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「――行っちゃダメだ、アミタ!」
そんなことを叫びながら、跳ね起きた。
〈主観時間連続体から、ナギサの離脱を確認。
ナギサは安全に覚醒しています〉
使い魔の声が、混乱した頭に染み込んでくる。
私は――そう、そうだ。かつての我が姉にして自称“2級異端審問官アミタ・A・リーパー”を追跡するため、故ボリス枢機卿の遺品を経由して枢機卿の前世にダイブした。
ボリス枢機卿を構成する情報群はアミタ・Aによって誘導された私が根絶してしまったが、だからといって枢機卿がこの世界に存在したすべての痕跡が消えるわけではない。枢機卿が愛用していた品々をある程度まで集めれば、枢機卿の前世にアクセスするポートを確保することは可能だ。
ただし、このダイブには致命的な問題がある。
ボリス枢機卿を構成する情報群は、前述のとおり私が根絶してしまった。従って枢機卿の前世へのポートを確保しても、そこには情報熱力学でいう虚無しか存在しない。
従ってそこにダイブすれば、ダイブした本人は無限に広がる虚無の只中に放り出され、極めて迅速に発狂する。情報温度が絶対零度を示す情報空間(=虚無)のど真ん中に、一定の情報温度を有した情報群(=私)を放り込むのだから、“私”を構成する情報群は瞬く間に絶対零度の情報空間へと分散し希釈され意味を失っていくのだ。
それでも私がダイブを決意したのは、アミタ・Aを追う――あるいは追い得る選択肢が、これしかなかったからだ。
アミタ・Aには、〈使徒〉たちとは異なる方法で現実を変容させる力がある。ゆえに私が私の現実に立脚したままアミタ・Aを追ったところで、彼女がそう望めば私は決して彼女に遭遇できないし、彼女がそう望めばこの瞬間にでも彼女は私の目の前に姿をあらわす。
こんな非常識な存在を追跡するとなると、並の手段では追跡という概念そのものが成り立たない。
だから私は、非常識な追跡手段を考えた。
ボリス枢機卿の情報群はもはや存在しないが、枢機卿の前世にだって、枢機卿情報群が愛用した(あるいは強い執着を持った)道具や作品があるはずだ。
この点に着目し、こちらの遺品を用いて開いたポートを、前世の遺品へと連結する。
この状態でSRHMDを利用して主観時間連続体にダイブすれば、私はボリス枢機卿の前世が特に強い拘りを抱いていた〈何か〉にダイブできる。はずだ。
もちろん、例えば仮にボリス枢機卿が前世においてピアノに愛着を抱いていた場合、私はピアノとしてあちら側に顕現することになる。虚無よりは幾分マシだが、ピアノ人間として長時間理性を保てないであろうこともまた、自明の理だ。
それでも私は、このダイブには勝算があると踏んだ。
なぜなら今世で私とボリス枢機卿に強い関係性が構築されていた以上、前世でも一定以上の関係性は存在していたのが一般的だからだ。
ゆえに私はボリス枢機卿が前世で愛顧していた物品に対して一時的に憑依することで、それほど時間をかけずに私の前世にアクセスできる状況が来るはずだと考えた。
そして私は賭けに勝った。
NEという不思議な名称の仕事をしていた前世のボリス枢機卿が作り上げた、「戦之王」という名の代替現実世界。これに対して、私はダイブすることに成功したのだ。
世界そのものに憑依するというのは、控えめに言って発狂しそうなほど精神負荷が高い状態だった。だが原始的な代替現実装置で作られた世界(ボリス枢機卿が完全世界とそれを称していたのが、なんとも微笑ましい)程度、紅乙女で培った並列戦闘処理技術をもってすれば、完璧とまでは言わないまでも、一貫性を破壊することなく維持することができる。
そうやって若きボリス枢機卿が作り上げた玩具のような箱庭を守っていた私は、ついに〈私〉に遭遇した。
自分の前世を客観視点でスキャンした私は、この世界におけるアミタ・Aが、Al3XiSという偽名で活動していることを把握した。
“記憶”の中ではAl3XiSは既に死亡したことになっているが、Al3XiSがアミタ・Aである以上、主観記録はまったくあてにならない。理論上、彼女は己を「死んでいる」のと同時に「生きている」状況にすら置けるはずだ。
ともあれ、アミタ・Aに関する大きなヒントを得た私は、主観時間連続体から離脱を試みた。
だがここで予期せぬトラブルが起こる。
私は、前世の私と、この私を、明確に分離できなくなったのだ。
