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われわれ人間は夢と同じもので織りなされている
――「テンペスト」第4幕第1場
ああ。だから、これは夢だ。
これは間違いなく、夢だ。
悪い夢。ただの悪夢。粗悪な安酒と、タチの悪いクスリが見せている、泡沫の夢。
堂々めぐりする俺の思いを無視して、黒衣の男は拳を振り上げる。
その背後に、一瞬、光が見えた。
ああ。だから、これは夢だ。
これは間違いなく、夢だ。
悪い夢。ただの悪夢。粗悪な安酒と、タチの悪いクスリが見せている、泡沫の夢。
大きく振りかぶられた鋼鉄の拳が俺の頭蓋骨を粉々に粉砕し、その内容物を汚物まみれの路地裏にばら撒くコンマ数秒前、俺の脳裏を占めていたのは、そんな祈りにも似た思いだった。
■
「――夢だ、夢だ、夢なんだ!」
そんなことを叫びながら、跳ね起きた。
〈あなたのアバターは死亡しました。
リスポーンポイントに戻りますか?〉
随伴知性の穏やかなアナウンスで、俺は我に返った。いやはや――また、やってしまった。
俺は自分の手を眼前にかざし、これが現実であることを確認する。
「随分と深く〈入って〉たな、ナギサ。
今回の体験はどうだった?」
苦笑しながら、体験・エキスパートのボリスが俺の背を支えてくれた。俺はまだ額にじっとりと滲む汗を拭こうとして、ようやく自分が代替現実HMDを装着していたままだったことを思い出す。
1世紀ほど前に流行ったスポーツカー(100年前、人間が車を自力で運転していた野蛮な時代において、奇跡のように産まれた工業芸術品だ)のように滑らかな流線型をした、黒いエナメルのヘルメット。コイツを装着することで、人間は再現性のある〈体験〉を獲得できるようになる。スポーツカーと同じ時代に流行っていた映画の世界に入り込むようなイメージ。
ヨタヨタとSRHMDを外した俺にタオルを投げてくれたのは、ボリス・V。まだ若いけれど、全世界が注目する、新進気鋭のNEだ。
で、まだ「あっち側」の体験を引きずって朦朧としている俺は、こう見えても、世界で指折りのNTだ。SRHMDが装着できないガキの頃にはRVG(人間の目では自然の風景と区別できない解像度を持った画面を持つテレビを使ったビデオゲームの総称)のプロとして賞金を稼ぎ、SRHMDが装着できる年齢に達してからはNTに転向した。
SRGで稼ぐのも魅力的だったが、SRGプロが一線で戦える期間は短い。オヤジは俺がSRGのトッププロとして億単位の契約金を取ってくるものと思っていたし、俺もだいたいそんなつもりでいたが、オフクロに泣きつかれたこともあって、NTの道を選んだというわけだ。
ま、結果的に俺は億の年俸で働いてるんだから、オフクロの読みのほうが正解だったと言えるだろう。RVG時代に俺のバディにしてライバルだったAl3XiSは、SRGに進んでトッププロになったが、八百長組織に引っかかってネットニュース沙汰になった挙句、東京湾に浮いたわけで、まぁ何だ、母は強し、と言うしかない。
「――プロとしちゃ失格だが、まずは『すげえ 』、と言わせてくれ。
ボリス、あんたはやっぱりホンモノだよ。
とにかく『すげえ 』。それに尽きる」
俺はスポドリが入ったストローつきボトルから水分を摂取しつつ、最大級の賛辞をボリスに捧げる。いやまったく、『すげえ 』だなんて言葉、プロのNTとしては話にならない評価だが、第一声としてはその言葉しか出てこない。
「はは、ナギサにそこまで褒めてもらえると、ちょっと怖いな。
何日も徹夜して、ギリギリまで一貫性を詰めたかいがあった」
ボリスは年齢にしては老け顔で、いかめしい印象が強い。だが俺に手放しで褒めちぎられるのは、それなりに嬉しいらしい。口の端がわずかに笑っている。
「一貫性設計の妙、なんてレベルじゃないだろ、これ?
