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「――夢だ、夢だ、夢なんだ!」
そんなことを叫びながら、跳ね起きた。
〈主観時間連続体から、ナギサの離脱を確認。
ナギサは安全に覚醒しています〉
使い魔の声が、混乱した頭に染み込んでくる。
私は――そう、そうだ。私は第4位階、悪夢の使徒ボリスを 根絶するため、奴の前世にダイブした。
使徒を根絶するには身体的あるいは精神的破壊では足りず、主観時間連続体からパージしてしまわなくてはならない。言うまでもなく、とてつもなく危険な魔術だ。魔術そのものにしくじることもあれば、ダイブした先で使徒に取り込まれる危険性も高い。前者は無限に広がる主観時間連続体を死しても彷徨う 徘徊者と化し、後者は新たな使徒となる。
私は目の前に自分の手をかざし、自分が間違いなく現実世界にいることを確認する。
「危なかったな、ナギサ。
でも、思い切りのいいダイブだった。
さすがは名にし負う紅乙女だ。
おかげでついにあの悪夢の使徒を根絶できた」
苦笑いしながら、2級審問官のアミタが私の背を支えてくれた。私は額にじっとりと滲む汗を拭こうとして、ようやく自分が聖別されし啓示の閲覧機を装着していたままだったことを思い出す。
10世紀ほど前に流行った神託機(1000年前、AIの補助なしに預言を受信していた野蛮な時代に、奇跡のように産まれた工業芸術品だ)のように滑らかな流線型をした、黒いエナメルのヘルメット。この神具を装着することで、人間は再現性のある〈神秘体験〉の領域に接触できるようになる。神託機と同じ時代に流行っていた映画の世界に入り込むようなイメージ。
ヨタヨタとSRHMDを外した私にハンカチを渡してくれたのは、アミタ・A・リーパー。まだ若いけれど、教会上層部の覚えも良い、新進気鋭の審問官だ。
しかるに、まだ異端者の主観時間連続体体験を引きずって朦朧としている私は、今となっては残り少ない紅乙女の元団員だ。幼い頃から赤色派修道院で訓練を受けた私は、晴れて祝福を受け、紅乙女の一員となった。
実のところ、私は武闘派揃いのレッズの中でも学究肌だったので、同期からは私は教条研究座に赴任するものだと思われていたし、私も半ばそのつもりでいた。だが教条研究座は、最高の名誉と信仰が集まる部門であると同時に、人の世ならではの陰湿な策謀が蠢く部屋でもあった。そのことを熟知する我が姉君は、私を武闘派の最先鋒たる紅乙女へと招いた。
私が紅乙女における見習いになった直後、レッズの教条研究座は中央教会から信仰汚染の疑いをかけられ、メンバー全員が〈再構成〉されるという歴史的不祥事に発展した。いやはや、我がエルダーは実に賢明であったと言う他ない。
もっともその翌年に紅乙女は使徒の襲撃から〈純粋思惟〉を守る苛烈な籠城戦の中でほぼ全滅し、その4000年の歴史の幕を閉じた。我がエルダーも殉教者の一人となり、不名誉にもムザムザと生き延びた私は、贖いのために己の額に〈敗残者〉の印を受けた。
それでも私の同期で教条研究座に進み、やがて〈再構成〉の洗礼を受けることになったエミリア・E・クエスターのことを思えば――そして彼女の開ききった瞳孔を思いだすにつけ――私は神の恵み多き生を送っていると確信できる。
「私はただの〈敗残者〉だ。この命は、使うべき場所で使い損ねた、余り物にすぎない。
使徒ボリスを根絶できたのは、あなたの技量と信仰があればこそだ、アミタ・A。さすがは一流の審問官、見事以外に言葉もない」
私はバックパックから安定剤を取り出し、吸入する。
私の言葉に、謙遜の意図はない。事実、私は特に勝算もないまま使徒の前世にダイブしただけだ。そしてAIが示した予測通り、私は無様にもボリスに取り込まれようとしていた。
まるで勝算がないのにダイブしたのは、アミタ・Aであれば、私をマーカーとしてボリスを追跡し、討ち取れると信じたからだ。結果、ボリスは私を完全に取り込む前に、アミタ・Aによって根絶された。
「ナギサ、そこまで自分を卑下してはいけない。
あなたがほんの僅かでもダイブを躊躇っていれば、ボリスは可能性象限に逃走していただろう。
それに、背後の戦友を信じて最も危険な戦場に飛び込むのは、紅乙女の貴き伝統だ。
たとえ〈敗残者〉であっても、あなたは紅乙女だ、ナギサ。
そのことは、あなたの元エルダーのためにも、ちゃんと誇るべきだ」
アミタ・Aの言葉に、私の意識は高揚した。こんな私でも紅乙女の精神を受け継げているかと思うと――そしてそれをアミタ・Aに認めてもらえたと思うと、とても嬉しかった。
でも素直にそれを告げるのは、少し面映ゆかった。だから私は冗談めかして、彼女の称賛に礼を言う。
「アミタ・Aにそこまで褒めてもらえると、ちょっと怖いな――」
そう言ったところで、軽く目眩がした。
主観時間連続体の残滓が、眉間のあたりにへばりついている。そんな感覚。
無論、それは疲労とSRHMD酔いがもたらした錯覚にすぎない。私はもう一口、安定剤を摂取する。
と、私の目の前に赤い球状の物体が差し出された。差出人はアニタ・A。
差し出された物体を、思わず、まじまじと見つめる。
これは――。
まさか、これは、自然生成された……リンゴ?