このことは、ある程度までは予想していた。なにしろ同一人物なのだから、どうしても情報群が混濁しやすい。だから私は最初から分離壁を幾重にも展開していたし、すべての分離壁は有意に機能し続けていた。
にも関わらず、私は自己を見失ってしまった。
そこから先は、何が起こっていたかを説明するのが難しい。
SRHMDに残されたログを解析しないことには、具体的に何が私に対して発生し、何が私の前世に対して発生したかを、明言することは不可能だろう。
とはいえ、その仕事は私の所轄ではない。
SRHMD酔いの残滓を吹き飛ばそうと安定剤を摂取した私は、SRHMDから記録カードを抜き取り、無言で待機する特級異端審問官に手渡す。異端審問官の象徴である真紅のマントがアミタ・Aとの記憶を活性化させ、どうにも落ち着かない気持ちになるが、それはそれ、これはこれ。
名も知らぬ彼(おそらく男性格)が記録カードに残されたログを解釈し、確固たる現実として再構築する。
アミタ・Aが何者であれ、異端審問官の持つ現実解釈能力は、最低でもアミタ・Aの現実改変能力と拮抗していると考えられる。でなければ、彼女が私を使ってボリス枢機卿を根絶する必要などなかったはずだ――ただ彼女がそれを願えば、枢機卿は根絶されただろう。
それにしても、アミタ・Aとはいかなる存在なのだろう?
我らの既知世界は、使徒と呼ばれる異次元知性による侵略を受けて久しい。彼らは我々の世界に物理的な直接攻撃こそ行えないが、物語を騙ることで現実を変容させられる。そうやって徐々に我々の世界を彼らの世界へと騙り直していくことで、彼らの次元は豊かになっていく――つまり我々の既知世界は急激に貧しくなっていく。
もっとも、騙る程度で次元間のエネルギー移動が起こるのかという疑問は、それほど珍しくない疑いではある。
使徒とは帝国教会によるお伽話でしかなく、世界は精霊と祖霊により正しく運営されていると主張する野人派たちの主張に、一定の共感を示す帝国市民も決して少なくはない。
だが、騙ることで、世界は、本当に、変わる。
例えば、「夢オチ」というスラングがある。これはSRHMD利用中に眠り込んでしまい、自己ロストに至るという重大事故を意味する言葉だ。
いや。そういう言葉、だった。
だが使徒の騙りにより、今では「夢オチ」という言葉は、「物語を“実はすべての物語は夢だった”と定義することで、物語と体験の間で惹起する自己言及的パラドクスを許容する」というアート・スタイルを意味するようになった。
これは二重の意味で危険だ。
まず本来の意味における「夢オチ」(正確には「SRHMD使用中における主体意識喪失による自己境界性喪失」)は未だに時折発生する事故であるにも関わらず、その問題意識は多くの市民の意識から消えてしまった。
かつ「夢オチ」が物語の自己言及的パラドクスを(一種のバッドテイストなアートとして)認めるという意味を持った結果、一貫性喪失のリスクは以前よりも数ポイント増大している。
このようにして、使徒は我々の既知世界をいまも積極的に侵食している。
使徒と我々人類は決して融和し得ぬ、不倶戴天の敵なのだ。
だがその一方で、使徒が何を求めているのかという点については、疑問はない。また騙るという行為の本質に伴い、彼らは我々を理解しているし、我々は彼らを理解している。ないし、相互理解という一般的了解が成立している。
そしてその了解に則って言えば、使徒は騙ることはあっても、既知世界の誰かを根絶しようとしたことは、なかった。
使徒にしてみれば、既知世界に住む我々は、彼らが必要とするエネルギーの発生源だ。それをムザムザ根絶してしまうというのは、あまりにも合理的ではない(使徒には我々を直接根絶することができないとするアイゼン教派説もあるが、この説は未だに立証されていない)。
というか――実に忌々しい話だが――既知世界が危急存亡の事態に陥ると、使徒はしばしば既知世界の保全と維持にその力を行使する。
これは戦訓史にも、いくつか事例として残っている。
最も有名なのは、帝国教会において最大派閥となった白色修道会が、自分たちの教条を永遠不滅のものとすべく、禁忌の秘儀に手を染めた白色革命事件だ。
白色修道会は禁忌の秘儀を用いることで、それこそ戦訓史に残るような伝説の武具の数々を、大量に複製することに成功した。この結果、帝国教会はその頂点に至るまで、白色修道会の軍事的圧力に屈するほかなくなったのだ。