まるで、魔法だ。思いつく限りの〈離脱〉を試してみたのに、どこまで行っても体験が破綻しない。これなら本気で完全世界を名乗っていいと思うぜ?」
SRHMDによる体験は、強烈な没入感がある反面、ユーザーがあまりに突飛な行動をしたり、あるいはとにかく「領域外」に出ようとすると、しばしば一貫性が崩壊する。一貫性が崩壊した体験は、あっという間に没入感を喪失し、ユーザーは意味不明で退屈な映像を前にログアウトしていくことになる。
これを防ぐため、ほとんどのSRHMDコンテンツは、ユーザーの行動範囲を体験構造の上で絞ったり、あるいは逆に極めて均一的な体験構造を提供する(地平線の果てまで真っ白な空間が広がるとか、どこまで行っても自動生成された密林や砂漠が広がるとか)ことがほとんどだった。
これに対し、ボリス・Vは何をどう設計したのか、どこにでもある都市を、無造作にユーザーの前に――この場合はαテスターとして雇われたNTである俺に対して――投げ出してみせた。そして驚くべきことに、プロのNTとして常人が想像できる範囲を完全に越えた狼藉の限りを尽くした俺は、それでもなお、ボリスが設計した一貫性を破壊できなかった。
むしろ一貫性によって、俺は徐々に追い詰められていった。元RVGプロとして培ったテクニックを駆使して「敵」を殺し、最後はSRHMDの仕様の隙をついた裏技まで使って一貫性をオーバーライドしようとしたが、それでもボリスが構築した一貫性は俺を絡めとった――結果、あの世界の「俺」は、あの世界における最強クラスの暗殺者の手にかかって汚い路地裏で息絶えることになったというわけだ。
「完全世界か……広報部はそれをウリにしたいと言ってる。俺としては不本意だがね」
なおもログを確認しながら、ボリスが呟く。
「いや、これはもう完全世界を名乗るべきだ。
そう名乗っても、開発関係者やテスターが恥をかくようなことには、ならないと思うね。それくらい、コイツはすげえ」
スポドリを飲みながら、俺。SRHMDの没入感は素晴らしいのだが、連続使用していると、どうしても喉が乾く。
「そう言ってもらえるのは嬉しい。
それに完全世界を意識してデザインしたのも、事実だ」
そう言いながら、ボリスはカットフルーツが入ったプラスチックのカップを俺に向かって差し出した。こういう細かな気遣いができるのも、ボリスが他のNEと違うところだ。
とはいえどこかに空いたテーブルがあるわけではないので、俺は雑多な書類が乱雑に積み重なったサイドテーブルの上に、コンビニ謹製のフルーツ盛り合わせをそっと置いて、リンゴを一口齧る。くすんだ灰褐色をしたリンゴは萎びた繊維の味しかしなかったが、それでも十分に美味しかった。ま、俺はリンゴが好物だ、というのもあるが。
「だったらいいじゃないか。あんたは、やり遂げたんだよ。
コイツは、SRHMDの歴史に残るぜ?」
モゾモゾとリンゴを咀嚼しながら、俺。
「――難しいところだな。これは相手がナギサだからこその種明かしだが、俺はあくまで、ユーザーが完全世界を体験しているかのように感じることを目指して、これをデザインした。
要は、これは完全世界ではないんだ。人間が、『これは完全世界だ』と勘違いする体験でしかない」
リンゴを食いきった俺は、改めてタオルで首筋を拭いながら、ボリスの言葉をじっくり吟味する。
なるほど。ボリスの発想は、なかなか斬新だ。
SRHMDコンテンツとして完全世界を設計するというのは、不可能だと言われている。俺はNTとして博士号まで取ったが、俺と同期の研究者たちは、完全世界は実現不能という見解で一致していた。そして俺自身、完全世界というのは素晴らしい広告宣伝だとは思うものの、アカデミックなレベルで考えれば、実現不能だと考えている。
おそらくボリスもまた、完全世界は不可能、ないし、現状のSR技術では実装不可能な目標だと考えているのだろう。だから彼は完全世界を作るのではなく、「人間が完全世界と信じてしまえるもの」をデザインした。
「ふむ……面白い。古典認知科学の問題に近いな。
