私は父を愛している 1
決して華美ではないが、装飾や調度にはセンスの窺える謁見室には、厳粛な緊張感が漂っていた。
この館を支える柱のように等間隔に屹立した男共は皆厳しい顔で我々来訪者に圧迫感を与えてくる。
私にとっても、隣で畏まる徐曠にとっても息詰まる粘質の空気が唇を重たくする。
我ら二名は出来うる限りの虚勢と心魂で堂々と振る舞い、無人の野を歩むデート気分で太守の前に膝を折った。
「私は主、王崇姫の名代として参りました孔明と申します。隣は徐稚由と申す小者です」
左の脇腹に強烈な肘が叩き込まれたが、歯を食いしばって耐えた。おかしな振る舞いをして不興を買ってはいけない。
まずは、王韙から預かった贈品の目録を読み上げ、納めて下さい、と礼儀通りに事を進めた。
「私は辛揚飛。桂陽郡の太守を去年からやらせてもらっている若輩者だ。よろしく頼む。そうか。あの娘は直接来なかったのだね。仕方ない。いいよ。楽にしてよ。お前たちもむさ苦しい顔は止めるのだ」
彼女の一声で場の空気が軽くなった。
先程まで剣呑な表情であった柱は、空気の抜けた風船のようにしぼんで緩んだ。
中には、毛氈を敷いた床に座り出す物までいた。
ここの太守は、若さゆえか、随分とざっくばらんな物言いであり、悪く言えば馴れ馴れしいともいえた。
女太守辛鄒。
まだ二十にもなっていないだろうその容姿は、私から見ても十分な色香を感じた。
私と同道してきたおぼこい、いっそ童女といってもよい彼女などとは比べるべくもない、妖艶な顔立ちに豊穣な体を持ち合わせていた。
傾城と呼ぶならばこう言う女なのだろうと思わせる美貌である。
さらには、この時代の上流階級には珍しい、肌の露出の多い衣装である。普通の男は放っておかないところである。
彼女の言うところの「あの娘」とは、王韙のことで間違いはないだろう。
王韙の方でも因縁浅からぬ仲だということは聞かされた。
彼女は、「そうか、来てないんだ」と、呟くその声の響きからして、あからさまに落胆している様子である。
「早速ではありますが、用向きを……」
「いや、後にしよう。そんなに焦っても何も良いことなんて無いよ。そうすれば、趙の廉頗将軍も藺相如に詫びる事はなかったはずだよ。まずはご足労痛み入る。うまい飲み物でも用意させるよ。君は酒は呑めるのかい?」
「いえ、下戸です。連れもまだ成人せぬゆえ、酒は遠慮させて頂きます」
言う間に給仕の女が列席者に珍しいガラス製の湯呑を手渡して茶を注ぐ。
このようなもてなしはこの中華の流儀ではない。彼女流なのだろう。
型破りな人物であることは間違いなさそうである。
辛鄒の家臣はいたるところで車座を作り、盃を空けている。
ここはいつから宴会場になったのだろう。まるで、海賊の根城にでも迷い込んだような気分になる。
「硬いね。先程も述べたけども、気を楽にして欲しい。君達の来意は大体掴んでいるんだ。畏まる必要は一つもないよ。むしろ、私達は友人、いや、家族だ、というぐらいの気持ちで接して欲しいものだね」
無茶な注文を付ける。
それに関しては、初対面なのだから畏まれ、という方が、初対面で私と家族になれ、と言われるより自然で無理はない。
酔っ払ってくだを巻くオヤジが、「よう兄弟」などと馴れ馴れしく肩を抱くシーンを想起させられる。
「我々の来意を既に察しているということは、同盟には『諾』、という返答でよろしいかな?」
いきなりで、普通であれば不躾な質問であるが、彼女にはこれでよかろう。
「同盟? 何の話かな。亡命の間違いだよね。長沙の太守なんかと組んで何かを成そうなんて気はさらさら無いんだよ。私は。彼女がようやく長沙を見限ってうちに来てくれるんだと思って、あの『諾』を贈ったんだけどね」
王韙め。全然察してねえじゃねえかよ。思い違いも甚だしい。
「しかし、長沙が落ちて、桂陽一郡では、万庶の軍十万には抗しえないのではありませんか?」
「荊州にはまだ零稜郡もあれば、南には交州もある。蒼梧郡の太守とは友人だよ。それに、長沙なんかと違って、私は郡内の豪族はほとんど手懐けてある。彼らの部曲を駆り出させれば我が軍単体で数万の兵力は用意できるよ。弱小勢力と私を侮ってもらっては困るな」