「安定剤の過剰摂取は体への負荷が高い。
精神的消耗を回復させたいなら、自然生成された食物の摂取が一番だ。
食べなさい。
今回のボリス根絶任務におけるあなたの功績を思えば、この程度の褒章は全方位評価の数値にコンマ以下の誤差しか発生させない」
私は反射的にリンゴを受け取って、それからアミタ・Aの顔を見て、また視線をリンゴに戻し、それからアミタ・Aの顔を見て、また視線をリンゴに戻した。
祈祷食のオプションである体験果実(リンゴ味)ですら、起動するとなるとちょっとした覚悟が――具体的には通常レーションの6食分くらいの俸給を支払う覚悟が――必要になる。
これが自然生成されたリンゴとなれば、私の俸給換算ならば最低でも半年相当になるだろう。文字通り、天上の果実だ。
恐る恐る、私はもう一度、アミタ・Aに視線を戻す。
アミタ・Aはいたって謹厳実直な表情のまま頷いて、それから、その口元をほのかにほころばせた。その微かな笑みは、暗黒に沈むタンホイザーゲートのそばで瞬くCビームのように、美しかった。
「で、でも、こんな奢侈品は――そ、その……」
自然生成されたリンゴの感触を双の手で味わいながら、私は虚しい抗弁を試みる。
「正式な褒章であっても、奢侈品を受け取るのはレッズの教条に反する――そう言いたいのであれば、まずレッズが唱えていた究極清貧条項は、7日前の最終教理会議において正式に異端認定されていることを伝えねばならない」
私は思わず両目をつぶって、軽く瞑目していた。
究極清貧条項は、生命共有理念条項とあわせて、レッズが寄って立つ根源教理。だが教条研究座が信仰汚染を疑われた以上、究極清貧条項が中央教会によって潰されるのは自明の理だ。生命共有理念条項も、遠からず異端認定されるだろう。
つまるところ、レッズは滅びた。
私の帰るべき家は、完膚なきまでに、失われた。
「5秒間だけ黙祷を認める。
それ以上は、少なくとも私の前では、“過てりレッズ”に対する追慕の念を見せるな。
忘れているかもしれないが、私は異端審問官だぞ?」
私は慌てて両目を開き、それからアミタ・Aの慈悲に心の奥底で深々と感謝した。異端認定された「過去の組織」に対し、よりによってその構成員である私が郷愁の念を露わにするというのは、普通なら秒速で〈再構成〉送りだ。
「それから、紅乙女の誓いが奢侈品の授受を許さないと言うのであれば、あなたは法的には〈敗残者〉であり、紅乙女の誓いを行動指針として公に主張するのは違法であることを指摘せねばならない。
そしてもう一度言うが、私は異端審問官だ」
流れるようなアミタ・Aの弁舌に、喉元まで出かかった抗弁の言葉を飲み込む。
アミタ・Aが語るように、私はもはや紅乙女ではない。ゆえに己を律する教条として紅乙女の信条を公の場で語れば、紅乙女の名誉を毀損したことになる――しかるに異端審問官は、公そのものだ。
「いいから黙って食べなさい、私の大事な妹さん。
まったくもう。ボリス根絶と引き換えに高確率であなたを失うことを覚悟したときは、心臓が潰れる思いだった。
よく頑張ったわね、ナギサ。あの悪夢嵐のど真ん中で、あなたが自己を維持しきったのは、あなたの強固な信仰心と、日々の節制の賜物よ。
だから勝利の夜くらいは、美味しいものを食べて、身体の喜びを受け入れなさい?」
口元だけの微笑みを保ったまま、アミタ・Aは異端審問官としてではなく、私の姉君として、私に道理を語ってみせた。
私は顔を真っ赤にしながら姉君の言葉に頷き、それからもう一度、両手で握りしめたリンゴに視線を落とした。
赤と緑が不均一な配合でペイントされたその果実は、見ていて不安になるくらいに混沌としたテクスチャでありながらも、他に例えようもなく美しい。自然合成でしかあり得ない、奔放な美。見ているだけで、ため息がでそうなくらい急激にエンドルフィンが放出されていく。
だが、この果実が持つ真の娯楽価値は、視覚情報ではない。
驚くべきことに、この奇跡の芸術は、食べられるのだ。
リンゴを両手で捧げ持ったまま、私は恐る恐るこの禁断の果実を口元に近づけていく。
私は奢侈を冒涜と見なす環境で育ったが、それでも幼い日々のあちこちで、この手の味覚娯楽情報を垣間見てきた。
