1
Assassin
それは夏の終わりを告げる流星が、天の火竜に流れた夜の事だった。
「理玖王さま、起きて下さいっ!」
宇奈沙のただならぬ声で、私は飛び起きた。
隣に眠る遮那を揺り起こし、枕元の「魔斬」を手にすると、私はすばやく支度を整えた。
勿論、遮那も同じように身を整える。
棚のランタンを灯すと、仄かに浮き上がった宇奈沙の顔がただ事ではない事を示した。
「何があった、宇奈沙」
「邨が何者かに、襲われております。急ぎ、隠し部屋にてお待ち下さい」
「襲われる?…一体どういう事だ」
「わかりません…。何が起きているのか皆目わからぬばかりで…。ただ…恐ろしい程の妖気が立ち込めております」
「馬鹿な…」
宇奈沙の言葉を簡単には受け入れる事はできなかった。
この「忍宇海」の邨は、誰もが容易に入り込めるシロモノではない。
「兄上、こちらへ」
早々に隠し部屋への床の扉を開け、待ち受けた遮那が、私を呼ぶ。
私は宇奈沙に「まずは邨の様子を見る。それから邨人を助けるのが私の役目だ」と、告げた。
「それはなりません。理玖王さまは、この邨の光となる御方です。私は先代より理玖王さまの事を重々頼まれ申しあげられました。どうか、事が落ち着くまで、地下の小部屋にてお待ちください」
「邨人たちを見捨てろと言うのか」
「この邨を守る益荒男は理玖王さまだけではござらん」
「だが…」
私の言葉を振り切り、守り役の務めを果たそうと宇奈沙は遮那の傍へ向かった。
「遮那王、理玖王さまの事を確と頼んだぞ」
「わかった。兄上の事は俺が引き受けた。さあ、兄上、ここは宇奈沙の言う通りに、急ぎ隠れましょう」
ふたりに促され、私はしぶしぶと隠れ部屋への穴へ入り込んだ。
「少々不便でしょうが、朝方まではここに留まり下さい」
そう告げると宇奈沙は床の扉を閉じた。途端に辺りは暗闇に閉ざされる。
隠し部屋とはいえ、天上は低く屈まないと動けず、遮那とふたり寝転がる程のスペースしかない。
遮那と私は抱き合う様に寄り添い、外の様子に耳を欹てる。
暗闇の中でも、私達は夜目が効くように幼いころから訓練を受けている。
目の前の遮那の横顔をじっと眺めていると、見慣れているとはいえ、無性に愛おしくなった。思わず、顔を傾けてその口唇に軽く触れる。
「…兄上、こんな時に何をなさる」
「だって、遮那がかわいいからさ」
私の言葉に、遮那は照れを隠すように私の胸を軽く肘で付いた。
つい先刻まで、交わっていた情念が未だに乾いていないのが、我ながら可笑しかった。
遮那となら、何度抱き合おうとも飽きることはない。
「愛しているよ、遮那」
「だからこんな状況で、マジな声を出さないでくれよ。理玖が本気で迫ったら、俺は断れない」
「だったら、先程の続きをやろうか?」
「いやですよ。それより、外の様子が気にならない?」
「ああ…」
遮那とふたり狭い隠し部屋で身を顰めて、半刻が過ぎようとしていたが、未だ外は静まり返ったままで物音ひとつ聞こえない。
こうなると宇奈沙の報告さえ疑わしく思えてくる。
「何事か起きているにしても静か過ぎる。やはり私が外を伺ってこよう。遮那はここで待っていてくれ」
「ならば俺が行くよ」
「兄の私を差し置いて、おまえが行くのか?」
「理玖は兄であり、俺の大切な主人だ。主人を守るのは俺の役目だよ。それに、理玖より俺の方が足も速いし、身も軽い。体術だって負けてない。大丈夫だよ。様子を見るだけだ。兄上はここで待っててくれ」
「待て!」
止めるよりも一寸早く遮那は私の腕を擦り抜け、短い階段を登って上の部屋へ出た。
床の下から顔だけを出し、「理玖、大好きだよ。すぐに帰ってくるからね」と言い、床を閉じた。
私は後を追いかけたが、遮那は床に箪笥を押し載せたらしく、扉はビクともしない。
「遮那っ!」
私の声は虚しく、遮那の足音と、部屋の扉を閉める音が微かに鳴った。
途端に嫌な予感が私の身体を震わせた。
尋常ではありえない緊張だった。
なにか…災いのような事が私の邨に起きている。
邨長になろうという者が、こんなところで隠れていても良いものだろうか。
だが、宇奈沙の言葉を無碍には出来なかった。
私はある意味、この村の宝でもあるべき者なのだ。多数を犠牲にしても生き残らなければならないと、物心が付く以前より教え込まれていた。
不安が次第に明確となりつつあった。
