌な感触が両手に響いた。
「ひぃ……ひぃ」
まさか、女の腕でここまでの攻撃を叩き込まれるとは思わなかったのだろう。男の顔は怯えきっていた。
用意していたのはバットだけではなかった。バットを隠していた同じ場所に着替えを入れたリュックサックを用意してあるから、こいつの取り巻きがやって来たら逃げおおせて身を隠す。
男は声にならない静かな悲鳴を上げていた。その男は、必死に助けを乞うような目をしていたが、聞く耳など持たなかった。ついにアタシは勝った。この馬鹿者の脅威から逃れたのだ。
しかし、アタシがその気分に浸っていられたのは一瞬だけだった。
「ねーねー……さま?」
妹が、アタシを見て怯えていた。
男は喉から泡を立てるような音を立てて、怯えるような目でアタシを見ていた。
「あ……え……?」
何を、したんだ。
なぜこの男は仰向けに倒れて、怯えた顔をしているんだ。
アタシはただ、逃れるように着替えを詰めたリュックを掴んで、外へ飛び出す事しか出来なかった。
この時、アタシは初めて悟った。
下らぬ復讐心で、沢山の人を傷つけてしまったことを。母はどんな制裁を受けるのだろう。心に傷を負った妹は、どうなってしまうのか。