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夜は更け、窓の外から酔っぱらった労働者たちの歌声が喧噪に混じりつつ、部屋に響く。
紀威王は私に二杯目のお茶とビスケットを勧めるが、私は断った。
「理玖、きっとお前は私を殺したいほど、憎んでいるのだろうね」
「…」
「おまえになら私は殺されても仕方がないと、思っているのだよ」
兄の言葉は美しいものであったが、邨に関するすべてが、どこか空虚なものと感じ始めていた私には、心を支配する程ではない。
だが、しかし、同時に私は昔からこんな刹那的な兄が好きだった事を、思い出している。
「私にとって、遮那も邨人も大事な守るべき者たちだった。私は長になるべく者として、彼らを、邨を、心から守りたかった…。だが、すべてはもう取り返しなどつくはずも無い事。邨を滅ぼすと長が決めた事ならば…死んだ邨人たちも逃れられない運命だと、受け入れるでしょう。忍宇海の邨とは、そういうものでありましたから…」
多少芝居がかったとはいえ、私は込み上げてくる涙を止める事ができなかった。
私も相当なロマンチストだと言えよう。
「理玖…それでいいのかい?それで納得がいくのか?」
「今更…誰の為に、誰を恨めば良いのでしょうか?すでに兄上たちが長を殺し、憎むべき者は、この世に居ない。兄上たちも私も沢山の大事な者を失った事には変わりないではありませんか」
「理玖がこんなにも物分りが良い男だとは思わなかったよ。おまえは兄弟の中では一番の頑固者で人情家だ。非道を行った私達を簡単に許せるはすがない」
「諦めることを覚えたのですよ、兄上。邨を出て、この世が自分の思い通りにいくものではないことを知りました。本当に何ひとつも…私は知らなかったのですね。これまでの兄上の言葉も思いも、私は深く考えることもしなかった。ただ信じていれば良いものだと思い込んでいた…」
「…あの夜、邨人を一人残らず殺せと命じた長だったが、私はおまえを殺さなかった。否、出来なかった…」
「あの時、隠し部屋に居た時…私の部屋に火を付けたのは…兄上なのですか?」
「おまえの存在には気が付いていた。そして、あの隠し部屋が隧道に通じていたのも知っていた。無事に逃げおおせてくれるものだろうと…信じていた。私にはそれしか出来なかったのだよ、理玖」
「兄上…」
紀威王の言葉全てを信じるには、私は人を疑う事を覚え過ぎたと言ってよい。だが、今は、今夜だけは兄上の言葉に酔いたかった。
「何故私の命を救ったのです。あのまま邨共々、私も死んでしまいたいと、何度も願いました。冷たくなった遮那の身体を土に埋める時、私も遮那の傍に横たわりたかった。長と兄上たちに何と言えばいいのか…あなた方の目の前で死んでお詫びするしかないと…。でも怖くて…怖くて、私は逃げる様にあの邨を出たのです」
「理玖、私はおまえが愛おしかったのだよ。愛することを教えぬ邨で、私はおまえを愛しいと感じていたのだ。勿論、何かに心奪われる事を許す邨ではないが故、本心を語る気など無かった」
「私は…幼いころから私は周りの者たちと毛色が違っていて、随分情けなく思っていました。遮那だけが私の味方だったけれど、頼りなくて…。兄上は私を見守ってくれた。龍泉王や真蔓王が私を苛めても、兄上は私を庇ってくれた。どれだけ心強く思ったことか…。兄上は私の憧れでした…」
「理玖、これからの未来、私と一緒に生きて行くことを考えてみないか?ひとりにするにはおまえはまだ若い。私ならおまえを守れる」
「私と一緒に?…どうやって生きて行くのですか?」
「アサシン業は辞めだ。マトモに…かどうかはわからんが、まずは足を洗うことから始めようと思う」
「学者を、目指しますか?」
「そうだな。心理学の勉強でも始めるかな」
「良いですね。兄上にピッタリです」
私は屈託のない笑いをする。
紀威王は和やかに笑い返す。
兄上とこんな風に過ごせるのか。
こんなに安らいだ気持ちになれるのか…
笑いながら私は涙した。
紀威王は流れる私の涙を吸った。
「愛している、理玖」
「兄上…」
紀威王の告白は、愚かな私の心に殺意を産んだ。
私はあなたとはちがう。
私はあなたのようには、ならない。
その夜、紀威王は私を抱いた。
紀威王は以前よりも、紳士に私を扱った。だが私は抗うように、彼の手を弄んだ。
頼りないベッドの上で、上に下になりながらも、私は紀威王をじっくり味わう余裕すらあった。
兄は私の放埓な姿に、少しだけ戸惑っていた。
私は時折処女のように恥じらい、しかし執拗に兄を求め離さなかった。
「半年もたたないうちに、おまえは熟れた娼婦の様に惑溺するのだね」「兄上は私に悦楽という遊戯を教えてくださいましたね。私はそれに報いなければと思っているのですよ。兄上が望むものは、何でもして差し上げますよ」「誰がおまえをこんなにしたのか、気になるよ」「旅で出会った…ニッポン人。彼は本当に良い男でしたよ。世間知らずの私を、可愛がってくれました。ですが何より私の心を奪ったのは…いいえ、止めときましょう。兄上の悋気を煽ってしまいますからね」「おやおや、私を弄んでいるのだね」「いいえ、兄上が私に真の享楽を与えてくれるのですよ」
確かに、より多くを望んだのは、私の方だ。
私は紀威王に抱かれたかった。
そう、
死ぬ前に、もう一度だけ。
日の出前の始発の列車に、私はひとり飛び乗った。
紀威王はぬるいベッドの中で、二度と覚めぬ眠りを楽しんでおいでだろう。
魔斬で切り刻まなかった事は、せめてもの私の情だ。
さよなら、紀威王兄上。
私は学者のあなたに興味はない。
そして、
私はアサシンであり続けたいのです。