私は携帯ランプを灯し、隠し部屋からの逃げ道を探した。
その時、部屋の中に遮那ではない誰かの足音が聞こえた。
私は急いで灯りを消し、耳を澄ませた。
敵か…
息を呑み、己の気を消すことだけに集中する。
逃げ場がない場合、私の取る道は身を守る事しかない。
足音は部屋の中を何度が行き来し、部屋を荒らした後、早々に部屋から出て行った。
侵入者が部屋に火を付けた事は、匂いで直ぐに理解した。
数分後にも、この隠し部屋にも煙火が回り始めるだろう。
私は必死に逃げ道を探した。
煉瓦を積み上げて作られた壁を叩き、音の違う場所を魔切の柄で叩き砕いた。すると、小さな隧道が現れた。
私の身体がやっと通るくらいの狭い穴だったが、私は急いでその穴に身体を滑りこませ、匍匐前進で先の見えぬ隧道を進んだ。
煙はすでに私の鼻腔を塞ぎ、炎の熱は足元まで近づいていた。
息を止め、必死に進んだ先に風を感じた。
やっと外に出られる…そう思い急いで穴から身体を出した瞬間、私の身体は宙を浮き、落下した。
五メートル程だろうか、落下したところは崖のくぼみだった。
多分あの隧道からここに誘導されるように作られた物だろうが、さすがにこの状況では確認する暇もなく、咄嗟に受け身を取るだけで精一杯だった。
上に昇る手立てを考えながらも、遮那の事を想うだけで胸が瞑れそうになった。
急がなくてはいけない、と逸るだけ、蔓を持つ手が震える。
なんとか崖から昇りきり、邨の際に立つと、漆黒の闇をこじ開ける様に見たことも無い様な青白い炎が邨を覆っていた。
私は一寸だけその青白い炎に見惚れた事を告白しよう。
それは今まで見たどんな絵模様よりも、美しかったのだ。
しかし、あの炎の中には私の邨が、邨人たちが暮らしてきたすべてがあったはずだ。そして、私が守らなければならない邨人たちも…
人の声は少しも聞こえなかった。
老人も女子供の僅かな声すら聞こえない。
もしかしたら、折良く逃げおおせたのかもしれない…、と、私は一縷の望みを持った。だが、それはまたたく間に消え去った…。
私はその場から一歩も動けなかった。
動こうにも結界の中に入れなかったのだ。
邨を襲った奴らは邨に結界を張り巡らせ、外からの侵入を阻んでいた。
私は目の前で、私の邨が崩れ去るのを、惨めに立ち往生したまま、眺める事しかできなかった…。
空が白み始める頃、炎を鎮める如く、空から激しい雨が雪崩のように降り始めた。
燃えさかる炎は次第に弱まっていった。それと同時に、私を留まらせていた結界は消え去った。
私は一目散に邨の中心へと急いだ。
私の眼に映った景色は、昨日までの邨ではなかった。
家々は崩れ落ち、家屋の焼けた匂いが立ち込めていた。
村人の姿は跡形もなく、焦げた衣服と靴が至る処に散らばっていた。
「みんな…どこへ行ってしまったのだ…。私の大切な邨人は一体どこに消えてしまったのだ!」
たかが二百人足らずの小さな邨だ。
だが私の愛するものが詰まった大事な世界だった。
「これは一体どういう事なのだ。宇奈沙、教えてくれ。…遮那…遮那はどこに行った。私を迎えに来ると約束したじゃないかっ!」
私は遮那の名を叫びながら、辺り構わず走り回った。
遮那が生きている事だけを祈り続けて走った。
遮那、おまえが生きていなければ…
「遮那っ!どこにいる!姿を見せろ!私を…置いて行くな!」
…兄上…
「遮那!どこだ!」
遮那の声が、私の頭に響く。私は遮那の姿を探して、必死に辺りを見渡した。
…兄上…理玖…ごめん…守れなくて…
「遮…。遮那……遮那―っ!」
遮那の意識が途切れた。
ふと正面に焼け残った土蔵が目に入った。屋根は崩れ落ちていたが漆喰の壁は、どうにか原型を留めていた。
私は走り寄り、重い扉をこじ開けた。
貯蔵された穀物はすべて焼き焦げていた。
私は目を凝らして辺りを見渡した。
蔵の隅の荷台の脇に、見覚えのある着物の柄が見える。
「遮那っ!」
駆け寄った先に倒れた遮那の姿があった。
その半身は無残な火傷で覆われていた。
「遮那…」
抱き寄せた遮那の鼓動は、すでに止まっていた。
「何故…私を守ると言った…。何故、助けてくれと呼ばなかった…。私は守られる為に、生きているのではない。…遮那…何か言ってくれ…頼むから…」
この日、私は守るべきすべてを失った。
未来を生きる意味を失ったのだ。