理論的には完全世界ではなくとも、人間がそれを完全世界と知覚したなら、それはもはや完全世界なのではないか、というやつだ」
なおもログを見ながら、ボリスは頷く。
が、そのとき、ログを追う手がふと止まった。
「――おい、ナギサ。これは……何だ?」
俺はタオルを椅子の背もたれに投げつけると、ボリスが見ているモニタを覗き込んだ。
モニタには、まさに俺を殺そうとしている暗殺者が写っている。
「ん? 俺が『死ぬ』シーンだろ、それ。
何かバグでもあったのか?」
ちらりと、ボリスの横顔を見る。彼の広い額には、深いシワが寄っていた。
「暗殺者は、アセットとして存在している。
暗殺者がカラテを使うというのはデフォルトの設定にはないが、これはナギサが得てきた他の物語体験が反映されたものだから、問題ない。ちゃんとログにもナギサの過去体験を取得したという記述が残ってる。
だが、この暗殺者の背後にいる、発光する存在。
こんなアセット、俺は設定していない。ナギサの過去体験にアクセスした形跡もない」
「ふむ。まさに死にそうな俺を、何かその手の神々しい存在が助けに来た――ってことじゃないのか? それくらいのステロな物語体験くらい、俺の過去体験でなくても、他のテスターの過去体験から自動引用されそうなものだが」
「それはない。テスト環境は毎回リセットしているから、他のテスターの体験が混じることはない。
それにこのタイミングで、ナギサの物語意識はもう『死に至る体験』を 許可 している。vanity-engineの構造上、このタイミングでナギサの過去体験にアクセスすることはあり得ない。そんなアクセスがあったとしたら、倫理規定違反だ」
ぞくり、と背筋に寒気が走る。
SRHMDには、常に、『幽霊』体験の噂がつきまとっている。発生するはずのない体験が、ごく自然に、ユーザー体験として、滑り込んでくるのだ。
とはいえ、これはあくまで噂に過ぎない。俺としては、よくある都市伝説か、NEが残したバグ、あるいは 体験エンジンのバージョンアップに伴うコンフリクトといった、技術的問題だと思っている。
だが、目の前でボリスが指し示す謎の発光は、ボリスの言葉を信じるなら、「あるはずのない体験」そのものだ。
「何かの要素が複合して、たまたま、発光する何かとして俺が知覚した、ってことじゃないのか? ほら、走馬灯とか言うじゃないか。それくらいには、あのときの『死』の絶望は、ホンモノだったぞ?」
我ながら説得力に欠けるなと思いながらも、俺は無意味に言葉を並べ続けた。ボリスは「たまたま」の体験を作り出してしまうようなボンクラNEではない。俺に走馬灯を感じさせることまで含めて、彼は設計しているのだ。そこに「偶然」の2文字は、あり得ない。
だが、だとしたら、これは……。
「もう一度、ログを精査してみる。
今日のテストは、ここまでにさせてくれ。
基幹設計にバグが残っている可能性が否定できなくなったからな」
厳しい表情のまま、ボリスがそう告げる。
俺は頷いて、とりあえず椅子の背もたれにひっかけたタオルを手に取ろうとして。
そしてそのとき、すさまじい光と轟音が、世界を揺るがした。
開発室の天井が崩壊し、コンクリの破片がバラバラと舞い落ちる。
その「光」には、圧力があった。
天井に大穴を開けた「光」は、ぐいっとその穴を押し広げる。
「助けに来たぞ、ナギサ!」
「光」の向こうから、そんな声が聞こえた。
それと同時に、「光」は幾条もの槍のような形となり、一瞬の溜めの後、その穂先がボリスの胸板を刺し貫く。
ボリスは、何も言わずに、死んだ。即死だ。
馬鹿な。
馬鹿な。馬鹿な。
馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な。
……いや、これは夢だ。
これは間違いなく、夢だ。
悪い夢。ただの悪夢。
SRHMD酔いと、連日のテストの疲労が見せている、泡沫の夢。
「光」が爆発的に拡大し、俺はその光に飲み込まれていく。
全身を「光」に包み込まれた俺は、急激に意識が遠のいていくのを感じた。
だがそれでも俺は、これが夢であることを、祈り続けていた。