だが、この状況に異を唱えた少年がいた。
少年は白色修道会の実行部隊に襲撃され、情報群としての一貫性が蹂躙された挙句、その名前すら失われた。だが少年の勇気は帝国教会に残った数少ない正しき信徒の勇気を呼び覚まし、やがて英雄タワーズが立った。
英雄タワーズは、激しい戦いの末に白色修道会を駆逐した。だがどんなときも彼の隣に立ち、タワーズの偉業を支え続けた助祭の名は、戦訓史には記載されていない。
なぜならその助祭は、使徒だったからだ。
さて、話をアミタ・Aに戻そう。
彼女は、使徒ではない。使徒であっても(もちろんヒトでも)、異端審問官を騙ることはできないからだ。
ゆえに彼女は、使徒と同等以上の現実改変能力を持った、使徒でもヒトでもない存在ということになる。
ここまでは、いい。
問題は、アミタ・Aはどのような動機で動いているのか、ということだ。
ボリス枢機卿を根絶したことが、彼女にとってどんな意味を持つのか。それがまったく見えてこない。
これは何も「私にはそれがわからない」などという、語るまでもない状況ではない。
帝国教会が、アミタ・Aの動機を掴みかねているのだ。
だからこそ私には、アミタ・Aと接触せよという命令が下っている。
必要とあれば殺せとも命令されているが、現実改変能力を持った存在相手に、もはや異端者でしかない私ができることなど何もない。
重要なのは、コンタクトすることだ。
これによってほんの少しでもアミタ・Aという情報を持ち帰ることができれば、そこから彼女の動機を逆構築できる可能性が高まる。うまくすれば異端審問官が彼女の存在そのものを解釈できるかもしれない。
そこから先、アミタ・Aおよび彼女が属する集合と我々既知世界がどのように向き合っていくかは、状況次第といったところだろう。アミタ・Aが既知世界における高徳の枢機卿を根絶したのは事実だが、だからといってアミタ・Aが属する世界全体が我々に対して敵意を抱いているとは限らない。そもそもヒトだって、カッとなってついうっかりといった動機でヒトを殺すことはあるのだし。
ともあれ、今回の無謀なダイブでアミタ・Aとの再コンタクトができていればよし。できていなければ、また別の方法を考えなくてはならない。
そう、別の方法。
そんな都合の良い方法があるのだろうか。
自分の前世へのアクセスは確保しているから、そこからさらに深くダイブするというのも考え方ではあるが……。
「ログからアミタ・Aとのコンタクトを確認。
よくやった、ナギサ」
安定剤を飲みながら眉間をマッサージして、熱病のようにしつこい頭痛と戦っていた私の背後から、そんな嬉しいニュースが飛び込む。ニュースの元は、データを解析していた異端審問官だ。
私はやったとばかりに右拳を握りしめ、背後を振り返った。
そこには、アミタ・Aが立っていた。
「安定剤の過剰摂取は体への負荷が高い」
馬鹿な。
呆然と彼女の顔をみつめる私に対し、アミタ・Aは口元を微笑の形へと変形させた。
「精神的消耗を回復させたいなら、自然生成された食物の摂取が一番だ」
馬鹿な。そんな、馬鹿な。
「お前は死んだはずだ。
金属バットで頭蓋骨が粉々になるまで殴られて、東京湾に浮いていたって」
もつれる舌を無理やり動かして、なんとかそれだけを言い放つ。
「だったらあなたこそ死んだんじゃないの?
存在するはずのないゲームをテストしていたけれど、テストのログもなければ、あなたが映った防犯カメラの映像もない。
これって、あなたは実は深夜のテスト作業中に死んじゃったんだけど、現世に残った霊が今なおテストに執着している――そう語られるべき都市伝説じゃないかしら?」
馬鹿な。俺は――俺は、
「人間がそう信じたいほど、生と死の境界は厳密じゃないの」
ハイヒールを鳴らして、アミタ・Aが近づいてくる。
「生きていないということと、死んでいることが違うように。
死んでいないことと、生きていることが違うように。
人間の体験に再現性が担保されたいま、私たちは本当に、情報工学上の断絶のみを根拠として生死を峻別できる?」
朦朧と歪む視界の中で、アミタは悠然と歩き。
そしてそのモデルのように歩く姿が俺の目の前で足を止め。
女優のような整った顔が、熟れ過ぎたリンゴのような赤い唇が。
俺の顔に、唇に、近づいてきて。
そうして。
アミタ・Aの唇と舌を味わいながら。
私の意識は、ふっつりと途切れた。