いや、その、正直に告白すれば、思春期ともなれば、この手のわりとハードなポルノは寝床に入った姉妹たちの間で、こっそり巡回閲覧されていた。当然だが個人端末ではなく、司祭たちの検閲にひっかからない有体情報という形で。
だから、なんとも罪深いことに――ああいや、もう究極清貧条項は異端なのだから遡及して私の罪は雪がれたのかもしれないが、遡及効が認められるか否かの判断には教条研究座の審議が不可欠で、しかしながら教条研究座は〈再構成〉されて事実上機能を停止したので私の罪の行方はおそらく永遠に不明なのだが、それはそうとして、重要なところを話せば――私は、リンゴをどう食べるべきかを、知識として有している。
ちらりと視線を上げると、アミタ・Aの視線と、私の視線が、交錯した。
ううっ。我が姉君は、私の痴態を観測して楽しむつもりだ。
ひどい。ずるい。
でも自然生成リンゴの誘惑には逆らえない。逆らえるものか。
だってもう、その高貴な香りのせいで、視覚が酔っぱらいそうになっているのだから。
慎重に、慎重に、リンゴを口元に近づける。
そのザラついた表面に唇をつけ、それから、軽く舌を這わせる。
舌先で、複雑な凹凸と、ほのかな湿り気を楽しむ。
少し、苦味を感じる。でも決して嫌な苦味ではない。
自然合成ならではの、複雑極まる苦味。
これだけでも、脳髄が痺れそうになる。
ああ、だがこれはまだ、リンゴの本質ではないのだ。
頭まで毛布に包まって胸を高鳴らせながら読んだ紙片に書かれた卑猥で堕落した文言が真実なら、リンゴの表面装甲は極めて薄く、歯で簡単に貫通できる。
そしてその先には、酸味と甘味と芳醇な水分と猛々しくもしなやかな作用-反作用の、完璧な調和が待っている。
私は覚悟を決めて、大きく口を開いた。
だがその瞬間、世界の色が変わった。
私は一瞬の躊躇もなく、リンゴを放り出す。そして俸給6ヶ月ぶんの奢侈品が床に落ちるより早く、左手に盾を、右手に戦槌を具現化させた。
《次元侵食波動を検知。第1種緊急事態。
全方位警戒。身体加速、リミット解除。感覚調整、完了。
思考制限と思考補助権限を獲得しました》
使い魔が冷静にステータスを告げる。
価値や状況の判断権限をAIに移譲した今の私にとって、床に転げたリンゴは脆弱な有機物に過ぎない。敵対存在に投擲しても効果は期待できず、攻撃に対して何らかの装甲効果を期待することもできない。完璧に、無価値。
私は最も攻撃が来る可能性が高い方向に対して盾をかざし、アミタ・Aを守るべく機動を開始する。アミタ・Aが次元侵食波動を完全に解明して敵対存在を解釈するまで、最長でも2秒。2秒後には、敵は物理的打撃で破砕可能な一貫した存在へと変質する。
「――か、はっ……」
私の背後で、アミタ・Aが小さく息を吐いた。
視界の片隅で、アミタ・Aのバイタルが喪失したというアラートが激しく明滅する。
異端審問官アミタ・A・リーパーは、死んだ。
我が姉君、アミタ・Aは、死んだのだ。
反射的に振り返りそうになった私の判断を、AIが補正する。
振り返っても、有益な情報が得られる可能性は極めて低い。
だが、敵対存在の解釈が完成しなかった以上、私もすぐに――
そこまで考えた瞬間、私の体は地面に倒れていた。
《生命維持装置、崩壊。生命機能の停止まで、あと0.8秒。
緊急蘇生装置、起動不能。
思考ダイナミックリンク、極めて不安定。
最終報復装置、起動不能。
戦闘ログ圧縮装置、シールドが崩壊。
警告:これ以降のログの保管はできません。再起動プロセスを実行してください》
AIが冷静に私の死を告げる声を聞きながら、私は目の前に転がるリンゴに手を伸ばそうとして、でも、どうしてもその手は動かなかった。
――ああ。
きっと、これは夢だ。
これは間違いなく、夢だ。
悪い夢。ただの悪夢。
SRHMD酔いと、使徒討伐行の疲労が見せる、泡沫の夢。
だから目を覚ませば、私はきっと、アミタ・Aに抱かれて、すりきれた戦闘毛布にくるまっている。
AIからのメッセージが意味を失い、警告音だけになり、それも急激に音を失っていく。
視界の先で、リンゴが闇へと溶けていく。
だがそれでも私は、これが夢であることを、祈り続けていた。