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鬼ごっこ

作者: えだらく

 目が覚めると、真っ白な世界が広がっていた。いや、私の意識は朦朧としていて、それが本当に「白」であるのかどうか、判断ができなかったが、限りなくそれに近い色をした風景が目の前に広がっている。

 上を見ても、右を見ても、前を見ても、そこにはなにもなかった。いや、ただ「白」が存在していたとも言えるかもしれない。下を見やる。

 自分自身の体が、透明だった。服など着ておらず、透明だった。しかし、自分の姿をそこに捉えることはできた。なぜなら、体の輪郭だけは、まるでボールペンでなぞられたように黒かった。黒い線で輪郭だけ描かれた自分の内部は、ただ透明で、そこから、また白い景色が広がって見えている。

 状況を飲み込むことができずただ呆然としていると、後ろから何かが勢いよく私を追い越した。それは黒い影のようなもので、走り去るその背中は人間の形をしていた。

 その瞬間、体の横から風が吹いた。それはきっと、黒い影が私を追い抜いたせいでできたものなのだろうが、それにしては強い風のようなものが、私の背中を押す。私はそれに浮き足立ち、気がついたら駆け出していた。

 一度走り出したら、止まらなかった。意味も分からず、私はただ彼を追いかける。

 「白」のその世界は、どこに何があるのか分からず、また、そもそもなにも無いようで、私の足元は覚束なかった。いくら足を動かしても変わらないその景色は、私の懐疑心を増幅させた。私は今、本当に走っているのか。

 いくら足を動かしても、自分の足が地面を蹴る感覚を得ることなどなかった。空中でただ、足を動かしているだけのようだった。それでも、足を止めたら彼がどんどん離れていってしまうことだけは、確かなようだった。

 不思議なのは、それだけではない。自分の足音も、彼の足音も、全く聞こえなかった。それどころか、空気抵抗なる風さえも感じなかった。彼が私を通り過ぎた時に感じた風は、もしかしたら錯覚なのかもしれない、と、私は思った。しかし、そのことに気づいたのは、彼の姿を再び視認したあとだった。それほどに私は無我夢中だった。

 走った。ただひたすらに、脇目も振らず。しかし、どんなに速度を上げても、彼との距離は縮まらない。彼は常に同じ大きさのまま、私から逃げている。

 そして心なしか、彼の走る姿は、どことなく私に似ていた。思えば、背丈や体格も似ている。しかし、そんな彼に、私は何故だか好感は持てなかった。憎しみに似た感情が、込み上がってくる。早く捕まえなければ。理由もないその願望は、憧憬とも呼べるかもしれない。彼を捕まえて、その後どうするかまでは、全く念頭になかった。

 駆け出して数十秒立つと、彼を見つめる私の視線のさらに先に、黒い何かが見えた。細長いその物体は、白い空間にぽつんと浮かんでいる。この世界に目覚めて初めて目にしたその無機質は、私が進むに連れて、どんどん大きくなってくるように見える。実際は近づいているだけなのだが、白い空間の中に浮かぶそれは、とても歪曲しているように見えた。

 近づいて分かったのだが、それは地面に突き刺さっていた。白い地面から、つくしのようにぽつねんと生えている。

 しかし、私はその黒い棒にかまっている暇などない。私は一度も足を止めることなく、少しも速度を落とすことなく、視線を黒い人影に戻した。追いかけなくては。

 はあ。はあ―。次第に息が切れてきた。いつ、追いつくのだろう。

 一度浮かび上がった焦燥感は、さらなる焦燥感を呼び、私を奮い立たせる。

 私は思わず、胸に手を当てる。自分の鼓動が、どれほど悲鳴を上げているのか知りたかった。しかし、私の右手から伝わるその脈拍は、限りなく平常を保っていた。私は落ち着く。息が切れていたのは心だけで、体は少しも疲れていなかった。思えば、私は汗一つかいていない。走りながらでも、通常のように呼吸ができた。

 風や、駆ける足の音もなく、いくら走っても疲れることもなく、足が、地面の感覚を得ることもなく、気づけば、嗅覚や味覚まで失われたこの世界で、確かなのは「白のような世界」が広がっているということと、黒い、影と棒。それから、自分自身の心臓の感覚だけだった。

 しばらく走ると、視界の先で再び、黒い棒が見えた。私の目の前まできたところで、私は走りながら、その棒を掴んでみる。引っこ抜こうとしたのだ。私の手はそれを掴んだ感触を得ることができなかったが、棒が少しだけ地面から伸びたことを私の目は捉えた。しかし、完全に抜くことはできず、その棒は私の手からするりと離れていった。

 いくら全力で走っても、一向に縮まらない彼との距離に、私は絶望しそうになった。周りを見渡す。しかし、そこには以前として、「白」しかなかった。そして、少しでも「黒」から視線を外せば、私は方向感覚を失うだろう。今の私のとって、彼はたった一つの指針だった。

 私は足を止めなかった。もはや、そうしていなければ、私はこの心臓の感覚さえも、失ってしまうような気がした。

 そして再び、黒い棒が見えた。しかし、それは今までの棒と少し違っていた。少しだけ長さが伸び、傾いていたのだ。私は、また手を伸ばし、引き抜こうとする。

 彼を追いかけている間、私はその作業を何度か繰り返した。黒い棒を見つけては、引き抜こうとする。

 その棒を見つけるたび、少しずつ、棒は伸びていた。

 しかし、黒い人影の大きさは、一向に変わらない。全く、距離が縮まらない。

 こうなれば。と、私はあることを思いつく。

 私の目が、再び黒い棒を捉えると、私はその棒を目掛けて、走る。近づき、今度は立ち止まって、その棒を引き抜く。

 目一杯の力を込めた。腕や、手が、その感覚を得ることはなかったが、とにかく、全力を注いだ。

 思ったよりも容易く、その棒は抜けた。少しも音を立てるとなく白い地面から解放され、自由になったその棒は、私の手に握られている。

 その根っこは、鋭く尖っていた。しめた、と思った。

私は、腕を大きく振り上げる。ただ、まっすぐ、まっすぐ、と念を込め、私はその棒を放り投げる。

 しかし、人影からしばらく目を背けていた私は、すでに方向感覚を見失っていた。本当にまっすぐ投げることができたのか、分からなかった。

 狙いは、彼に命中させることだった。この棒が彼に刺されば、と思った。

 数秒、私が呆然と立ち尽くしていると、自分の心臓の感覚に、異変を感じた。右手で、胸に触る。

 しかし、触覚を失った私の手は、胸に触れることはなかった。胸の少し手前で、止まる。

 胸を見ると、胸から先の尖った黒い棒が生えていた。そして、生え際に、赤いものが滲んでいた。

 血だ。

 私はそれに手で触れる。手のひらに、血液が付着する。白い世界に、赤い液体が浮かび上がっていた。

 私は気づいた。棒が、自分を背中から胸へ貫通していることに。

 しかし、痛みを感じることはなかった。ただ、白が赤にどんどん侵食されてゆく世界が、私の意識をさらに朦朧とさせた。

 ふと、背中から風が吹いた。久しぶりに得た感覚に、私の体は震えた。後ろを見やる。

 黒い影が、奇妙な笑みを浮かべて立っていた。

「捕まえた」

 それは、やはり、自分の顔だった。


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