知っている。
彼女が経済の活性化を行い、潤沢な財源を元に、多方面に働きかけて密かに勢力を伸ばしていることぐらいは調べがついている。
私としても見縊られたくはない。かまをかけるぐらいの事はするのだ。
「それでも、万庶は難敵であると愚考しますが」
「そうだね。それは認めるよ。彼は蛮勇も振るうが計算高いところもある。でもね。今の長沙を救いに行っても私達には何も利が無いんだよ。求められてもいないしね」
「私はそうは思いません。長沙の堅城に篭れば我等、数ヶ月は戦えます。冬を越え、万庶軍を疲弊させ、その上で策を以て太守に援軍を頂けるならば、内と外より挟撃できるのです」
辛鄒の綺麗に刈り整えられた眉根がグイと持ち上がり目が鋭角になる。
端正な顔は、こうなるといっそう冷たく感じる。
「君は本気でそんな事を言っているのか?」
「無論です」
「おい、この馬鹿の頭を冷やしてやってくれないか」
放り込まれたのは、小さな明り取り用の窓が東西に開けられた簡易牢のような一室だった。
もちろんお客を接待するような趣の場所では無い。
私と辛鄒の会話を興味なさげに聞いていた徐曠には、何が何やら分からないうちに事態が悪化してしまった、という気分だろう。
私を恨むのも無理はない。
「どういう事ですかコンチキショウ。なんで稚由がこんな暗くて汚い所に、暗くて汚い男と一緒に詰め込まれているんですかー」
「お言葉ですが、俺は暗いかもしれないが汚くは無い。むしろこの時代の一般的な衛生観からいえば綺麗好きな方だ。潔癖と言ってもいいくらいだぞ。俺が館に風呂を作らせた事はお前もご存知だろう。蒸し風呂だって垢擦りだって、俺は大好きだ。髪にも鬢付け油等ネトネトしたものは使わん。馬油石鹸だって手作りしている。手洗いうがいや歯磨きも日に三度はやっているんだぞ。服だってお洒落に数十着は用意している」
現代社会を経験した人間にとって、不衛生、不潔、というのはこの時代で一番耐え難いことではないだろうか。
支配階級の人間は別として、庶民は生活に追われ、そこらへんまで気にして生きてはいられない者が多い。
町を歩けば不快な匂いに遭遇するし、便所は汚い。
外食では不潔な店主が不潔な食器に不潔な料理を盛り付けて不潔な机に並べる。
確かに手間ではあるのだが、衛生環境を整えれば平均寿命を大幅に伸ばせることを彼らに説いて回りたい。
そういえば、長沙を発ってから丸一日、水も浴びていない。
余計な事を思い出してしまった。
なんだか、体が急に痒くなって来るような気がする。
このあたりは特に湿度が高い。猛烈に頭を引っ掻いてやって、欲求を逃すことにした。
「そんな事はどうでもいいです。それよりもどうしてこんな事になったんですかー。キリキリ答えて下さい」
「私にもよくわからん。が、彼女、思ったよりも気の短い人物だったようだな。読み違えたよ」
「要するにあなたの失敗って事なんですねー。この役たたず」
奥歯をひけらかして今にも食いつかんばかりの様相である。
幸いなことに武器類は取り上げられているので、バッサリと一刀のもとに惨殺される事は避けられた。
だが、ようく考えると、ボコボコに撲殺されるほうが十倍辛そうである。
「それ以外に何だと思ったんだ? この不潔チビ坊主。私の隣で震えていたくせに。緊張しすぎなんだよ」
しかし、売り言葉に買い言葉、ついつい失言してしまった私はボコボコに撲殺されかけた。
「それで、これからどうするんですか? 姫様との約束までに間に合わなかったら、本当に止めを刺します」
王韙の犯行予告である、明日の晩までには城に戻らねばならない。
ここからは馬を飛ばしても半日以上はかかるので、明朝には必ず発行せねばならない。
「そうだな。何もしない」
「今すぐに息の根を止めます」
彼女の主君とは違い、徐曠はこと個人の戦闘に関しての分析は冷静だ。
ここを破って逃げる、などと無謀なことは言わない。
いや、あながち無謀でもないか。彼女の武があれば、単身抜け出して番兵の得物を奪い逃走するぐらいの事はできそうである。
なぜそうしないのか。
それは、彼女が意外に事態を見る目がある事を示しているのだろうか。それとも、別に理由があるのだろうか。どちらだったとしても、このまま逃げても目的を達したとは到底言えない。
「んー、じゃあ、暇つぶしに問答でもするか。まずは俺からだ。ここの太守の印象はどうだった?」
「なんなんですか、問答って。そんなことでここから出れるんですか?」
「出れる出れる。いいから答えろ」
硬いベッドに半身を預け、薄い掛け布団をかき集めてもたれかかる。
「綺麗だった。あと、見たこともないような服装でした。異国風、って言うんですか? 嘩蓮も西域の先、羅馬国とかそんな衣装だけど、揚飛様は波斯国とかクシャーナ国とかの感じ?」
そんな国名が、このような中華の片田舎に住む彼女の口を割って出ようとは驚きである。
さらに、かの国々の衣装スタイルまでおぼろげながら見知っていようとは意外な博識である。
「うん。俺もそう感じた。あの少し浅黒い肌は東南亜細亜の人種でも、南亜細亜系のコーカソイドかマレー系のようだ。彼女はあっちの方の血が入っているのかもしれないな」
狭い室内で声を潜めている訳でもないので、ご苦労にも外にいるであろう見張りの兵士には会話は筒抜けであろう。
「それじゃあ、桂陽郡についてどう思う?」
「長沙に比べるとほとんどの地域が山岳地帯で住みにくそうです。交通もあまり良くは無いようです。でもでも、道が綺麗です。この郡都、郴は、古い部分と新しい区画が分かれていて、新造される家はみんなお洒落だと思います」
「太守が変わってから様式が一新されたんだろうな。この城も建て替えをしてるみたいだ。土木の人足をたくさん見かけた。随分と景気がいいみたいだな。ふん。交通が不便という事は普通、交易も盛んではないだろう。塩や茶の産地でもないしな。でも、町には商人が行き交っていた。では、何をどこに売っている?」
これまですらすらと回答を示していた彼女も、この質問には思案顔。人差し指で顎を傾けるようにしている。
「険路を避けて北の方、長沙方面への商いではなく、南に売っているんじゃないですか?」
聡い。
無学で両親に放り出された子供とは思えないほど、物を知っているし、知恵もある。
おまけに字まで読める。
後漢時代の識字率は高いが、まだまだそこいらの百姓や町人を捕まえてきても、到底自由に文字を扱えはしない。
「そう、そうだ。交州へ抜けて番禺へ出る。そこからは海路。インドや地中海方面にでも交易してるんだろうな。あとは、何を、の部分が問題だな。まあ、私には大体の見当はついたがな」
「へえ、海、ですか。見たことないです。見渡す限りの水なんですよね。長江より、洞庭湖よりも広いんですよね」
私の前ではいつもツンと澄ましたようにしているが、好奇心に目が輝いている。
彼女もそうしていると年相応の子供に違いない。
この小旅行の間に少しは打ち解けてきたようである。
ここへ至る道中は非道かった。事あるごとに喧嘩しては謂れ無き虐待の数々を私だけ一方的に被ってきたのだ。
まあ、懲りない私もどうかと思うが性分なので仕方がない。このうるさいお荷物をどれほど途中で置いていってやろうかと何度考えたことか。
実際、おいてけぼり未遂もあったが、発覚してドロップキックを喰らっただけで終わった。
「長江なんかよりよっぽど広いぞ。長江も最後は海に流れ着くんだ。そうだな、例えるなら、お前の髪の毛一本が長江で、頭が海だ。それぐらい広い」
「なんか嫌な例え方です。さりげない悪意を感じ取れます。それならば、手の皺と手の対比でも良かったはずです」
「それは思いつかなかっただけだ。言いがかりはよして頂きたいものだ。じゃあ、言い変えよう。お前の剃り残したすね毛と体型の割に意外と太い足ぐらい違う」
閉じられたドアの向こうから、クスクスと押し殺した笑い声が漏れてくる。
いい具合である。
「私みたいなかわゆい娘にはすね毛なんて生えません。完全に喧嘩を売ってますね」
「売ってない。単に思ったことを言ったまでだ。それに、すね毛が生えないなんて訳が無い。誰にだって生えるだろう」
「長江と海の対比など既に関係なく、ただ単にコケにしたのだと理解していいんですね。ぼっ殺していいんですね」
「ダメだ」
「ダメじゃないです」
私達の仲は確実に深まっている。